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灰と王国  作者: 風羽洸海
第二部 竜と竜侯
53/209

2-5. 青葉


 岩の上を白く泡立つ流れが走り、緑青色の澱みに落ちてゆく。昼の陽射しにはまだ夏の名残があるものの、水はあまりに冷たく、長くはとても浸かっていられない。だがフィンは、その冷たさを意識しながらも、内側から温めてくれる光のおかげで凍えもせず泳ぎ続けていた。

 他の仲間達は既に、河原に焚いた火のまわりに集まっている。サルダ族から貰った果実酒を飲んで温まっている者もいるようだ。火は川下のほうでも焚かれており、サルダ族の男達が今日の獲物を解体している。

 小さな滝の上からは、女達の声が届く。集めた果実や野草を洗い、黍を炊いて、食事の支度をしているのだ。

 彼らは低地の帝国人と違い、畑や牧場をほとんど持たない。栽培するのは主食の黍と豆ぐらいで、それもごくわずかだし、飼うのは狩猟の相棒である犬だけだ。その暮らしに低地人一行は少々まごついたものの、村人から礼儀正しくよそ者扱いされたため、数日すると自分達なりの居場所に落ち着くことが出来た。

 村の共同作業に加わるなどして無理に溶け込む必要はなく、互いの距離を保ちながら求められる仕事をこなす――それが暗黙の了解となった。

 今日も、サルダ族の男達が狩りに行っている間、フィン達は村から峠の街道まで森の中を歩き回り、軍団兵の足止めに適した場所を下調べしていた。慣れない山歩きで汗だくになり、何人かが滑って土にまみれたため、戻って昼食にする前に川へ飛び込んだわけである。

 川底には小さな丸い石がきらきら光っている。フィンは冷たい流れに逆らい、底まで潜ってゆく。ナナイスの海で覚えた泳ぎには自信があったが、川の水は海とは別の生き物のようだ。

 目当ての石を取るよりも早く、水の重さに頭が痛くなってくる。仕方なく適当にひと掴みして、水面に逃げ帰った。ザバッと浮き上がると同時に、川上から楽しげな笑い声が降ってきた。その中からレーナとネリスの声を聞き分け、フィンはふと微笑む。

 レーナは最近、ネリスやファウナから女の仕事をあれこれ教わっていた。竜がそんなことをしなくても、とフィンは言ったのだが、レーナは笑って答えたのだ。

「せっかくこうして姿を現していられるんだから、何でもやってみたいの。それに、人間のふりができたら、きっと……その、便利なこともあるでしょう?」

 何か他にも目的があるような風情だったが、まぁそれなら、とフィンは引き下がった。覚えは早いし不器用でもないので、作業そのものの習得は早かろうと踏んだのだ。それなら、教える方にもあまり負担になるまい。

(もっとも、人間になりすますのは無理だろうな)

 無邪気な声に耳を澄ませながら、そんなことを思う。彼女の無垢な輝きは、人の姿を取り、人と同じことをしていても、決して隠せない。何十年か人間社会で暮らして世間ずれした後なら、少しは違うかもしれないが。

(……いや、でもやっぱり、レーナはレーナのままだろう)

 手を広げて、適当に取ってきた石を眺める。歳月をかけて洗われ、削られ、磨かれて、つややかな宝玉のようになった石。だがその本質は何も変わっていないのだ。

「おいフィニアス、いい加減に上がって来いよ! おまえの服、火にくべちまうぞ」

 いきなりヴァルトが呼んだ。笑いを含んだ不吉な口調に、フィンは慌てて岸へ向かって泳ぎだす。燃やされないまでも、冗談で焚き火にかざして焼け焦げを作られてはかなわない。

 ――が。

「うわっ!?」

 悪戯は予想を超えていた。焚き火を囲んでこちらを見ている仲間達の、にやついた顔、顔、顔。その向こうに、サルダ族の少女が立っていたのだ。

 フィンは岩に登りかけていたが、素っ頓狂な声を上げるや、つるりと滑って川に逆戻りした。派手な飛沫と共に、仲間達の笑い声がどっと上がる。

 咳き込みながらフィンが頭を出すと、少女は間近に来ており、岩の上に膝をついてこちらを覗き込んでいた。歳は十七ほどだろうか。長い銀髪の両脇を編み、後ろはひとつに束ねている。目は青霧と同じ、細かな黄金をちりばめた灰色。清楚ながらも仄かな色香の漂う美少女だが、生憎今のフィンは鑑賞する側ではなく、される側だった。

 赤くなって困り果てているフィンを、少女は無遠慮にじろじろ見ながら言った。

「帝国人は、裸を見せるのも平気なんだって聞いたけど、違うの?」

「誰がそんなことを」

 フィンは唸って、押し殺した笑いに震えているヴァルトの背中を睨む。すると少女は、ついと手を伸ばしてフィンの顎に指をかけ、強引に自分の方を向かせた。

 反射的にフィンはその手を払った。奴隷を品定めするかのごとき扱いを受け、羞恥よりも怒りがまさったのだ。元から厳しい目を一段と険しくして、少女をねめつける。だが相手は怯まなかった。

「なあんだ。デイアの竜侯だって聞いて期待してたんだけど、がっかりね。てんで子供じゃない」

「…………」

 何なのだ、いったい。なぜ初対面の、恐らく自分より年下の少女に、こんな見下した物言いをされねばならない?

 フィンが言葉を失って反撃も出来ずにいると、川下から青霧が助けてくれた。

「青葉! 皆の手伝いもせずに、何をしている? フィニアスをからかいに来たのなら、もう気が済んだろう」

「はぁい」

 途端に少女はころっと態度を変え、鹿が跳ねるように立ち上がって、青霧の方へ走っていった。彼女が何やら向こうで話している隙に、フィンは大急ぎで岸に上がり、濡れた体をろくに拭きもせず、ヴァルトの手から服をひったくって身に着ける。

 まだヴァルトがひくひく笑っているので、フィンはとうとう堪忍袋の緒を切らし、抑えながらも厳しい声を出した。

「ヴァルト! いい加減にしてくれ、あんたがデタラメを吹き込むせいで、ただでさえネリスが悪い影響を受けてるんだ! 俺をだしにして遊ぶにしても限度がある!」

「おーや、とうとう俺も呼び捨てか。こりゃ失敬、指揮官殿」

 ヴァルトが厭味たらしく応じたが、幸いそこに悪意は感じられなかった。フィンはわずかに怯んだものの、いまさら丁寧に言い直しはせず、ただ苦い顔で低く唸った。

 フィンが指揮官になったのは、村に着いたその日のことだった。青霧が言い出したのだ――軍団兵の襲撃に際して、指揮はフィニアスが執れ、と。理由はいくつかあった。

 レーナのおかげで闇の中でも状況を把握できること、滅多に死なないので指示が途絶える心配がないこと。口調や行動様式が軍団の習慣に染まりきっていないので、正体を推測されにくいこと。

 むろん当面はヴァルトと青霧が補佐をするし、今はまだ敵が山に入って来ないため、一度も襲撃を行っていない。つまり指揮官とは言っても、単に便利だからとその座に据えられただけで、しかも実態は年長者に助けられている生徒にすぎないのだ。

 フィンはやれやれと頭を振り、小さくため息をついた。

「分かってるだろう、俺はあんたの上からものを言ってるわけじゃない」

「ああ、分かってるとも」

 ヴァルトはにやにやしながらフィンの足を荒っぽく叩いた。

「おまえは単に頭に来ちまっただけだよな、坊主」

「…………」

 その扱いも気に障るんだが、と言いたいのを飲み込み、フィンはどうにか苦笑を浮かべて火のそばに腰を下ろした。指揮官殿、あるいは竜侯様と呼ばれようと、逆に小僧だの坊主だのと呼ばれようと、ムッとくるのは同じだ。だったらいちいち気にするだけ損というものだろう。

 そんなフィンの忍耐が分かっているのかいないのか、横でヴァルトがあっけらかんと言った。

「そうそう、裸がどうこうってのは俺が悪いわけじゃないぞ。あのお嬢ちゃんが遠慮してるみたいだったから、帝国の考え方を教えてやっただけさ。街に行くと素っ裸の神様の像があちこちにあるんだが、人間が一番理想的で立派なのは衣服でごまかしてない姿だ、って考えられてるからなんだぜ、って、うお!」

 語尾の奇声は、フィンに頭を殴られたがゆえの叫びだ。フィンはもっと早くこうしてやれば良かったと後悔しつつ、今までのツケも清算してしまいたい誘惑と戦っていた。

「クソこの野郎、いっぺん遠慮を捨てたら容赦ねえな。年長者に向かって」

「敬意を払って欲しければ相応の態度を取ってくれ。神々の姿と普通一般の人間とを一緒くたにするような不敬は慎む、とか。俺だって年長者を殴りたいわけじゃない」

「一緒くたにしたもんか、俺はただ事実を説明しただけだ。俺たち人間は神々じゃないから裸が恥ずかしいんだ、ってな締めくくりを用意してたのに、おまえがその前に出て来たんじゃないか。俺は別に、竜侯様の尻が完全無欠だとは……ああ分かった分かった、悪かった、だからその拳を引っ込めろ!」

 まったく近頃のガキは、などとヴァルトが聞こえよがしにぼやく。フィンはじろりとひと睨みしてから、対抗するようにため息をついた。

「近頃の大人は、親子ほど歳の離れた相手に殴られるような……」

「誰が親父だ」

 途端に鋭く割り込まれ、フィンはおやと眉を上げて振り返った。見るとヴァルトは渋面どころか、深刻な怒りと嫌悪に顔を歪めている。どす黒い感情の滲み出るのが、竜の視力に頼らずとも見えるようだ。

(しまった)

 古傷に短剣をねじ込んでしまったか、とフィンは後悔する。だがヴァルトの怒りは別のところにあるようだった。フィンの表情から内心を読み取ったのか、彼はふとその気迫を消し、単にぶすっとした顔になって焚火に枯れ枝を投げ込んだ。

「おまえの親父はオアンドゥスだろう」

「…………」

 奇妙な態度の理由が分からず、フィンは無言でうなずくと、こっそり肩を竦めた。見ようと思えば恐らく、ヴァルトが何にそれほど怒ったのかを知ることは可能だろう。だが人が隠している本心を勝手に暴くのは礼儀知らずだし、何よりろくな結果にならない。

 フィンは手近な枝を取り、火をつついて気まずさをごまかした。

「そういえば、そのおじさんは今どこに?」

「マックと一緒に女達のところへ行ってる。鍋やらあれこれをこっちに運んでくるのは、女手だけじゃ厳しいだろうと言ってな」

「ああ……道理で」

 フィンが岸に上がるのを、誰も止めてくれなかったわけだ。味方がここにいたら、ちょっと待てと制止するか、せめて岩のところまで服を持って来てくれただろうに。

 彼はやや憮然としながら川下を見やり、青葉と呼ばれた少女が笑顔で青霧に手を振って、川上へ走って行くのを眺めた。軽やかな足取りに合わせて銀の髪が揺れ、スカートの裾がひらりと舞ってしなやかな脚が見え隠れする。

(きれいだな)

 ようやく鑑賞する余裕が生じてそんなことを思った直後、当の青葉がちらっと振り向いた。そして案の定、小癪な笑みを見せつけてくれる。軽侮どころか、憐れみまで浮かんでいるような。

 フィンが顔をしかめている間に、彼女は木立の向こうへ姿を消した。

「気の毒にな、フィニアス」プラストがぼそりと同情した。「すっかりあの娘に侮られたらしい。名誉挽回は難しそうだぞ」

「挽回しなくても構いませんよ」

 むっつりとフィンは唸り、本当にいったい何なんだ、と心中ぼやきながらも、視線は彼女が去った辺りへ釘付けになっていた。


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