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灰と王国  作者: 風羽洸海
第二部 竜と竜侯
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2-3. 山脈の夜


 その夜、フィンは青霧に稽古をつけて貰うことにした。

 コムリスに落ち着いてからも我流の稽古は欠かさなかったし、仲間と手合わせもしていたが、しかし、盾も鎧も売り払った元軍団兵たちは真剣味に欠け、手元に残った唯一の剣や弓が再び役立つとは思っていない様子だった。もう軍団には戻れまいと考えたのだから無理もないし、フィンも平穏な暮らしを望んでいたので、精神的にも肉体的にも少しばかり緩んでいたのは否めない。

 その点、青霧は厳しかった。

 彼が教えるのは、軍団の流儀とも、フィンがかつて教わったヴィティア人の古剣術とも違う、荒々しいサルダ族の戦い方だ。

 しばらくは剣を使っての稽古を続けたが、やがて仲間が一人二人と眠りにつくと、青霧は音を気にして、素手での戦い方に変えた。いずれにせよ派手な立ち回りは出来ないので、ひとつひとつの動きをゆっくり丁寧に、静かに行うことになる。馴染みのない動作についていくのがやっとのフィンにとっては、ありがたい限りだった。

 青霧が素手でも恐るべき相手だと知る頃には、フィンはすっかりへとへとになっていた。彼は草地にひっくり返り、息を切らせてささやいた。

「古い警句を思い出しました。サルダ族が手ぶらでも決して油断するな、って」

「その両手はおまえの命と金のために空けてあるだけだ、か? いくら我々がすぐれた山賊でも、金はともかく命を手づかみに出来るとは思えんがな」

 青霧は気を悪くした風もなく、低く笑った。フィンは曖昧な表情をしただけで、黙って夜空を見上げる。月がないので星が眩しいほどだ。

 フィンは無意識に星座の形を探しながら、ふと思いついて言った。

「ひとつ、お願いが」

「なんだ?」

「あなたの歳のこと、俺の家族には……出来れば、知らせずにおいて貰えませんか。今はまだ……」

 語尾を濁したフィンに、青霧はじっと視線を注いだ。そして、ふっと微かに苦い笑みを浮かべる。

「分かった。だが、あえて隠しはしないぞ。いずれ知られることだ」

「ええ」

 短く答えて、フィンは起き上がった。焚き火のまわりで眠っている家族を見やると、胸の締めつけられる思いがした。あの暖かい炎のそばに、自分の居場所がもうなくなってしまったような……光の輪から外れ、さりとて闇に沈むでもなく、両者の境でぽつねんと膝を抱えているような、漠然とした孤独感。今はまだ手を伸ばせば、家族に届く。けれど、いつか……

(やめよう、そんな先のことを考えても仕方がない)

 フィンは頭を振って、小さく嘆息した。今から悲観的になっても、未来が変わるわけではない。どうせいずれ味わうことになるのなら、それまでは苦い離別など、どこかの物置に投げ込んで鍵をかけておけば良い。

(少なくとも、今は一緒にいられるんだから)

 フィンが気を取り直したのが分かったのか、青霧が唐突に話を変えた。

「おまえはサルダ族と戦った経験があるのか?」

「え? いいえ、まさか。一度ナナイスで見かけたことはありますが、口をきいたのも、手合わせしたのも、あなたが初めてです」

 きょとんとしたフィンに、青霧はふむと興味深げなまなざしをくれた。

「では、素質に恵まれているのだな。飲み込みが早い。この冬の間に、我々の戦い方をすっかり学んでしまえるかも知れんぞ」

「そうでしょうか」

 フィンは訝しげに首を傾げただけで、褒められたことに気付きもしなかった。

「剣術を教えてくれた兵士も、覚えが早いとは言ってくれましたが……型を覚えるのは簡単でも、習熟するのはまた別ですよ。俺のなんか、ただの真似事です」

「だとしても、学ぶのが遅いよりは良かろう。自分の体を思い通り動かせるようにしておくのは、大切だぞ。竜の力にばかり頼る癖がついたら厄介だからな」

「……はい」

 フィンは神妙にうなずき、暗がりへ目を転じた。

 昼間に休憩した岩場と似たような場所だが、ここは近くに木立が迫っている。かすかな星明りで岩がぼんやりと白く浮かんでいるが、その向こうは濃い闇だ。かつてならそのことに怯え、もっと明かりをと切実に求めただろうが、今は違う。

(レーナのお陰だ)

 警戒するのは野生の獣ぐらいだと思えば、見張りも気楽なものだ。

 そう考えて口元をほころばせた、まさにその時だった。

 キシッ……

 異質な音が夜の闇を、ほんのわずか引っかいた。フィンはぎょっとなり、腰を浮かせて剣を握る。闇の中に、ぽつんと青い光が灯っていた。

「どうして……!」

 喘ぐようにささやいたフィンの隣で、青霧は平然と座ったまま動かない。じきにフィンも様子の違いに気付き、眉を寄せた。

 キシッ……カリ、カリ、……キシッ

 小さな音を立てながら、青い灯がうろうろと行き来する。だが、近付いてくる様子はない。そして、これまで必ず感じていた恐怖も寒気も、フィンのところまで忍び寄っては来なかった。

 フィンが当惑している間に、青い灯はふっと消えた。まるで、それこそキツネや狼がこっそり様子を見に来ただけのように、たわいなく。フィンは拍子抜けして、どさりと腰を下ろした。

「何だったんですか、今のは」

「闇の獣だ。知っていると思うが」青霧がとぼける。

「俺が知っているのとは違います」フィンは真面目に答え、首を捻った。「憎悪も寒気も感じられなかった。今まで出くわした奴らは、必ず凄まじい勢いで襲いかかってきたのに。一回だけ例外はありましたが、その時だってあいつが近寄ってきたらまつげに霜がついて、魂まで凍ってしまいそうでした」

「そう。つまり、低地のものと、山のものとは違うのだ」

 青霧はうなずいて、周囲に視線を巡らせた。

「見ての通り、山の中では太陽の光が充分に届くわけではない。夏の真昼でさえ闇は常にあり、我々と共に生きてきた。いや、我々のほうが闇に遠慮しながら住まわせてもらってきた、と言うべきかな。だから、山にいる闇の眷属は人間に激しい憎しみを抱いてはいない。むろん仲の良い隣人ではないが、匂いを嗅いだだけでお互い牙をむいて唸りだすような間柄ではない」

「まるで別の世界ですね。この目で見ていなければ、とても信じられない」

 フィンは嘆息し、それからはっと気付いて「そうか」とつぶやいた。

 だから、サルダ族は下界の人間が山に入るのを嫌うのだ。低地と同じように、夜の闇が間近に迫るのを受け入れず煌々と明かりを焚き、見つけるはしから闇の獣を追い払い傷付ければ、いずれ彼らも人間を憎むようになる。そうなったら、迷惑するのは山に住み続けているサルダ族だ。

 ディルギウスの第八軍団が峠を越えるのを遅らせたいのも、単に身内の義理ではない。これから次第に夜が長くなり、闇の力が増す。その中を強引に行軍したのでは、闇の獣と軍団との衝突は苛烈なものになるだろう。

「理解してくれたようだな」

 青霧が微笑み、フィンは小さくうなずいた。

「ここでは、俺たちが闇に対して頭を下げなければならないんですね」

「そういうことだ。おまえの仲間にも言い聞かせておいてくれ」

 頼まれてフィンは素直に「はい」とうなずいたが、ふと、なぜ俺なんだろう、と怪訝な気分にとらわれた。むろん竜侯同士で話しやすいからとか、たまたま稽古をするついでだとか、それなりの理由もあるだろう。だが、自分は仲間達の代表ではない。むしろ軍団での肩書きや実戦経験、年齢から言って、ヴァルトの方がその座に相応しいのではないか。

 軍団の偉い人だったのかい、とかつてマックに問われたことを思い出し、フィンはひとり、ちょっと頭を掻いた。

「何か不都合でも?」

 青霧が、おや、というように尋ねる。フィンは「いえ」と答えてから、小さく肩を竦めた。

「もしかして俺は態度がでかいのかなと思って」

 思考の道筋が辿れないと、唐突に思われる言葉だ。青霧は束の間きょとんとしたが、じきにふきだした。危うく大声で笑いそうになり、なんとかそれを堪える。

「そうではないさ。おまえは落ち着いているし、物分りが良いから頼み事をしやすいだけだ。尊大でも横柄でもない。安心しろ」

「そうですか」

 なら良かった、とフィンが安堵すると同時に、ふわりと心にレーナが触れた。

〈そうよ。フィンはとてもきれいだもの〉

〈……いや、それは……どうかな〉

 フィンは苦笑した。彼女の言う“きれい”が、内面であれ外見であれ、単に美しいという意味ではないと今では分かっているが、普通の人間が彼女のように他人を見ることはありえない。まわりの人間がフィンをどう評価しているにせよ、彼が“きれい”かどうかは、あまり関係ないだろう。

〈でも、ありがとう〉

 礼を言うと、逆になにやら照れたような感情が伝わる。思わずフィンは微笑み、それからはっと青霧の凝視に気付いて表情を取り繕った。青霧が失笑し、フィンを通してレーナを見るかのように、遠い目をする。

「デイアの竜とはいい関係のようだな」

「ええ、まあ」ごにょごにょとごまかし、フィンは相手に話を振る。「そういえば、あなたの竜は姿を見せてくれませんね」

「悪いが、あまり人付き合いの良くない奴でね。俺とて、姿を見た事は数えるほどしかない。それに何しろ、闇の竜だからな。闇の獣と同じで、そこにいることは分かっても姿形まではっきり見えることがない」

 言われてフィンはナナイスの夜を思い出し、たじろいだ。人の目は闇を見通すことが出来ない。だから、獣の目は――あの青い光は見えても、輪郭まで見えることはないし、たまに光の届く範囲に出てきた時でも、見つめれば見つめるほど、わからなくなってしまう。

 フィンは改めてしげしげと青霧を眺め、この男はどうやって、そんな竜と絆を結んだのだろうと不思議に思った。だがそれを訊くのは礼儀に反するような気がして、彼はただ黙って目をそらし、闇の奥を見つめていた。


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