2-2. 力の片鱗
山の奥深く分け入り、少しずつ土地が高くなるにつれ、空気が爽やかに澄みわたる。早くも秋の香りが清々しい。残暑厳しい下界から登ってきた一行には、この数日で季節をひとつ飛ばしてしまったように感じられた。
青霧の依頼があってから七日余り。結局フィンたちは、ファーネインをオリアとニクスに託し、風車の管理を近所の住民に頼んで、ピュルマ山脈へ移動していた。十人に減った元軍団兵と、フィンの一家、それにマックが一緒だ。もちろんレーナも。
道らしい道のない岩場を歩きながら、ずっと足元に集中していたフィンが、ふう、と息をついて立ち止まる。
高い青空を仰ぎ見た視線の先に、白い雲にまじってひとひらの花弁のようなものが、楽しげに舞うのが映った。フィンが目を細めると同時に、それはふわりと上昇して雲の中に姿を消し、それからいきなり、一行の上空に現れた。
「フィン!」
喜びに弾けるような声と共に、白い花弁は見る見る大きくなり、ぐんぐん迫ってくる。ひらひらして見えたのが実は巨大な翼をもつ生き物だと判別できる頃には、もうそれはほとんど視界いっぱいに広がっていた。
危害は加えられぬと分かっていても、他の仲間たちが身構え、慌ててフィンから遠ざかる。空いた場所に地響きを立てて着地するかに見えた寸前、白い巨大な竜は一瞬でかき消え、それこそ羽根でも落ちるがごとくにふわりと音もなく、少女の姿でフィンの傍らに降り立った。
「見て、雲の中にあったの! ほら!」
頬を紅潮させてひらいた両手の中には、小さな氷の結晶があった。地上の熱に晒されて、見る間に溶けてゆく。あ、と残念そうな顔をしたレーナに、フィンは小さく笑った。
「冬になったら飽きるほど見られるさ」
「それもそうね」
レーナはすぐに笑顔になり、フィンの横を踊るような足取りで歩き出す。
山奥に入って他人に見られる心配がなくなると、レーナはほとんど一日中姿を現しているようになった。そして、仮に姿を見られてもそれが竜だとは判別つくまい、ついたとしても竜侯の存在までは分かるまい、とフィンが確信すると、それからは空を飛びまわって自由を満喫していた。
レーナの楽しい気分は一行にも伝染し、険しい山道を歩く足を少しばかり軽くしてくれた。ほんの最初だけ、まだ何人かは戸惑いと遠慮を見せたが、じきに皆が彼女を見て目を細めるようになった。
ふわりふわりと軽やかにあちこちを行き来し、緑の空気をいっぱいに吸い込んだり、せせらぎの飛沫に手を浸して歓声を上げたり。その姿が無垢な幼子のようで、すっかり世の中に擦れた男達の心まで、いっとき柔らかく変えてしまうのだ。
先頭に立って道案内をしていた青霧が、口元をほころばせて、休憩にしようと告げた。思い思いの場所に腰を下ろした一行の間を縫って歩き、彼はオアンドゥスとファウナのところへやって来た。
「すまないことをしたな。ようやくあの町で仕事と住処を得られたところだったと聞いた」
「気にしないでくれ」オアンドゥスは苦笑した。「どうせ、秋から冬になれば粉挽きの仕事も減る。特に冬は風が強すぎて羽根を畳むしかない日が多いんだ。こっちにしてみたら、何も損はしていないさ」
「だが無理に息子について来る必要はなかった。山の冬は厳しいぞ。よほど俺たちサルダ族を信用していないのか、それとも……過保護なのかな」
言葉尻でからかう気配を見せた青霧に、オアンドゥスはむっとなった。横からファウナが代わって答える。
「あの子が心配なのはもちろんですけどね、それよりは、離れ離れになってしまうのが怖いんですよ。だって、春になったら無事に仕事を終えて帰ってくる、って保証はないでしょう? 逆に、あの子が無事でも、町に残った私たちの方が、何か不都合なことになっているかもしれませんからね。出来るだけ家族一緒にいて、お互いを助け合わなくちゃ。信用してるとかしてないとか、そういうことじゃないんですよ」
説得力のある言葉に、オアンドゥスもどうだ分かったかとばかりの顔をする。青霧は一見真面目に「なるほど」と納得してうなずいた。だが、
「家族か」
つぶやくように言ってフィンの方へ振り向けた目には、わずかばかり、皮肉っぽい色が浮かんでいた。
当のフィンはその視線には気付かず、ネリスとレーナを見ていた。ちょうどネリスが、そこらにあった薬草についてレーナに説明しているところだ。
「これは血止めの薬になるんだよ。生でも使えるし、乾かして粉にしたのを湿らせて貼り付けてもいいし、煮汁を蜜蝋と練って塗り薬にしてもいいの。あたしも塗り薬は少し持ってるんだ」
「ネリスが作ったの?」
「うん。フェンタス様が教えてくれたから」
ネリスはまだ見習い神官で知識も経験も足りないが、教わった内容そのままの受け売りでも、レーナはいちいち感心している。そんな二人をフィンは微笑ましく眺めていた。
と、ネリスが振り向き、妙な表情をしたかと思うと、フィンのそばへやってきて座った。どうした、とフィンが問うより先に、ネリスは小声で、曖昧な態度のまま言った。
「オリアさんのこと、残念だったね」
「……いや、俺は別に」
フィンは目をしばたいた。そう、確かに、平和な南部の田舎でオリアと所帯を持つ、という夢が浮かぶと同時に潰えてしまったのは、残念だった。だがあまりに短い夢だったので、彼の中でオリア個人に対する思いが育つ時間もなかったのだ。いったん諦めてしまえば、残る未練もない。
そんな彼の態度に、ネリスは胡散臭げな顔をした。
「お兄、それ本気で言ってるの?」
「ああ」
「っ……、朴念仁の馬鹿兄貴」
あーあ、とばかりにネリスは唸り、頭を振った。処置なし、と言いたいのだろう。フィンは黙って肩を竦めた。
じきにネリスは気を取り直し、うんと伸びをした。
「まあ、お兄だから仕方ないか。やたら堅くて古臭くて味気なくても」
「俺は店ざらしの古パンか」
「あ、それいいかもね。食べられたものじゃない、って感じ」
フィンの渋面をネリスは笑い飛ばし、それからレーナを振り向いた。
「ねえ、本当につくづく不思議なんだけど、レーナはお兄のどこら辺が好きなの?」
返事を期待するわけではない、単なる皮肉のための質問だった。どうせ答えがあるとしても、いつものように、だってきれいだから、と言うに決まっているのだ。が。
「えっ」
なぜだか今日は、レーナは言葉に詰まって瞬きし、急に赤くなった。その反応に、ネリスとフィンも目をぱちくりさせる。ネリスは、久々にまた何か噛み合わない捉え方をされたかな、と小首を傾げた。
「えっと、つまりほら、あたしにはどうしても、お兄がきれいだっていうのが納得いかないんだけど」
説明されて、レーナはいささか動揺した態度のまま、「あ、そのことね」とあたふた答えた。
「人の言葉にするのは難しいわ。ネリスは、どういうのが『きれい』だと思うの?」
逆に問い返されて、今度はネリスが返答に窮した。うーん、と唸って腕組みし、榛色の目を天に向ける。レーナは小さく、ほっと息をついた。そんな態度を観察していたフィンは、不審に思って声に出さず問いかけた。
〈どうかしたのか?〉
途端にレーナが、ぴょんと跳び上がった。意識の中でのみならず、実際に体のほうまで。フィンが目を丸くし、レーナは真っ赤になる。
お互い何やらばつが悪くなりかけたところで、思わぬ助けが入った。
「おーい、お嬢ちゃん」
ヴァルトが呼び、ネリスが身を捻って皮肉な返事をする。
「お嬢ちゃんは二人いるんですけどぉ?」
「飛べる方のお嬢ちゃんだ」
来い来い、と手招き。ネリスは口をへの字にして、ぼそっと「名前を呼べっての」とぼやいてから立ち上がった。
「何か呼んでるよ、レーナ。行こう」
レーナは助かったとばかりこくこくうなずいて、小走りにヴァルトの方へ急ぐ。フィンも首を傾げながら、後についていった。
ヴァルトは三人を見上げて呆れ顔をした。
「なんだ結局ぞろぞろ来たのか。まあいい……なぁ、お嬢ちゃん、ちょいと火を起こせないか?」
「火?」
きょとんとしてレーナは首を傾げた。見ると、ヴァルトの前には枯れ草と小枝が寄せ集められている。彼はナイフの先にチーズの切れ端を突き刺して、ぶらぶらさせた。
「小腹が空いたんで何かつまもうと思ったんだよ。ところがすぐ食えるのはカチコチの古いチーズだけと来る。こいつをそのままかじるより、ちょっと炙れば美味いだろうと思ってな。幸い今日は風も穏やかだし、この辺りは岩場で山火事の心配もない。お嬢ちゃんなら、軽くフッと一吹きすりゃ済むかと思ったんだが」
どうだい、とヴァルトはレーナの顔を覗きこむ。ネリスは呆れて、火打石を貸しましょうかと厭味を言おうとしたが、より早くレーナが困惑気味の苦笑をこぼした。
「そうしたら、この辺り一面、大地まで融けてしまうわ。もちろんあなたも、そのチーズもね」
「……それじゃ困る」
ヴァルトは憮然とし、チーズを睨んで思案した。どこぞの兄貴のようにかちこちで味気ないチーズをそのままかじるか、面倒でも火打石と火口を引っ張り出して一手間かけるか。
長く悩む必要はなかった。レーナがフィンを振り返り、思いがけない言葉を口にしたのだ。
「フィンなら出来るわ」
「え?」
レーナ以外の全員が異口同音に聞き返した。たまたま近くに座っていたマックや、オアンドゥスたちまでがこちらに目を向ける。一斉に見つめられて、フィンは困り顔になった。
「それは……大昔のロフルス竜侯は炎を操れた、と文献にあったが、レーナ、君はデイアの竜だろう?」
むろんフィンの場合、では光なら操れるのかと言われたら、やはり否であるのだが。
しかしレーナはにこりとして、フィンの手を軽く引き、ヴァルトの前に連れて来た。
「光と炎はよく似たものなの。もちろん、ゲンス様の一族ほど上手には扱えないけれど、ちょっと火を起こすぐらいなら出来るわ」
〈大丈夫よ。フィン、絆に意識を集中させて〉
レーナの声がささやく。フィンは戸惑いながらも、その声を頼りに自らの内を意識した。剣の練習をする時のように心を静めると、精神の奥へ通じる扉が開いた。
今はそこに、どこまでも果てしなく続く深い泉があった。気の遠くなるような彼方から、光がこぽこぽと湧き出ている。
〈そう、力を感じて。ほら……あなたの中に〉
フィンは無意識に目を閉じていた。光の流れが己の体の隅々まで行き渡っているのが、鮮やかに感じられる。意識すると、その流れが揺れ、心地よい音を立てた。
〈少しずつ外へ出すの。細い流れを……そう、それを一点に集めて〉
目を開けていないのに、フィンには外界の様子が分かった。足元に広がる岩の存在、細い草の一本一本、間近にいる人間達の鼓動までが、肌に触れるように感じられる。あらぬ方に向かいかけたフィンの意識を、レーナがそっと誘導した。
ヴァルトの前にある枯れ草の山。そこにフィンは意識を移し、自身の内に流れる光を、そっと、注意深く集めていった。
やがて枯れ草の間でチカッと光がまたたき、次の瞬間、炎がちょろりと舌なめずりした。ざわめきを耳にしたフィンが目を開けると、既に小さな焚き火がパチパチ音を立てていた。火を起こした当のフィンをも含め、誰もが魂を抜かれたように、呆然とそれを見つめていた――が、
「あっ、チーズ! ヴァルトさん、早く早く!」
我に返ったネリスが叫んだので、ヴァルトも思い出して、慌ててチーズを炎にかざした。そもそも火をつけるのが目的だったわけではなく、その後の方が大事だったのだ。
こんがりと美味しそうな匂いが漂い、フィンの口に唾がわいてきた。マックも同様らしく、身を乗り出して物欲しそうにナイフの先を見つめている。ヴァルトは急に、周囲の関心が竜侯様の不思議な力から、自分のちっぽけなチーズに移ったことに気付き、警戒にそわそわし始めた。
と、背後で青霧が明るい笑い声を立てた。いきさつを見ていたらしい。
「ヴァルト、おまえは全員の胃袋を揺り起こしてしまったな。仕方がない、これも一緒に焼くとしよう」
言うと彼は荷物を探り、何やら固そうな棒状のものを取り出した。
「カカルだ」彼は端的に言って、それを火にくべた。「おまえたち軍団兵が持ち歩く、二度焼きした堅パンのようなものだな。日持ちがして、火や水がなくても何とか食える」
香ばしくほんのり甘い匂いがしてきたところで、青霧はそれを取り出して小さく割り、全員に配った。最後にフィンに手渡す時、彼は微笑んで言った。
「初めてにしては上手くやった」
「あなたも火を起こせるんですか?」
フィンは熱いカカルを手の中で転がしながら問うた。いいや、と青霧が答える。
「消す方は出来るが、あまり実用的ではないな」
気にせず食べろと目顔で促され、フィンはカカルをかじった。小麦のパンではなく、豆や木の実をバターか何かで練ったものらしい。中には乾したスグリや野苺らしいものが入っていて、甘酸っぱい。温めたおかげで、少し柔らかくなっている。
フィンは自分が起こした火とレーナを見やってから、青霧に目を戻した。
「あなたは、竜と絆を結んでどのぐらいになるんですか」
「おまえよりは長い。だから少しは教えられる事もある。そうだな、確か……」
彼の竜と心で話しているのだろう。少し間があってから、彼はうんとうなずいた。
「そう、六十年だ。正確には五十九年と八ヶ月」
「…………」
フィンは目を丸くして絶句した。
六十年? だが、青霧はどう見てもまだ三十代だ。厳しい自然に晒されて小皺が目立つが、それが年齢のせいだとしたところで、せいぜい四十代。間違っても五十歳より上には見えない。
しかも、絆を結んでから六十年ということは、彼自身の年齢は……
「自分の歳で言えば、今年で八十七だったかな。そろそろよく分からん」
「そんな、でも」
うろたえているフィンに、青霧はおどけた顔をして見せた。
「オルゲニアに住むフィダエ族の王は、初代の竜侯から代わっていないと聞くぞ。だとしたら千歳近いはずだ。八十ぐらい驚くことはなかろう」
「驚きますよ、普通は」
もはや想像の域を超えてしまい、フィンは半ば放心したまま応じた。千年も生き続けている竜侯がいるだなんて、とても考えられない。それはもう、同じ人間とは言えないのではないか。
「今後は驚かんだろう。おまえもひとつ賢くなったわけだ」青霧は笑った。「レーナもまだ若いようだな。どちらも知らぬことが多くて戸惑いもあるだろうが、心配することはない。慣れるにも、知るにも、時間はたっぷりあるということだ」
楽天的なのか、慰めようとしているのか。鷹揚な口調は、そのどちらともつかない。フィンはぼんやりと、斜面の下方にいる家族の姿を眺めていた。
たっぷりの時間。長寿という人間の常識を超えた歳月の。
それが竜からのありがたい贈り物なのか、それとも絆の代償に負わねばならない重荷なのか、彼にはまだよく分からなかった。




