1-5.闇夜との戦い
西の空は作り物めいた朱色に染まっていた。
鐘の音と共に、フィンは数人の兵士と長い影とを道連れに、城門の外に出た。背後で扉が閉まり、閂をかける音が響く。城壁は紫色の影を落とし、空は早く帰れと急かすように輝いている。
フィンは組み入れられた班の面々と手分けして、町を守る篝火の台に火を灯していった。雨風に耐えられるよう囲われた台に、松脂や油をたっぷり含んだ燃料が入っている。ひとつめに点火した後で松明に火を移そうとすると、近くにいた兵士が止めた。
「そいつはまだだ。最初は一本だけ。奴らが来て、点け直す手が足りなくなったら新しい松明を使う。でないと一晩もたんからな」
フィンはこわばった顔でうなずいた。声に出して返事しようにも、口の中がからからに渇いていたのだ。
黄金色の残照が薄れていく。すべての台に炎が燃え上がると、彼らは城壁の際に集まり、最後に自分たちのための篝火を点けて、そのまわりに座った。
「おまえもついてねえな」
一人がフィンに話しかける。別の一人がぼやいた。
「ついてねえのは俺たちもだ。イグロスの阿呆でも、こんなぴよぴよの小僧よりゃましだってのに」
フィンは黙って彼らを見回した。一、二、……五人。フィンを含めても六人しかいない。彼の不安げな視線に気付き、一人がにやりと笑った。
「心配すんな、この六人で守るのはこの門からそこの見張り塔までだ。その向こうには別の班がいる。見えるか? ほら、今火がついた」
指差す先で小さな篝火が城壁際に光った。フィンはほっと安堵の息をもらす。数人が小さく失笑したが、そんなことを気にする余裕はなかった。
イグロスが捻挫して、いきなり新兵のフィンがその代わりを命じられた。ということは、軍団には予備の兵がいないということだ。ぎりぎりの人数でやりくりしているに違いない。つまり、それだけ負傷や死亡による損耗が激しいということ。
(俺は生き残れるんだろうか)
不安を自覚すると、じわりと嫌な汗が背中を伝った。
フィンの緊張を嘲笑うように、辺りはどんどん暗くなってゆく。篝火が闇に映えて宝石のようだ。その眩しさに目を細めていたフィンは、視界の端にちらと別の光が動くのを捉え、ぎくりと身を固くした。思わず腰を浮かせかけたところで、ぽんと肩を叩かれる。
「ま、初めの内しばらく頼むぜ。すぐに代わってやるから、とりあえず目いっぱい動いて、座った途端に意識を失くしちまえるぐらい疲れて来い。今からまず眠れっつっても、そりゃ出来ねえだろ?」
「そうですね」
フィンはひきつった笑みを浮かべてうなずいた。よし、と兵士はうなずき、仲間内だけで素早くひそひそと相談すると、三人が壁に背をつけて横たわった。
「最初は俺が一緒に出てやる」
よっ、と一人が立ち上がり、松明に火を移した。
「だが自分の仕事はきっちりやれよ。そら、おまえの松明だ。絶対に落とすなよ」
一本をフィンに渡し、もう一本を自分が持つ。剣を抜くと、邪魔な鞘はその場に残して、彼は前へ進み出た。フィンも同じく剣を抜き、兵士の横に立つ。
「馬鹿、もうちょっと向こうに行け。二人で固まってちゃ能率が悪いだろうが。俺のケツにくっついてるつもりか?」
肘で押しやられて、フィンは羞恥と怒りに赤面しながら離れた。自分が引き受けられると思える幅よりも、少し広めに間を開けて立つ。ささやかな自己主張。
それから改めて荒野に向き直ると、フィンは一番遠い篝火の向こうに広がる闇の深さにぞっとなった。黄金色の炎と炎の間に、点々と青い光が見える気がする。いや、本当にあれはあそこにあるのか?
フィンは思わず空を仰いだが、既に太陽の光は完全に失せていた。地上を照らすのに星明りだけではとても足りない。
顔を下ろすと、今度ははっきり分かった。闇の中に青い点がいくつも浮かんでいる。ふたつ一組のものばかりなら、狼などの獣と同じだと思えるが、場所によってはみっつ、あるいは羽虫の群れのようなひとかたまりになっている。姿が見えない分、どんな化け物かと想像ばかりが逞しくなって、恐怖が募った。
(落ち着け、落ち着け、でないと失敗するぞ)
カタカタ震える手で剣を握り直し、フィンは固唾を呑んで昼間の訓練を思い出した。
一旦闇が届くところに出たら、とにかく走れ、止まるな。剣は身を守るためのものだ、奴らを倒そうなどと考えるな。追い払え、振り払え、弾き飛ばせ。
深く息を吸い込み、フィンは彼方に目を据えた。一箇所だけを見つめるのではなく、広い範囲を漠然と視野に納める。どこかで篝火が消されたら、すぐ分かるように。
左隣の兵士がゆっくり前進を始めた。フィンもつられるように足を出す。一歩、また一歩、闇に向かって。
篝火の間を歩いていると、不意に自分が何かの叙事詩に出てくる英雄にでもなった気がした。これだけの篝火があれば、闇の獣とて尻込みして、とどめに自分が松明をかざしただけで逃げ去るのではないか――
だが夢想出来たのも束の間だった。キシキシと不快な音が耳に届いた瞬間、甘い希望も平常心も消し飛んだ。
キチキチ……カサ、カササ、ザワザワ……
一瞬フィンは、自分がまだオアンドゥスらと共に風車の家にいて、精一杯明かりをともした部屋で身を寄せ合って夜明けを待っているように錯覚した。
(同じ音だ。奴らだ、奴らが来る)
カタカタカタカタ。乾いた音に、フィンはふと玩具の木馬を思い出したが、その連想も心を温めてはくれなかった。
(来る)
どこだ。どこが最初だ?
素早く視線を走らせる。と――
「右だ、フィン!」
兵士が怒鳴り、同時にフィンもそれを見つけた。右手の斜め前方で篝火がひとつ、列から欠けた。反射的に彼は走り出し、闇の中から襲いかかってきた何かを剣で弾き返した。
「っ!」
瞬間、腕を通じて刺すような痛みが体を走り抜けた。やられたかと思ったが、構っている暇はない。全力で走り、倒された台を立て直して火を灯す。つい今までそこにいた影が、さっと闇の中に逃げ込むのが感じられた。
直後、空を切るかすれた音が鳴り、フィンは剣をかざして我が身を庇った。衝撃を受けた瞬間、剣にびっしり霜がついた。
まさか、とフィンは目をみはる。その時にはもう霜は消え、剣にはただうっすら露がついているだけだった。だが柄を握る手からは血の気が引いている。フィンは右手を抱き寄せて、松明を持ったままの左手でゴシゴシこすった。
少し感覚が戻ってほっとする間もなく、次は左側で炎が消える。フィンが駆けつけた時には、黒い影が台の上に覆いかぶさろうとしていた。
「このッ!」
マスドの教えを忘れ、剣を振り上げて斬りつける。だが直前、うずくまっていた影が振り向き、くわっと口を開いて襲いかかってきた。
予想外の大きさだった。フィンは咄嗟に大きく後ろへ跳び退り、松明を盾のように構える。炎の消えた台の上にいるのは、巨大な黒い山猫に見えた。もっとも、三つの目が青い燐光を放っているほかは、鼻も耳も手足も、しかとは判別できない。
気を取られた隙に、松明を持つ手が下がっていた。獣がふっと身を屈め、フィンが我に返ると同時に跳躍した。
(やられる!)
頭からばくりと食われる己の姿が一瞬、脳裏をよぎった。フィンは何も考えずその場にしゃがみ、左手だけは高く上げて松明を掲げる。だが遅かった。
「うあっ!」
衝撃と共に松明が弾き飛ばされた。腕ごともぎ取られたかのような激痛に、フィンは堪えきれず倒れる。腕は無事だった、だが痺れて感覚がない。
フィンは恐怖にひきつり痛みにもがきながらも、顔を振り向けて獣の姿を探した。
「――!」
真横にいた。黒い闇の凝った中に、更に深い影が生じる。口を開き、獲物を引き裂こうとしているのだ。
その瞬間、フィンの脳裏をよぎったのはネリスの姿だった。
(嫌だ、死ねない!)
狂ったように叫んでいることを自覚しないまま、彼は夢中で剣を突き出した。手応えはあったが、獣は悲鳴ひとつ上げなかった。見開かれたフィンの目に映ったのは、口の中に剣を突き通されながらも、止まらず迫り来る獣の黒い牙。
(そんな)
嘘だ、こんな事があってたまるか。
麻痺した頭の片隅で、役に立たない言葉が紡がれる。刃を伝って闇が流れ落ち、右手に滴るのを感じた瞬間、ぞわっ、と全身に悪寒が走った。
――それは、紛れもない憎悪だった。
憎い、憎い、憎い。殺してやる、消し去ってやる、痕跡さえ残さず一切をこの世から排除してやる。
はっきりと言葉にされた思考ではなかったが、フィンはそれがこの獣の心、あるいは獣を形作る要素そのものであると直感した。これが普通の野の獣と同じであるわけがなかった。
(駄目だ、負ける)
これほどの執念と怒りと憎しみの前では、人間の力などなんとちっぽけなことか。
愕然と悟り、フィンは絶望にとらわれて、なすすべもなく凍りついた。そのまま右手が剣ごと呑まれるかに見えた――が、刹那、不意に視界が明るくなった。
途端に獣は、罪悪感が芽生えるほど壮絶な悲鳴を上げてのたうち、死に物狂いでフィンの剣から身を引き抜こうとあがきだした。その凄まじさにフィンは思わず剣から手を離してしまった。
「馬鹿野郎!」
罵声に耳を張られて正気に返った時には、獣は剣を半分呑み込んだまま飛ぶように闇の中へ逃げ帰っていた。フィンは息切れし、呆然と座り込んでいたが、誰かに無理やり腕を掴んで立たされた。
「松明どころか剣まで手放しやがって、昼間いったい何を聞いてたんだ、この頓馬! 寝ぼけてないでさっさと松明を拾え!」
怒鳴られて、フィンは慌てて松明を探した。数歩離れたところに落ちており、炎は砂をかぶって弱まっている。フィンがそれを拾い上げると、助けに来た兵士は自分の松明を触れさせて火勢を戻した。先刻消された篝火は、既に再びあかあかと輝いている。
「ぼさぼさするな、壁に戻って誰かの剣を借りて来い。急げ!」
言うだけ言って、彼はまた自分の仕事に戻った。遠く離れた場所でふたつみっつ、光が欠けている。フィンは大急ぎで城壁まで戻ると、起きている一人から剣を受け取った。
「もっぺんしくじったら、助けねえぞ。勝手に食われろ」
叱責どころか脅迫である。フィンはこわばった顔でうなずき、持ち場に走って戻った。激励など期待していなかったが、仲間に見捨てられるかも知れないと思うと、恐怖がいや増した。ただでさえ獣相手に苦戦しているのに、足元が崖っぷちだったとは。
(助けてくれ)
誰にともなく彼は祈っていた。誰かここから俺を連れ出してくれ、助けてくれ、終わらせてくれ。
だがもちろん、何の応えもなかった。
夜が明けるまでに、時間の感覚はすっかりなくなってしまった。ほんの束の間とろとろとまどろんだかと思ったら、乱暴に揺り起こされる。あちこちに怪我をしているという自覚はあったが、実際に血が流れている傷は見当たらなかった。ただひどく疲れ、絶望がじわじわと心の隅から黒い染みを広げつつあった。
篝火の前線は少しずつ壁に近付いてきた。もしけちって最初にともす数を少なくしていたら、一晩もたないところだろう。フィンの足は腫れて痛み、松明と剣を持つ手はだんだん鉛に変わっていくようだった。
だが、悪夢と現実の狭間を何度か行き来した後、彼はふと気付いた。視界が薄明るい。地面がぼんやり見える、篝火の消えた台も、遠く南へ伸びる街道の石畳も。そういえば、さっきからしばらく戦っていない。あの青い点々が見えない。
放心したままフィンは辺りを見回していた。
やがて、鐘の音が夜明けを告げた。ぽんと肩を叩かれて振り向くと、同じように疲れ果てた顔の兵士が、初めて親しみのこもった笑みを浮かべていた。
「生き延びたな、小僧」