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灰と王国  作者: 風羽洸海
第二部 竜と竜侯
49/209

2-1. ナクテ領主館

   二章


 ――血ノニオイガスル……

 モウジキダ。アト スコシ ……

 ぶつぶつと静かに煮える鍋のように、つぶやきが浮かんでは消える。

 闇の底を見えない匙がゆっくりかきまわし、ひとすくいした。とろりと凝った闇が、泡に包まれて上へと昇ってゆく。

 やがてそれは裂け目に達した。狭く小さく、まだとても出口とは呼べない亀裂。そこに、闇は自らを押し込んだ。細く身を伸ばし、よじり、もがきながら、じわじわと外へ出て行く。

 ようやく全体が外へ出た瞬間、それは眩しさに怯んだ。脅えわなないて、身を隠す陰を探す。だがその必要はなかった。

 じきに己が何の害も受けぬことに気付き、それはほうっと息をついた。

 ――息。

 ソウダ、息ヲシナケレバ。

 闇がゆっくり波打つ。静かに、規則正しく。やがてそれは空を仰いだ。細い月が白く光っている。

 目を細め、無意識に手を伸ばす。小さな丸い爪のついた、五本の指。

(あのぐらいなら、光も美しい)

 やがてそれは、用心深く、ぎこちない仕草で立ち上がった。二本の足で。それから一歩、二歩、踏み出した。身体にまとわりつく闇が渦巻き、靴に、服に、髪に、変化してゆく。

 おぼつかなかった足取りが、力強くしっかりとし、まっすぐに西を指して遠ざかる。

 月のほかに、それを見ていたものはなかった。


 本来風通しの良い部屋にもかかわらず、今はぱたりと空気の流れが絶えたようだった。父が見えない壁を増築したに違いないわ、フェルネーナはそう考えて眉をひそめた。でなければこの息苦しさは説明がつかない。

 彼女の視線の先で、夫がしゃちこばっている。軍団長も舅の前ではただの人、というわけだ。不機嫌な狼のようだと言われる灰黒の短い髪も、何ひとつ見逃さないと部下たちに恐れられあるいは賞賛される濃灰色の目も、舅に対しては何の威力をも持たない。

「一年だ、ルフス」

 重々しく老セナトが言った。それだけで、ルフスはさらに身をこわばらせる。あまりにもあからさまな力関係を見せつけられて、フェルネーナは苦々しい思いを抱いた。それを悟られないよう顔を背け、窓越しに庭を眺めるふりをする。

(お祖母様がご存命なら、そんな態度は取れないでしょうに)

 優しく、しかし堂々として、実質的に女当主としての采配を振るっていた祖母を懐かしみ、フェルネーナは涙ぐみそうになった。祖父はルフス同様婿養子で、穏やかな人だった。自分が名ばかりの当主だと承知した上で、他の貴族たちの意地の悪いささやきを一切無視し、祖母を支え助けていた。

(それが気に入らなかったんでしょう、お父様。だからルフスや私に冷たいのでしょう。見苦しいわ)

 しかし内心いかに悪罵しようとも、口に出せば身の破滅だ。黙って飲み込むしかない。

 一方老セナトは娘の怒りには気付かず、それどころか存在すら最初から無視したまま、ルフスを睨んでいた。鉄錆色の目にあるのは辛辣な皮肉と冷淡さだけで、仮にも身内に対する温かみは欠片もない。

「一年も経つのに、まだわしの孫は見付からんのか。そなたは言ったな、全力を挙げて探し出す、と。全力とはこの程度か。そなたの無能のせいで、わしの孫は今頃どこかの排水溝で冷たくなっているかも知れんというのに、なぜそなたはこの館でのうのうとしておるのだ」

 すぐにも出て行け、同じ苦しみを味わえ、とでも言い出しそうで、フェルネーナはたまらず声を上げた。

「あの子は無事です!」

 セナト侯はじろりと疎ましげな一瞥をくれ、鼻を鳴らした。そのまま彼が無視して話を続けようとしたので、フェルネーナは繰り返した。より力強く、落ち着いた声で。

「お父様、あの子は絶対に生きています」

「…………」

 はあ、と隠しもせず深いため息をつき、セナトは振り返った。

「何を根拠に言うのだ。手がかりがあるというのなら、隠さずに教えて貰いたいものだな」

「根拠は……」

 フェルネーナは唇を噛んだ。何を言っても馬鹿にされ、鼻であしらわれることは目に見えている。それでも、なんとか納得させなければならない。息を吸い、きっ、と父親を見据える。

「母親の勘です。あの子に何かあったら、私に分からないはずがありません」

「はッ!」

 案の定、セナトは嘲笑し、戯言を退けるように手を振った。

「ならばその母親の勘とやらで、居場所も見つけられるだろう。さあ言え、わしの孫はどこにいる」

「そこまでは分かりません。でも、あの子が生きているのは確かです。それに、あの子には私の侍女を一人つけてあります。皇都であの事件があった時、フェドラス様と一緒に殺されずにすんだのは、そのお陰に違いありません。今もどこかで……」

「馬鹿馬鹿しい、侍女ごときに何が出来る。そなたは下がっていろ、話の邪魔だ」

「いい加減になさって! さっきからお父様はご自分の孫だとばかりおっしゃるけど、あの子は私の息子です。私の! お父様のものではないわ!」

 とうとうフェルネーナは爆発した。が、返ってきたのは冷ややかな視線だけ。

「そうか。ならばそなたが自分で探すのだな。この屋敷でぬくぬくと育ったそなたが、外の世界で何が出来るか知らんが、好きにすればいい」

 このクソジジイ、と庶民の家庭なら罵声のひとつも飛ぶところだろう。だがここはナクテ領主の館である。フェルネーナはきつく唇を噛み、白く骨が浮き上がるほど固く拳を握りしめたが、それ以上言い返しはしなかった。

 セナトはささやかな勝利にも何ら感情を見せず、何事もなかったようにルフスに目を戻した。

「ルフス、そなたに任せていては埒が明かん。今後、孫の捜索はわしが行う。そなたはコストムの南方へ軍を動かせ。北からディルギウスめが要らぬ手出しをして来おるのには、気付いていような」

「はい。どうやら皇帝と手を結ぶつもりのようです。こちらにも協力を申し出る書簡が届きましたが、山脈を越えて南に居座るための口実でしょう。サルダ族に妨害を要請しておきました」

 ルフスは感情を抑えた声で、淡々と事務的に答える。セナトは「ふん」と応じただけで、賞賛も労いもしなかった。すっかり白く乏しくなった前髪を片手で後ろになでつけ、机上に目を落とす。

「東でティウス家の寡婦がごねておる限り、皇帝もお気に入りの将軍をふたつに裂いて派遣するわけにはゆくまい。女と手を結ぶのは気に食わぬが、一時のことだ……ヴァリスさえくれてやれば、あの女も満足するだろう。皇位は、フェドラス帝の遺志に従い、我が孫のものになる」

 視線の先には、東から届けられた密書。ノルニコム王の署名と印章に、セナトは侮蔑の笑みを浮かべた。

 ややあって当主の部屋を辞した若夫婦は、意図せず揃ってため息をもらした。顔を見合わせて苦笑し、ごく自然に妻は夫に身を寄せ、夫は妻の肩に手を回す。長身のフェルネーナは、さほど大柄でないルフスと並ぶと、ほとんど差がなかった。

 ゆっくりと廊下を歩きながら、フェルネーナは小声でこぼした。

「お祖母様が恋しいわ。年々お父様は意固地で冷たくなって……セナトが生まれてからは、私たちのことはすっかり邪魔者扱い。ごめんなさい、あなたにも嫌な思いばかりさせて」

「僕は平気だよ」

 ルフスは苦笑してささやき、フェルネーナの頬に軽く口付けした。軍団長で、もう四十歳だというのに、二人きりの時は今でも昔のように『僕』と言う。その優しさと甘さに、フェルネーナはくすぐったくなって笑った。ルフスも小さく笑い、彼女の髪をそっと指先でもてあそぶ。

「義父上は立派な方だ。それに、何と言っても君と引き合わせて下さった恩人だからね。多少頑固になられても、どうということはないさ。ただ、セナトを見つけられないことを責められたのは……辛いな。君にも顔向けできない」

「大丈夫よ。あの子は無事だ、って私には分かるもの。きっと隠れているのよ」

「皇帝の殺し屋からね。早く助けてやらないと」

 息子を案じる父親の顔になったルフスを見つめ、フェルネーナは少しためらってから思い切って口を開いた。

「……でも、もしあの子がそれを望んでいないとしたら?」

「なんだって?」

 ルフスがぎょっとしたように立ち止まる。フェルネーナも足を止め、不安げに眉をひそめた。

「もし、あの子が……皇帝にはもちろん、私たちにも見付かりたくないと思っていたら? ねえ、ルフス、あの子はとても賢いわ。それに気が弱くて優しい子だった。皇帝とお父様の戦の、まさに真ん中に立たされるとなったら、怖くて逃げ出してしまっても無理はないわ」

「……それは、確かに」

 ルフスは、あの子はそんな弱虫ではない、などと否定はしなかった。セナトの性格は、彼もよく知っていたからだ。争いごとを嫌い、両親がちょっとした口論になった時はいつも、おろおろしながらなだめようとしていた。

「だが、見付けないことには保護も出来ない。義父上を説得して皇帝と和解させるにしても、あの子がいないことにはね。もっとも、僕はあまり和解に賛成したくはないが」

「あなたはフェドラス様の部下だったものね。でも……」

「ああ。もちろん、嫌がるセナトを無理やり皇位に即けるつもりはない。その後ろ盾になるのが誰かという問題もあることだし。……ともかく、セナトの無事な姿を早く見たいよ」

 ふう、と疲れの滲む吐息をもらした夫に、フェルネーナは手を伸ばして、灰黒の頭をそっと撫でた。短く刈ったこわい毛が、ちくちくする。

「私もよ。せめてあの子が、自分から居場所を教える気になってくれたら良いのだけど」

「そうしたら、君の侍女が知らせてくれるかな」

 悪戯っぽく言って、ルフスは妻の手を取り、そのてのひらに口づけする。いつもなら笑って手をひっこめるフェルネーナだったが、今日はそうせず、ふと何かに呼ばれたように目をそらし、外の景色を見やった。

「ええ。きっとね」

 つぶやいた声が、風に乗って消える。フェルネーナはその軌跡を目で追い、空を見上げた。遠く、どことも知れない彼方にいる息子に、想いが届けばいいのにと願いながら。


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