1-8. 思いがけない依頼
下弦の半月が東の空に顔を出す。
フィンはレーナに起こされて、こっそり寝床から抜け出した。上着を一枚だけ羽織り、剣を掴んで夜の岬を歩くのは、なんとも妙な気分だった。背後の山並みに月がひっかかっているだけで、海も街もすっかり暗闇に沈んでいる。
自分だけでなくレーナも緊張しているのを感じ取り、フィンは心の手をそっと伸ばした。応えがあり、温かい結びつきが落ち着きを与えてくれる。
フィンはゆっくり海の方へ歩いていった。波が磯の岩を洗う音が、繰り返し繰り返しささやいて眠気を誘う。時間までがとろりと粘って沈殿しそうだ。
――と、不意に。
〈デイアの竜侯〉
まったく異質なものが意識に割り込み、フィンはわなないた。痛みこそないものの、まるで身体に極太の槍が突き刺さったようだ。異物に侵入された強烈な不快感で、胃といわず腸といわず、内臓すべてがよじれのたうつ。
たまらずフィンが体をふたつに折った瞬間、その気配は消えた。代わりに、
「すまん、不慣れだったか」
静かな声がささやいた。フィンは嘔吐しそうになったのをどうにか堪え、喘ぎながら顔を上げる。闇に溶け込むようにして、いつの間にか一人の男が立っていた。
光はほとんどなくても、フィンの目には相手の姿がはっきりと見えた。特徴のある幾何学的な織模様の服、裾の長いズボンと厚底の靴、そして長い銀の髪。
(サルダ族が、どうしてこんな所に)
フィンの顔に疑念が浮かんだのだろう。男はふっと微笑んだ。
「仕事を頼みたい。ひと冬、山で過ごしてもらうことになるが」
「……何の仕事ですか」
「荒事だ。第八軍団が峠を越えぬように防ぐ」
「――!?」
思わずフィンは目を丸くした。サルダ族が下界の争いに関るなど、前代未聞だ。そもそも、丸々一個軍団、どころかもっと多くなるであろうディルギウスの軍団を、山地の狩猟民であるサルダ族だけで阻止するなど、話にならない。いかに地の利があろうとも、数の上で不可能だ。
「そう露骨に喜ぶな」
男が面白そうにからかったので、フィンは赤面して表情を取り繕った。彼が質問を口にのぼせるより早く、男が説明を始めた。
「むろん全軍を相手にすることはない。おそらく来春まで、本格的な侵攻はないだろう。だが通り道の確保や宿営所の手入れのため、あるいは我々の持つ資源を……男手や食糧、何であれ役に立つものを奪うために、少人数の先遣隊を送り込んでくるに違いない。それを追い返し、まかり間違ってもこの冬が来る前に南進する気を起こさぬように、手間取らせてやるのだ」
「なぜサルダ族がそんなことを?」
「身内の頼みだからな。ナクテの第四軍団長ルフスは我々の遠い親戚だ。そうでなくとも、我々は山を踏み荒らされるのを好まない野蛮人だ。そうだろう?」
皮肉っぽい反問。フィンは答えず、肩を竦めた。眼前の男は到底野蛮人には見えない。フィンはゆっくりひとつ息をして、背筋を伸ばした。
「俺たちが脱走兵だと知っていて、その仕事を頼むんですか。それとも、俺が……あなたと同じものだからですか」
慎重に言葉を選んだフィンに、男はあっさり「両方だ」と答えた。
「並のごろつきよりも、おまえたち『粉屋』は行儀が良いし、軍団の戦い方を知っている。そしてフィニアス、おまえが来てくれたら、長く暗い冬の間、闇の獣を村から遠ざけておくのも楽になる」
「……? でも、あなたも……」
「俺の相棒は光ではない。気付いているだろうが、闇だ。獣たちに親しまれこそすれ、恐れられはせんよ」
「従わせることは出来ないんですか?」
闇の神ナルーグの竜と絆を結んでいるのなら、闇の眷属など意のままに出来そうな気がするのだが。フィンが訝ると、男は苦笑した。
「光と絆を結んだおまえに、すべての人間が従うか?……そういうことだ。仕事を請けてくれるのなら、もっと話す時間も取れよう。今夜はひとまず帰るが、また返事を聞きに来る。決めておいてくれ」
言うだけ言って、男はふわりと背を向ける。フィンは慌てて呼び止めた。
「あのっ、名前は」
「おっと、言い忘れていたか」男はくるりと振り返って、フィンをまっすぐに見つめた。「青霧だ。……おまえの相棒は随分と美しいな。よろしく伝えてくれ」
ふふっ、と青霧が笑った。あの闇の狼を思い出させる笑い方だった。フィンが絶句しているのを尻目に、彼は軽く片手を上げて闇の中に消えた。文字通り、体が闇とまじりあって溶けたように見えたのは、錯覚だろうか。
フィンはしばらく呆然としていたが、やがて、潮風に首筋を撫でられて、ひとつくしゃみをした。同時に、意識の片隅でレーナがほっと息をつく。
〈あの人、ナルーグ様の力を纏っていたけれど、怖くはなかったわ〉
〈君の事をきれいだって言ってたな〉
フィンがからかうと、レーナが照れてじたばたするのが分かった。フィンはひとり微笑んで、空を仰ぐ。月が高くなって、明るい光を投げかけていた。うねる波の間で月光と闇がまじりあう。青霧がこの時間を選んだ理由がなんとなく分かり、フィンは小さな欠伸をしながら家に戻った。
翌朝、粉屋の食卓にはえもいわれぬ空気が漂うことになった。オリアの申し出と、青霧からの依頼を知らされて、誰もが少なからず困惑した。
「サルダ族がナルーグの竜侯とはねぇ……」
本当かね、と疑わしげにヴァルトが唸る。プラストが明後日の方を向いたまま、小さく肩を竦めた。
「脱走兵の俺たちに軍団兵と戦えとは、皮肉なもんだな」
「どっちみち、俺たちはもう第八軍団とは仲良く出来んさ」ヴァルトが首を振った。「司令官が代われば別だがね。さんざんディルギウスをコケにして、顔に泥を塗ったクソ野郎どもだからな。前科不問ったって、奴っこさんに見付かったらただじゃ済まないだろうよ。いっそ堂々と、俺たちはてめえの敵だ糞食らえ、と言ってやるのも悪くないが」
どうするよ、と眉を上げて問う。すぐには誰も答えず、沈黙が降りた。ややあって、遠慮がちにネリスが口を開いた。
「……もし山に行くのなら、あたしたちは? ここで春まで待ってるの?」
声と表情が、それは嫌だとはっきり告げている。フィンは考えを整理しながら慎重に答えた。
「青霧は、俺に来て欲しいようだった。レーナの力が必要なんだろう。あの男の方が竜のことには詳しいみたいだったし、色々と聞きたいこともあるから、俺は山に行こうと思う。そうでなくとも、オリアと南へ行くことは……出来ない」
「どうして?」
ファウナが懸念のまじる声で問うた。穏やかな生活を望むのなら、家族一緒に暮らそうと思うのなら、南へ行く方が良いだろうに、と。フィンは寂しげな顔になった。
「俺は竜侯ですから」短く一言だけ答え、小さく咳払いしてごまかす。「でもおばさんたちは、南に行くのが安全だと思います。せっかく粉屋の仕事に戻れたのに残念……」
「それは駄目だ」
言い終わらぬうちに、オアンドゥスが却下した。フィンはそれを予想していたので、待ってください、と手で制する。
「おじさん、でも、ファーネインを連れて山には行けません。里親もまだ見付かっていないし、どっちにしろこの街にいたらニアルドに見付かるか、さもなければどこかに売り飛ばされてしまう心配が消えません。だから、オリアと一緒に南へ連れて行って欲しいんです」
「ちょっと待って、お兄、それってあたしも行けってこと?」
ネリスが気色ばむ。フィンがいささか怯みながらもうなずくと、途端に彼女は猛烈に憤慨した。
「そんなにあたしたちが邪魔なの!? 何かある度に自分だけどこかに行こうとしてばっかり! いい加減にしてよね!! だいたいお兄はすぐに誓いを引き合いに出すけど、ファーネインの一生に責任を持てるわけじゃないんだよ? どこかで手を離さなきゃならないんだし、それはあたしたちだって同じなんだから。ここで里親が見付かるまで孤児院に預けておいたって、ディルギウスやニアルド本人がこの街に来てうろうろ探し回るんでもない限り見付かるわけないんだし、ファーネインだってまた知らない村へ旅をするより、少しでも慣れたこの街に残る方が安心だよ」
本当にお兄は馬鹿だね、といつもの悪態をつくと、ネリスは真っ向からフィンを睨みつけた。それからぼそっと、「あの子の面倒みるのが嫌なわけじゃないよ、一応言っとくけど」と付け足す。フィンは思わず苦笑した。
「分かってる」
ネリスは家族ばらばらになりたくないだけなのだ。ファーネインを理由にしてフィンが離れて行くことが、許せないのだ。
そこで当のファーネインが、自分を無視した議論に我慢できなくなり、テーブルの上に身を乗り出した。
「あたし行かない! ここにいる!」
「だけどファーネイン、孤児院で一人ぼっちになるかもしれないんだぞ」
ここに残ることの意味が分かっているか、とフィンは諭すように問う。ファーネインは口を尖らせた。
「お姉ちゃんがいるもん。お菓子をくれるお姉ちゃん」
「…………」
やっぱりな、とフィンは肩を落とした。そのオリアもいなくなるのだということが、理解できていないらしい。
と、それまで黙っていた元哨戒隊の青年がおずおずと発言した。
「あの、な。フィニアス。おまえが良ければ、その……俺が、ファーネインを連れて行こうか?」
「え?」
思いがけない言葉に、フィンは目をぱちくりさせる。皆の視線を集めて、青年は照れくさそうに頭を掻いた。
「つまりさ、だから……オリアとお袋さんの護衛も兼ねて、南へ……」
「なんだ、ニクス、おまえあの子に惚れてんのか!」
無遠慮に言ったのはもちろんヴァルトである。ニクス青年は途端にぱっと赤面した。まわりにいた仲間達が、悪気のないからかいをこめて肩や背中をばしばし叩く。
「道理で最近、賽も振らないと思ったぜ。小金を貯めて、身を固める準備してやがったなこの野郎!」
「水臭いぞ、早く言えよ!」
口々にはやされて、ニクスは弱ったなと苦笑する。フィンはただ呆気に取られて、それを眺めていた。ニクスはどうにか仲間の手から逃れると、彼を見て微笑んだ。
「どのみち、そろそろこういう稼業から足を洗って、どこか南で山羊でも飼うか、小さくても手堅い商売を始めようかと思っていたんだ。だから、今回のことは渡りに船で……つまりその、本当におまえが良いんなら、だけどな」
「良いも何も……あんたの方こそ、本当に良いのか?」
「ああ。まあ、オリアが何て言うかは分からないが、その……気長に行くよ。もし駄目でも、ナクテより西なら戦に巻き込まれる心配もないだろうし、この街より治安はいいだろうから、安心して暮らしていけるさ。ファーネインも、な」
言葉尻でニクスは手を伸ばし、少女の頭を撫でた。彼女は話の展開についていけずに妙な顔をしたが、それでもニクスのことは好いているらしく、おとなしくしている。
そんな様子を見ていると、フィンの胸がじんわり温かくなった。はっきり心が見えるのではなく、ぼんやりとニクスの人柄が伝わってくる。田舎町のテトナで育まれた素朴な心。退屈でも堅実な暮らしと平穏な毎日を愛し、家族や隣人、仲間と助け合う優しさ。
(――ああ、彼なら)
自分が失ってしまったものが、彼にはまさに相応しく思われ、フィンは束の間瞑目した。小さな村と家族と、家畜や畑と……子供たちと。そんなものに囲まれて暮らすのが、この青年にはとても似つかわしい。彼もまた、そうしたものを大切にしてくれるだろう。
(任せても大丈夫だ)
きっと精一杯、オリアとファーネインを守ってくれるだろう。
フィンはほっと微笑み、深くうなずいた。
「わかった。あんたに頼むよ、ニクス」