1-7. 不安と焦燥
葡萄の収穫が終わり、少しずつ太陽の光が弱まるにつれ、長く伸びた北方の影がコムリスをもかすめるようになってきた。
街には戦に関る人員の募集広告が貼り出され、広場や酒場で額を付き合わせて相談する姿が目立ちだした。第八軍団の遠征に加わるなら、前職も身分も、前科さえも問わない、というのだ。半端仕事で食いつなぐ流れ者たちが、どうしようかとささやき合うのも無理はない。
むろん、フィンやヴァルトたち『粉屋』の面々はそちらに加わることは出来ない。ヴァルトなどは、商売敵がこぞって軍団のケツにくっついて行きゃこっちに仕事が回ってくるのになぁ、などと軽口を叩いたが、フィンは彼のように事態の楽観的な面だけを見てはいられなかった。
もし、徴兵のためにウィネアの誰かがこの街に来たら、見付かってしまうかもしれない。
その心配から、フィンは町を歩く時には今までより注意深くなっていた。
「どうかしたの?」
オリアに問われて、フィンは連れがいたことを思い出し、慌てて表情を取り繕った。
「いや、別に。ただちょっと、最近はこの街も落ち着かないなと思ったんだ」
「そうね。でも、軍団がここを通ることはないでしょうし、粉屋さんの仕事にも差し支えはないんじゃない?」
「お得意さんがいるからね」
フィンは少しおどけ、手にした小麦粉の袋を持ち上げて見せた。オリアの家まで届けに行くところなのだ。いつもは配達はしないが、今日はたまたま他の仕事がなくて手が空いていたので、お菓子のお礼にとフィンが荷物持ちを申し出たのである。
オリアはあれから何度か、粉挽きの用がなくとも風車を訪れていた。毎回菓子を持ってくるわけではなかったが、皆が出払っている時にファウナの話し相手になったりして、すっかり打ち解けた間柄になっている。
ネリスは相変わらず、彼女の狙いはフィン兄だって、と主張していたが、今までのところ、オリアがそうした態度を見せたことはない。だからフィンも、安心して横を歩くことが出来た。
「あなたは少し変わってるわね」
不意にそんなことを言われて、フィンは目をぱちくりさせ「そうかな」と首を傾げた。面白くないとはよく言われるが、変わっている、とは。不思議そうなフィンに、オリアはちょっと笑った。
「謎めいてる、って言った方が良かったかしら。時々、ふっと遠くを見てるような目をしたり、考え込んだりするでしょう。なんだか、ほかの人には分からない何かを見聞きしているみたいだわ」
「…………」
フィンは内心ぎくりとしたが、表情には出さず、ただ曖昧に肩を竦めた。並んで歩きながら、オリアは何気ない態度でなおも話し続ける。
「雰囲気も、どこがどうとは言えないけれど、私達とは違うみたい。そうね、たとえばあなたが遠い遠い異国の生まれだとか、実は精霊の血を引いているとか、そう聞かされても、驚きはするけど、納得できると思うわ。ただの粉屋さんだって言うよりは」
ね、とオリアは悪戯っぽい目を向ける。フィンは困惑してしまった。
「でも、事実そうだから」
「そうなのよね。だから不思議なのかも」
オリアはうなずいたが、その笑顔はまるで、言葉とは裏腹に「言わなくても分かってるわよ」とでもささやくように見えた。
(まさか彼女にも見えているのか?)
竜との絆、胸に宿る光のしるしが。あるいは見えないまでも、漠然と感じ取っているのだろうか。だからこうして、フィンの方から打ち明けやすいように水を向けたのだろうか?
どうであれ、告白するにはあまりに大きな秘密だ。まだ精霊の血を引いているという方がましだという気がする。フィンは真顔で口を開いた。
「実を言うと、俺はオアンドゥスさんの息子じゃないんだ」
「えっ」
冗談から真実が転がり出たとばかり、オリアは驚きに目をみはる。フィンは重々しくうなずいた。
「五年ほど前に、孤児院から養子として引き取って貰った。生みの親の事は俺も知らないんだ」
「そうだったの……」
「でも、心当たりはある。一度ナナイスの港で、俺にそっくりなひとを見かけた」
「声をかけなかったの?」
「かけられなかったんだ。……網にからまって口をぱくぱくさせて、必死でじたばたしていたから」
「…………?」
オリアは足を止め、眉を寄せてフィンの顔を見つめた。フィンは白々しく目をそらし、彼方の空を見やって、せいぜい切なそうな声を出す。
「思えばあれが最後の機会だったのかもしれないな。あの後きっと、父さんだか母さんだかわからないが、誰かの家でこんがり塩焼きに」
「フィニアス! もう、馬鹿!」
やっと気付いたオリアが笑い崩れ、平手でフィンの腕を叩く。フィンも真顔を保てなくなって、くすくす笑った。
しばらくしてようやく落ち着くと、オリアは目尻の涙を拭って、もう一度フィンを軽く叩いた。
「やられたわ。まさかあなたが冗談を言うなんて思ってなかった」
「実際、滅多に言わないよ」
「そうでしょうね。魚のお父さんは冗談の言い方なんて、教えてくれそうにないもの」
自分で言ってまた少し笑い、オリアはやれやれと頭を振った。
そうして二人がまた歩き出そうとした、その時だった。
「粉屋のフィニアス?」
嗄れ声が名を呼んだ。その声に含まれる妙な気配に、フィンは反射的に振り返って身構える。剣を家に置いてきたのを、一瞬悔やんだほどだ。
しかし、視線の先にいたのは一人の老婆だった。いかがわしい腕輪や首飾りなどの装飾品からして、占い師の類だろう。顔も腕も、目に見えるところは皺とシミだらけだが、まっすぐな姿勢と鋭いまなざしが老いをはねのけている。
「あんたが、フィニアス?」
もう一度、老婆は確かめた。フィンは警戒しながらも、年寄り相手に喧嘩腰にはなれず、「はい」と礼儀正しく返事をする。老婆は目を細めた。
「そうかい、あんたがね……なるほどねぇ」
思わせぶりな含み笑いをして、老婆はじろじろとフィンを眺めた。その目が胸の辺りで留まった瞬間、
(見られた!)
フィンは息を呑み、咄嗟に見えない壁を築いた。何をどうすべきか分からぬまま、本能的に自分自身を覆い隠したのだ。
老婆はわずかに目を見開いたものの、すぐにくっくっと笑いをこぼした。
「そう警戒するんじゃないよ。あんたに仕事を頼みたいのさ」
「仕事……ですか?」
フィンは顔をしかめながらも、オリアの手前、あくまで『粉屋』として受け答えを続ける。
「少し待って貰えますか。今は配達の途中なんです。帰りに寄るか……」
「ああ、違う違う。あたしが頼むんじゃぁない。あたしは言伝を持ってきただけさ。いいかい。今夜、あんたのところに直接、依頼に行く。だからあんたは、月が昇ったら表に出て待っておいで」
「月が昇るのは真夜中ですよ」
あまりに不審な指示だもので、フィンは受けるつもりはないと暗に抗議した。だが老婆には通じない。
「知ったこっちゃないよ。言ったろう、あたしは言伝を頼まれただけだって。言われた通りにするもしないも、あんたが決めることだ。それじゃ、確かに伝えたからね」
ああ疲れたやれやれ、とばかりに言い、老婆はひらひら手を振って立ち去る。フィンは険しい顔でそれを見送っていた。
「……なんだか気味が悪いわね。フィン、やめておいたら? 関り合いにならない方が良さそうよ」
オリアが不安げに忠告する。フィンは気を取り直してうなずいた。
「確かに、怪しい。俺たちの前に住んでいた連中と同じだと思っている奴が、ろくでもない仕事をやらせようとしているのかもしれないな。どっちにしろ、月の出を待ってなんかいられないさ。寝床に入ったら、一瞬で夢の中だ」
言葉尻でおどけたフィンに、オリアも口元をほころばせた。
それから二人は、ゆっくり歩みを再開した。会話が途切れたまま、どちらも口を開くきっかけが掴めずに黙りこくっている。
結局そのままオリアの家に着いてしまい、フィンは小さな門のところで麦粉の袋を手渡した。曖昧に挨拶し、帰ろうと背を向ける。歩き出そうとしたところで、
「あのっ」
思い切ったようにオリアが呼び止めた。不自然に緊張した声に、フィンは何事かと目をぱちくりさせて振り向く。オリアは顔を赤くして、袋を胸にしっかりと抱き締めていた。
「あの、いきなりこんなことっ、言い出して、変に思わないで欲しいんだけど」
勇気を振り絞る風情で、ひとつひとつ言葉を押し出していく。フィンがたじろぐと、それに気付いてオリアは一旦口をつぐんだ。麦粉の袋を地面に置き、深呼吸して、一歩進み出る。
「私たち、その……引っ越そうかと考えているの。ここの家賃も、父さんが亡くなる前にかなり前払いしておいてくれたんだけど、もうじき切れるし……大家さんは、支払いは待てるし、もっと安い所も紹介できる、って言ってくれるんだけど。でも、ナクテの西の小さな村に、遠い親類がいるから、そっちを頼ろう、って母さんと話をして」
「そうなのか。いつ?」フィンは気圧され、当惑しながら相槌を打つ。
「まだ決めてはいないけど、冬が来る前に。それで、あの」
そこまで言うと、オリアはますます赤くなって、両手をぎゅっと拳に握った。
「一緒に来たら、どうかと思って」
「オリア、それは……」
「あ、いえあの、つまりっ! フィンと、ネリスと……ご両親と、一緒に。さっきは、粉屋さんの仕事に支障はないって言ったけど、戦になったらきっとこの街にも色んな影響が出るわ。安全じゃなくなって、フィンの所にもああいう変な人が来るようになるかも。軍団兵がコムリスを通る可能性だってなくはないし、そうなったらフィンみたいな若い人はきっと、連れて行かれてしまうわ」
何度も言葉に詰まりながら、オリアは切々と訴えた。体に押し付けた拳が小さく震えている。
(一緒に来て)
フィンの耳に、声なき声が聞こえた。うつむいて答えを待つオリアの姿に重なり、不安と希望の靄が渦を巻く。
(別れたくない)(せっかく親しくなれたのに)(新しい土地は不安)(この人なら――)
覆いかぶさるような依頼心に、息が詰まりそうになる。だが、それを言葉や態度には出さず、彼女自身の内に留めているものもまた、はっきりと見えた。小さいながらも芯の強い自尊心、真実フィンの一家を案じる心、そして現実を見つめる冷静さ。
(頼っては駄目)(だけど粉屋さんは絶対に何かわけありだし)(それでも彼らはこの町で暮らしを立てている。私たちの方こそ、何の資産もない貧しい親子で……)
複雑な思いの中に、ひとつの強い懸念が浮かんだ。
(ああ、ネリスとファーネイン。あの子たち、無事でいられるのかしら)
兵隊がこの街に来たら。若い男が皆徴兵されてしまったら。
自分自身もフィンに頼りたくてたまらない、それは確かなのに、同じ強さで他人の心配をしてもいる。
フィンはつくづくとオリアを見つめた。一緒に行くことは恐らく出来ないだろうと思いながらも、ここでそうと告げることは出来なかった。
「……皆と、相談してみるよ」
彼が言った途端、オリアはぱっと笑顔になった。こくこくとうなずき、麦粉の袋を拾い上げて、それじゃあ、とごまかすように手を振って家に向かう。その背に向かって、フィンは穏やかに呼びかけた。
「オリア」
どきりとしたように、彼女が振り返る。フィンはその姿と想いを同時に目に焼き付けながら、心からの感謝を述べた。
「心配してくれて、ありがとう」
「……」
オリアは目を丸くし、それからくしゃりと顔を歪めて、小さく首を振った。本当は自分のことしか考えてなかったのよ、と言いたげに。だがフィンは知っているのだ、彼女の中にある強さも優しさも。
彼のまなざしから何かを汲み取ったのか、オリアは目を潤ませると、一言もなく身を翻して家の中へと駆け込んだ。
誰もいなくなった通りに、フィンはひとり佇み、しばし茫然とした。
ああ言ったのは、良かったのだろうか。彼女を傷付けはしなかったろうか。
(分かるからって、適切な行動を取れるわけじゃないんだよな)
ぼんやりそんなことを考え、フィンはふと、こんな時はマックや、いっそタズの方が、気の利いた振る舞いが出来るのではないだろうか、と天を仰いだのだった。




