1-6. 姉と弟
「うわぁ、美味しい!」
ファーネインが歓声を上げ、ネリスとファウナが恐縮する。娘はにこにこしながら、焼き菓子の入った籠を皆にも勧めた。
「喜んでもらえて嬉しいです。皆さんもどうぞ」
若い娘に愛想良くされて気分の悪い男はいない。普段は菓子など見向きもしないプラストでさえ、畏まってひとつ頂戴する。
娘は名をオリアといった。フィンが察した通り、母子二人だけで暮らしているらしい。
「いやぁ、一日の仕事の後で思わぬ褒美があったもんだ」
ヴァルトは満面に笑みを湛えて、蜂蜜にありついた熊よろしく、茶と菓子を手にほくほくしている。
「やっぱり女の子がいるってのは、いいもんだなぁ」
元哨戒隊のニクス青年がうっかり口を滑らせ、ネリスに頭をはたかれた。
「一応ここにも一人、女の子がいるんですけど?」
「いやその、ほら、ネリスもあとニ、三年すれば……なあ?」
何が「なあ」なのか、近くの仲間達を見回して曖昧に同意を求める。ヴァルトが笑って応じた。
「そうだな。このお嬢さんを見習って、ちっと淑やかにしたらどうだ」
「余計なお世話です」
いーだ、とネリスが言い返す。フィンはその頭にぽんと手を置いた。相変わらず、少年のように髪を短くしたままだ。
「気にするな。ネリスは元気なのがいいんだよ」
おざなりに慰めるような口調を装ったが、本心からの言葉だった。ネリスの明るさと挫けない強さに、どれほど助けられたか分からない。時々圧倒されて眩暈がしないでもないが、そうでもなければ長く惨めな旅に打ちのめされていただろう。
ネリスは兄の声に隠された真情に気付いたようだが、ちらと彼を見上げただけで、すぐヴァルトに向き直って胸を反らせた。
「ほら、うちのお兄もこう言ってますから!」
「おいおい……兄貴があんまり甘やかすなよ。妹が嫁に行けなくなったらどうするんだ」
苦笑まじりにヴァルトが忠告し、フィンは肩を竦めてとぼけた。そんなやりとりに、オリアが堪えきれなくなって笑い出す。
「本当に仲良しなのね。私も兄や妹が欲しかったわ」
「あたしは別に、兄はどうでもいいですけど」
ネリスはわざと真面目に言い、それからにっこりした。
「でも、オリアさんみたいなお姉さんがいたら良かったな」
微妙な含みのある台詞に、フィンがぎくりとする。オリアの方は気付かなかったのか、それとも受け流すことにしたのか、ネリスの言葉を額面通りに受け取った。
「本当? 嬉しいわ、私もあなたが妹だったらなぁって思ってたの。姉妹のいる友達を見てると、本当に楽しそうなんだもの。ねえ、今度一緒に買い物に行かない?」
「いいですね、賛成!」
きゃっきゃっとはしゃぐ娘二人の姿に、オアンドゥスとファウナも目を細める。女の子はいいわねぇ、とファウナがほっこり笑って言い、オアンドゥスもうんうんとうなずく。
立場のないフィンは曖昧な顔で、壁に寄りかかったまま黙って茶を飲んでいた。ヴァルトが慰めのつもりかフィンの足をばしんと叩き、カップの中で茶が跳ねた。
同じ頃、コムリスから遠く離れた南岸の街シロスで、姉が弟を呼んでいた。
「セスタス! 帰りましょう」
外の広場から呼ぶと、書店の奥から「ちょっと待って」と慌てた声が応じる。やがてばたばたと何やら片付ける物音に続き、「失礼します、また明日」「ああ、お疲れさん」というやりとりが聞こえ、それから戸口に少年が姿を現した。
「ごめん、ネラ。お待たせ」
年の頃は十二、三。蜂蜜色の髪は柔らかく、利発そうな目は灰色の虹彩に黄金色が散っている。不思議な瞳だが、その特徴に気付く者はあまりいなかった。明るく輝く笑顔の前に、そんなことはどうでも良くなってしまうからだ。
迎えに来た姉も、つられるように笑みを広げた。
「いいえ。片付けは大事ですもの。今日もきちんと仕事が出来て?」
優しく訊かれて、弟はこっくりうなずいた。
「うん。流石に慣れてきたよ。最近はコルニスさんも色々大切なことを教えてくれるようになったし、合間に本も読ませてくれるんだ。お使い先でも顔なじみになって、今日はほら、こんなのを貰った。ネラにあげるよ」
ごそごそと手提げ袋を探り、底から小さな細工物を取り出す。衣服を留めるのに使う飾りピンだ。地味で古びてはいるが、粗悪な安物ではない。
「女物だよね、それ。届け先の奥さんが捨てたのを、女中さんがこっそり拾って修繕したんだってさ。流行遅れだけど、まだ使えるから、って」
「そうね、勿体ないわね。ありがたく頂戴します」
ネラは微笑して、早速ピンを留める。セスタスは嬉しそうにそれを見ていた。
並んで歩いて広場にさしかかると、遊んでいた少年達がセスタスに声をかけた。こっちの組に入らないかと誘われ、セスタスはちょっと考えてから、「ごめん」と首を振った。
「今日はプブラの店に行かなくちゃ。葱が安いんだ。また今度」
断られた少年が口を尖らせ、おまえが入ったら勝てるのに、と不満の声を上げた。ネラは弟を見下ろし、苦笑しながらささやく。
「そんなに所帯じみたこと、おっしゃらなくても。遊んでいらしたらどうですか」
「いいんだ。この前あいつらと組んだ時は、どさくさ紛れに小突かれたりむしられたり、散々だったから。それに、プブラの店で葱が安いのは本当だよ。そのピンをくれた女中さんが教えてくれたんだ。閉まる前に行って、買っとこう。節約しなきゃ」
セスタスはおどけて肩を竦め、広場の少年達に手を振って、急ぎ足になる。ネラもそれに従い、やれやれと矢車菊色の目を天に向けた。
「一年前はどうすればパンが手に入るのかも知らないお坊ちゃんでしたのに、すっかり逞しくなられて。喜ばしいのか嘆かわしいのか、複雑でございますよ。こんなお姿をお母上がご覧になったら、何とおっしゃるか」
「大昔の話はやめろよ」
セスタスは途端に赤面し、ぷっと膨れた。それからすぐ真顔になり、「母上の話もだ」と小声で厳しく言い足す。ネラは目を伏せ、セスタスの頭をそっと撫でた。
一年。
大人にとっては短いが、子供にとってはすっかり変貌するに充分な時間だ。セスタスはまるきり別人になった。名実共に。
一年前まで、彼は『セナト』だった。王宮で皇帝の養子として様々な教育を受けながら、衣食住の不自由なく暮らしていたのだ。
しかし、養父を屠った刃から辛うじて逃れて以後、すべてが一変した。
ネラに導かれて王宮から脱出した直後の彼は、ただ震えるばかりで、状況の判断も、食べ物や寝る場所をどうにかして手に入れることも、何も出来ない幼子だった。
皇都ディアクテの貧民街に身を隠し、怯え、絶望し、悲嘆に暮れること四、五日。
――夜明けのように、彼は目覚めた。
小さな胸のうちでどんな葛藤があったのか、その頭に理性を呼び戻したのが何だったのか、ネラには分からない。だが、ある朝、彼は何の前置きもなく頼んだのだ。皇都からも、故郷ナクテからも離れた、どこか別の街まで逃がして欲しい、と。
「お母上のもとに帰りたくはないのですか?」
驚いてネラが問うと、かつてセナトだった少年は、唇を噛んで首を振った。
「母上には会いたいよ。でも、ナクテに帰っては駄目だ。お祖父さまも父上も、私を皇位に即けようとなさるだろう。そうすれば本国を二分する大きな戦になってしまう。それで苦しむのは、私を匿ってくれたような貧しい人々だ。ネラ、私は――セナトの名を捨てる。そなたの弟ということにして、どこか遠くへ連れて行って欲しい。安全なところまで行ったら、私をどこかの孤児院に置き去りにしてくれても構わないから」
痛ましい頼みごとを受けて、ネラは皇太子の侍女ではなく、孤児セスタスの姉になった。両親を病で亡くし、遠い親類を頼っていくのだという口実で、皇都を逃げ出して街道をひたすら歩き続けて、ようやくのこと、シロスへ辿り着いたのだ。
(もちろん、いつかは『セナト』に戻らなければならないけれど)
横を歩く『弟』を眺めて、ネラは目を細めた。このまま本当にセスタスになってしまうことは、恐らく不可能だ。祖父である竜侯セナトはもちろん、実の両親も必死で我が子を探しているだろう。それに、セナトが見付からないからと言って戦にならないとは限らない。
(でも、それまでしばらくは……こうして姉弟のふりをしていても、良いでしょうか)
本来の主であるフェルネーナを思い浮かべ、ネラは空を仰いだ。お許し下さい、と心の中で詫びながら。
「ネラ! 李があるよ、どうしよう? 買ってもいいかな」
元気の良い声が呼ぶ。ネラは顔を下ろし、微笑んだ。可愛い弟のわがままに付き合う、優しい姉のように。




