1-4. 懐かしい友
風車の岬まで戻ってくると、思いがけない客人が待っていた。
「おぉい、フィン!」
よく通る大声で名を呼び、海に沈み行く太陽を背にして、誰かが手を振っている。フィンは目蔭をさして目を凝らしたが、誰かと判別がつく前に、焦れた相手が駆けてきた。そして、フィンが驚きの声を上げるより早く、両腕を広げて荒っぽく抱きつく。勢いでフィンはよろけ、慌てて足を踏ん張った。
「タズ!?」
「ひゃー、本当におまえかよ、生きてたんだな! 悪運強いぜ、この野郎!」
驚きと喜び、感激が相まって、声が裏返っている。フィンは呆然としていたが、ややあって相手が身を離すと、我に返ってまじまじとその顔を見つめた。忘れようにも忘れられない、孤児院で一緒に育った幼馴染の笑みがそこにあった。黒髪は潮風で傷んでパサパサになり、肌はすっかり日に焼け、むきだしの腕は見違えるほど太く逞しくなっているが、やんちゃな笑い方はちっとも変わっていない。
「おまえ……そうか、この町にいたのか」
タズはフィンよりふたつ年上だが、十五歳ぎりぎりまで里親に恵まれなかった。フィンがオアンドゥスの家に引き取られるのとほぼ時を同じくして、彼は単身、見習い水夫として商船に乗り込むことになったのである。以来、時々ナナイスに戻った時は顔を見せに来てくれたものの、それも数えるほどしかなかった。
「久しぶりだな」
ほっと笑みを広げたフィンに、タズは「まったくだなぁ」とうなずいて、もう一度、がっしと抱きついた。今度はフィンもしっかり抱擁を返し、互いの無事を確かめる。それからタズはフィンの連れをぐるりと眺めて、目を潤ませた。
「ネリスも無事だったんだな。本当に良かった……。ナナイスがああだったから、俺はてっきり、もう皆死んじまったと思ってたよ」
「――! 今、なんて!?」
フィンとネリスが異口同音に叫び、タズに詰め寄る。タズはたじろぎ、失言したかと焦って目を泳がせた。
「タズ、教えてくれ。ナナイスを見たんだな? 俺達がナナイスを出たのは、三月ほど前になる。まだその頃は、軍団兵が闇の獣をなんとか退けていた。その後、ナナイスが……」
口ごもり、ごまかす言葉を見つけて続ける。
「落ちた、って……噂を、聞いた。おまえはその目で見たのか」
タズが答えるまでに、長い沈黙があった。視線を落とし、らしくない曖昧な口調でもぐもぐ言う。
「ああ。噂を聞いたんなら、うん……たぶん、その通りだよ。すっかり滅茶苦茶だった。街は、燃えたんだろうな。煤まみれの瓦礫と、灰と……神殿も崩れてるみたいだった」
「…………」
ネリスが両手で口を覆い、微かに漏れた声をおしとどめる。フィンは沈痛な表情で黙ったまま目を落とした。やはり、ネリスの感覚は正しかった。間違いではなかったのだ。
暗澹とした兄妹に、タズは無理に明るい声で慰めを言った。
「でもな、俺達も上陸はしなかったんだ。いや、何人か小船でちょっと行って、水だけ補充したんだけどな、もう日暮れが近かったから危険だってんで、結局その……つまり、ちゃんと確かめたわけじゃないんだ。だから、ひょっとしたら、ってこともあるさ。な?」
「そうだな」フィンも強いて話を合わせた。「あのマスド隊長が簡単にくたばるとは思えないし、ぎりぎりで脱出して逃げ延びているかもしれない。今頃ウィネアか、船でヴェルティアにでも着いているだろう」
「行くとしたらウィネアだろうな」
タズが肩を竦めた。どういう意味かと目で問うたフィンに、タズはちょっと頭を掻いて、言いにくそうに説明する。
「ヴェルティアにはもう、船は寄り付けないんだ。難民だらけで……うっかり近付くと、食糧だの服だの全部むしり取られて追い返されるか、下手したら殺されたり、船ごと奪われちまう。半年ぐらい前からかな。それでもしばらくは、水を補給するぐらいは出来てたんだけどよ。今はもう全然駄目だ。だから、俺達の船も北へ行くのは今回で最後だったんだ」
どのみちまともな買い手もいないしな、と締めくくったタズに、フィンは呆然と無意識の相槌を打った。そうだったのか。だから、マスドは船で脱出しようにも出来なかったのか。恐らく一度は試してみたに違いない。だが……
「タズ? もしかして、タズか?」
「あっ、オアンドゥスさん! お久しぶりッス!」
陰気な気配を払うように、タズはことさら大声で挨拶した。オアンドゥスの後からファウナも出てきて、あら、と喜びの声を上げる。
「まぁ、本当に久しぶりね。良かったわ、無事だったのね」
「よくここが分かったな」
嬉しそうな夫婦につられて、タズもまた笑顔になる。
「いやぁ、びっくりしましたよ。遊びに行った仲間がえらくがっかりして帰ってきて、風車が粉屋になってた、って言うから。俺、何のことか分からなくて、そりゃ当たり前だろう、って言ったんスけど。ここ、前は極上の酒とか女……いやその、色々船乗りのお楽しみが買える所だったんスね」
「まさか、おまえもそれが目当てだったのか?」
フィンが皮肉っぽい目をすると、タズは気を悪くした風もなく、笑って彼の肩を叩いた。
「馬っ鹿、んなわけないだろ。俺はね、ヤバいとこには近寄らないようにしてんの。生き残る秘訣ってやつだよ。ともかくさ、戻ってきた奴がオアンドゥスさんの名前を出したから、まさか、ってすっ飛んできたんだよ。いや本当、驚いたなぁ」
「ともかく、よく来てくれた」
オアンドゥスがうむとうなずき、ファウナも、一緒に夕食にしないかと誘う。もちろん、遠慮するような間柄ではない。タズはいそいそと一家の団欒に加わった。
元々大人数が生活していた建物には、粉屋の全員が暮らすに便利なものが多数残されていた。広い厨房、大鍋、かまど、質素だが広いテーブルと丈夫な腰掛。本国風にするなら絨毯に胡坐をかいたり、寝椅子に横たわって食べたりするのだが、北で同じことをするのは限られた金持ちだけだ。
新鮮な魚と野菜を煮込む鍋から食欲をそそる湯気が立ち上る頃、居酒屋に繰り出していた面々が帰って来る。店で腹いっぱい食べられるほど稼ぎはないし、といってファウナとネリスだけに全員分の食事の支度を任せるのは無理、というわけで奇妙な折衷案として、いつしかこんな習慣になったのだった。
食卓の他愛無い会話の中で、そうだ、とネリスが切り出した。
「お母さん、近いうちにお客さんの一人がお菓子持って遊びに来るかも知れない」
「どういうこと?」
目をぱちくりさせたファウナに、ネリスとマックが先刻の娘のことを口々に説明する。ヴァルトが口笛を吹いて冷やかした。
「よう、フィニアス、この色男!」
「違いますよ」
フィンは胸の痛みを隠して苦笑を作る。それには気付かず、ネリスとタズはにやにやしながらからかった。
「何言ってんの、あれは絶対お兄に気があるって! 貴重な物好きさんだよ、捕まえとかなくちゃ!」
「羨ましいなぁ、俺なんか野郎ばっかに囲まれて潤いのない生活送ってんだぜ。あー、俺も仕事変えようかなぁ」
やいのやいのと囃し立てられても、フィンはただ、何も言い返せずに黙っていた。
――その夜、フィンは夢を見た。
夕方の、あの娘の夢だった。
フィンは昔から、自分は同年代の友人たちに比べて女への欲求が少ないらしいと感じていたので、夢の中で我ながら驚いた。今までにも情欲を抱いたことはあったが、しかし、たいていの場合は理性で抑えやごまかしが効く程度のものだったのに。
この夢では違った。
フィンは名も知らぬ娘をかき抱いて、口付けし、髪をなぶり、服を脱がせていた。彼女をどう思っているか、彼女にどう思われているかなどは関係なかった。
温かく丸い乳房の柔らかさ、滑らかな腰の曲線を感じ、味わい――いつしか、それを貪り食っていた。文字通りに。
口付けを落とすかわりに、牙を立てて食いつき、肉を噛みちぎる。
優しく触れるのと同じ気持ちで、鋭い爪を食い込ませ、皮膚を切り裂く。
飢えた獣のように肉を喰らい血をすする、己の姿が異形のものへと変化していく。爪が、牙が、角が生えて鋭く尖り、背中には翼が――
「……っ!!」
無理やり瞼をこじ開けると同時に、跳ね起きた。手は薄毛布を鷲掴みにし、冷たい汗がじっとりと額に浮かんでいる。
激しい動悸がおさまるのを待たず、フィンはそのまま寝床から飛び出し、近くで眠っている男達につまずくのも構わず、転げるように小屋の外へ走り出た。
潮騒が耳を打ち、生ぬるい風が体にまとわりつく。
〈レーナ〉
海に向かって呼んだ。応えはない。フィンは我が身を抱き、もう一度、より強く呼んだ。
〈レーナ!!〉
驚いた気配が戻ってきた。フィンはホッとして緊張を解き、暗い空を見上げる。やがて、白くぼんやりと光る巨大な竜が飛来し、磯の岩に降りた。満月のような目でフィンを見つめて数回瞬きし、レーナは小首を傾げると、鼻先を寄せた。フィンはそれにもたれ、綿雲のようなふんわりした温かさに身を埋める。
〈どこに行ってたんだ?〉
〈少し飛びたかったの。昼間はちっとも出てこられないから、せめて夜の海を見たくて〉
フィンはかつてナナイスの海を見せたいと話したことを思い出し、少し申し訳ない気持ちになった。人間のつまらない都合で、レーナの自由を制限していることが恥ずかしかった。
〈でも、夜の海は……すこし、怖かったわ〉
〈怖い? 君が?〉
〈ええ。だって……アウディア様は、デイア様を映して輝くのと同じく、ナルーグ様のことも包み込んでしまわれるから〉
ナルーグは闇の神だ。神々同士の間に敵対や抗争といったものは存在しないが、それでも、性質上の相容れなさはある。天空神デイアは光の神でもあり、ナルーグとは逆のものだ。しかし大海のアウディアは、そのどちらをも腕に抱く。
デイアに属するレーナにとって、夜の海は相反するもの、危険なものなのだろう。
〈そのせいかな〉
〈え?〉
〈俺も、いやな夢を見た〉
ふ、と息を吐いて、腰を下ろす。レーナも人の姿になると、隣に寄り添って座った。
〈竜は生き物を食べたりしないと、知っているのにな〉
言いながら夢を思い出す。それだけで、レーナには伝わったようだった。彼女は心配そうに眉をひそめ、そっとフィンの頬に触れた。
〈フィンは、恐れているのね。あなたの……人とは違ってしまった部分が、ほかの人を傷つけることを〉
〈……かも知れない〉
あるいは、竜侯だという事実が、あの娘に象徴される平凡で穏やかな世界を破壊し、貪り食って、ただの血と肉の塊にしてしまうことを。
頬に触れているレーナの手に、自分の手を重ねる。柔らかい光が、てのひらを通じて体内に染み込むようだ。この光は誰かを傷付けるものではないと、人の目や心を焼くこともないと、分かっているのに。
(恐れるな)
フィンは自分に言い聞かせ、目を瞑る。レーナの明るさが、フィンの不安を映して翳るのが感じられ、それが彼の迷いを断ち切った。
(大丈夫だ。もう昔のような夢は叶わなくても、俺は何も変わらない)
かつて望んだ平凡で穏やかな生活が、遠いものになってしまった今でも、まだフィンには家族がいる。レーナも。そして、大事なのはどう暮らすかより、誰と暮らすかだ。
フィンはゆっくり目を開き、レーナにそっと笑いかけた。
ほっとしたように、レーナもふわりと笑う。そのまま彼女が身をもたせかけてきて、フィンは抱きとめようと腕を伸ばし――
「……?」
不意に、妙な感覚にとらわれて振り返った。眉を寄せ、不審げに辺りを見回す。
「どうしたの?」
レーナが声に出してささやいた。フィンは無意識に後頭部をさすりながら、小首を傾げた。一瞬、確かに強く感じた“何か”。早くもその気配は薄れて消えかかっているが、しかし。
「誰かに見られている気がしたんだ」
そして、微かに聞こえたような気がした。フフッ、と――あの、闇の獣の声が。
「私は何も、気付かなかったけれど」
レーナは目をしばたきながらも、一応は視線を巡らせる。だがもちろん誰もいない。フィンは厳しい目で、家々の間にうずくまる闇をじっと睨んでいた。




