1-3. かつて見た夢
ファーネインの里親探しは孤児院に頼んであるが、今のところ、生活は粉屋の皆と一緒だ。ニアルドが彼女を取り戻そうとしなくても、闇で子供の売り買いが横行するこの街では、いつ誘拐されるか分からない。
そんなわけで、孤児院へはマックが付き添い、自分も様々な勉強をしながら一日中目を離さないようにしているのだった。
「兄貴の方は? 葡萄の収穫に行くって言ってたけど」
四人揃って歩き出しながら、マックが問う。ネリスがにんまりした。
「どうせまた、婿に来いって言われたんでしょ」
「…………」
フィンは答えず、曖昧な表情で目をそらす。ネリスはただからかっているだけだが、のどかな暮らしが続くうちに、フィンの中でそんな未来も少し現実味を帯びてきて、ただ笑って受け流すことも出来なくなっていた。
黙ってしまったフィンを照れていると思い、ネリスは楽しげに笑った。
「いやぁ、うちのお兄が引く手数多だなんて、嘘みたいだね! 女の子にはもてなくても、おじさんおばさんには受けがいいってことかな。よっ、年増殺し!」
「ネリス! どこでそんな言葉を覚えるんだ、まったく……」
どこで、と言っても原因はおよそ決まっているが。フィンは顔をしかめて唸った。今度ヴァルトにきつく言っておかないと。
マックが笑い、ファーネインは意味が分からなくてきょときょとする。
そうして坂道を下っていくと、通りの向こうから一人の娘が歩いてきた。見覚えのある姿にフィンがおやと目をしばたくと同時に、向こうも気付いて「あら」と笑顔になった。
「こんにちは、粉屋さん。今お帰り?」
はい、とフィンは礼儀正しく答える。相手は自分より年下かもしれなかったが、お客様の一人だ。時々、家庭用らしく少量の小麦を挽いてくれと、わざわざ風車小屋まで持って来る。オアンドゥスが毎日お得意先を回っているのだが、自分の家は少し外れた場所にあるし頼む量も少ないから、寄って貰うのは申し訳ない、と言って。
それでフィンも、相手の顔を覚えていた。ネリスやマックのように光が見えるわけではないが、好感を持てる雰囲気だ。
娘は四人を見回して、「いいですね」と微笑んだ。
「兄弟が多いって、楽しそう。私は一人っ子だから、羨ましいわ」
「こんな兄で良ければ、どうぞ持ってって下さい」すかさずネリスが応じた。「すっごい口うるさくて、今さっきも言葉遣いがどうのってガミガミ言われたとこなんです。もーぅ、本っ当、嫌になっちゃう」
大袈裟な苦情にフィンが顔をしかめ、娘は声を立てて笑った。
「皆そんな風に言うのよね。羨むようなものじゃない、要らないから持ってけ、って。だけど……誰もいないのは、やっぱり時々寂しいわ」
ふっと娘の表情が翳り、沈黙が降りる。気まずくなるより早く、娘は気を取り直してまた笑みを見せた。
「あ、そうだ。良かったらこれ、どうぞ」
腕に提げた籠から、固く焼いた菓子をふたつ取り出す。ビスケットのようだ。
「この前、挽いて貰った粉で作ったんです。お店で売ってるのほど美味しくはないかもしれないけど……でも、友達のお見舞いに持って行った余りだから」
甘い香りに早くもファーネインは目を輝かせている。娘が、渡してもいいか、と目顔で問うたので、フィンは微苦笑してうなずいた。
「ありがとうございます。ネリスとファーネインにやって下さい。二人ともよく頑張って勉強してるし」
その台詞が終わらぬ内に、ファーネインが手を差し出す。ネリスはもう少し遠慮しながら礼を言い、それでも期待を隠せずいそいそと菓子を受け取った。
口々に美味しいと褒められて、娘はにこにこと嬉しそうに、臨時の“妹”たちを見つめる。その優しい表情が、フィンの目には好ましく映った。
「あー、いいなぁ二人とも」
マックが冗談半分の軽い口調で羨む。娘もちょっと笑い、また今度ね、と応じた。どうやらマックのことは随分年下の弟だと思っているらしい。彼女はフィンに向き直ると、真面目な口調になって言った。
「もし迷惑でなかったら、今度……多めに焼いて、風車小屋まで届けに行っても構いません?」
思わぬ申し出にフィンは目をぱちくりさせ、返答に窮する。どうして、と問うまなざしに対し、娘は恥ずかしそうに小さく肩を竦めた。
「私、家にいっぱい人がいて、賑やかなのが好きなんです。だからたまには少し、皆さんと一緒に過ごせたらと思って」
裕福な商家や貴族と違い、家に客を招いて遊ぶという真似はなかなか出来ないのが庶民の暮らしだ。もしかしたら娘の家族は、親子三人、あるいは二人だけなのかもしれない。だとしたら毎日、静かで寂しくもなるだろう。
フィンはそんな風に思いやり、にこりとしてうなずいた。
「もちろん、来て頂けたら皆、喜びます。小屋には大抵誰かがいますが、外での仕事が入ったら全員が揃うのは夕方になりますから、予め日を知らせるか、このぐらいの時間に来て貰えますか」
途端に娘は、ぱっと花が開くように笑った。
「ありがとうございます! それじゃ今度、日を決めてお知らせしますね」
うきうきと言って、今にも踊りだしそうな足取りで通りを渡り、小路へと消える。ネリスとファーネインは「楽しみだね」「ねー」とうなずき合っていた。
「良かったな」
フィンは二人の頭をそれぞれぽんと撫でてやり、さあ帰ろう、と促して歩き出す。それからふと、他の三人には気付かれないように、そっと背後を振り返った。娘が入っていった小路を見やり、ほのぼのとした気分になる。
――と。
〈フィン〉
レーナの気配が心に触れた。フィンは一瞬どきりとし、それからほっとする。フィンに触れたレーナの感情は、穏やかで温かかった。
どうした、と問うたフィンに、レーナは唐突な質問をくれた。
〈あの人と結婚したいの?〉
これには流石に、即答は出来なかった。問いには嫉妬や不安は微塵もない。むしろ、もしそうなら喜ばしいことだと言いたげな気配さえある。だが。
〈……いや、そこまでは考えてないよ〉
どうにかそう答え、フィンは前を行く三人に注意を戻した。遅れないように、少し大股に歩いて追いつく。
〈でも、あの人のことは好きなんでしょう?〉
〈うーん、それはまぁ……感じの好い人だとは思うが、それだけだよ。名前も知らないんだし〉
質問に答えているのか、自分に説明しているのか、よく分からなくなってきた。ただ、そうして言葉にしていくと、それもありかも知れない、という思いが胸に芽生えた。
ああいう、家族を大事にしてくれそうな娘を伴侶にして、今の仕事か、あるいは娘の家の仕事を継いで、この街で暮らす。そんな未来はどうだろう? それも良いんじゃないか?
このまま平穏な毎日が続きさえするなら、実現するかも知れない。
そこまで考えて、具体的な暮らしを想像しかけ……
「――!」
いきなり気付き、フィンは何かにつまずいたようによろけ、立ち止まった。
無い。
その暮らしの中に、レーナの入る余地は、無い。どこにも。
レーナが何を教えようとして話しかけてきたのかを理解し、目の前がすうっと暗くなる。彼はうずくまりそうになるのを堪え、拳を握り締めた。
(夢だ)
そうなればいいと今、確かに思った。平凡で穏やかな一市民の暮らしに戻れるなら、そこに愛する伴侶がいてくれるなら、どんなにか幸せだろうと。
だが、それはもう、夢なのだ。
今のフィンは竜侯であり、誰よりも何よりも、一番魂に近いところにいるのは、絆の伴侶――竜であって、人間ではない。
そんな男を夫として愛せる女が、果たしているだろうか? しかもこの竜は、少女の姿をしているのだ。妻の権利と居場所を優先させるなら、実体での触れ合いを避けるのはもちろんのこと、時には心からも締め出さねばなるまい。だがそれは、寝食を共にしてきた相手をいきなり路上に放り出すも同然の行為だ。それも相手が絶対に自分から離れられないと分かっていてするなど……
(駄目だ)
出来ない。絶対に。
爪がてのひらに食い込む。その痛みを頼りに、フィンは現実の世界に意識を引き戻した。甘い夢が無残に崩れていくのを背中で感じながら、一歩、無理やりに歩き出す。
〈……フィン〉
ごめんなさい、とは、もう言わなかった。詫びるのではなく、レーナも深く悲しんでいた。フィンの未来から、平凡な人間の男としての夢が消えたことを、彼自身と同様に悼んでいた。
フィンは答えず、一歩、また一歩と、押し出すようにして歩き続ける。
やがて、固く握り締めていた拳が緩み、フィンは深呼吸して足を止めると、空を仰いだ。金色の光が緋色の雲を横切って、天空を河のように渡ってゆく。風は微かに夜気を含んで、甘く涼しい。
〈いいさ〉
ようやく彼は微笑んだ。
〈それでも俺には、君がいるんだから。それに……もしかしたらいつか、君と俺をひとつの存在として受け入れてくれる人と、出会えるかもしれないし〉
〈そうね。そうなったら、私も嬉しい。でもフィン、もし……〉
ふと、言葉が途切れる。そのまま、続きは伝わってこない。
〈なんだい?〉
フィンが促すと、レーナの微笑が伝わってきた。少し恥ずかしそうな、それでいて悲しそうな微笑の気配が。
〈なんでもないわ。フィン、大好きよ〉
いつもと同じようでどこか少し違う気配を残し、レーナが離れていく。フィンは束の間そこに佇み、茫然としていた。自分が何を失ったのか、今になってほんの少しだけ解った気がした。




