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灰と王国  作者: 風羽洸海
第二部 竜と竜侯
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1-1. 東の炎竜侯



   一章


 陽光眩しい晩夏、ディアティウスのあちこちで葡萄の収穫が始まる。

 元々葡萄栽培は南部の本国でのみ行われていたのだが、帝国の拡大とともに北部にも栽培限界ぎりぎりまで畑が広がってきた。本国風の暮らしにワインは不可欠だからだ。

 南東部ノルニコム州は早くから帝国に同化した上に、気候もあまり変わらないので、葡萄は重要な農産物となっている。収穫期には戦も一休みだ。兵士は職業軍人だが、彼らを支える大勢の下働きには農民も多く、農繁期には軍団全体の動きが鈍る。無理を強いれば反発もあろうし、危険を冒すことはない。

 館のバルコニーで地元産ワインを飲みながら、現在ノルニコム王を名乗るエレシア=ロフルス=ティウスは、満足げに街を眺めていた。

 州都コムスから本国の軍団兵を追い出した後、彼女は都をロフリアと改名した。皇帝――あの虐殺者の息子、かつての同盟国をただの属国として踏みにじった輩、その旗を掲げて居座る軍団がいなくなった今、景色もずいぶん良くなった。喉を潤すワインも一段と美味しい。エレシアは手摺によりかかって、ふと過去に思いを馳せた。

 元々ノルニコム人は皇帝よりもロフルス一門に忠実だ。だからこそ、ゲナス帝が一門の筆頭であるティウス家の粛清を強行することにもなった。それが裏目に出てノルニコム全土が本国ディアティウスに背くとは、予想しなかったのだろうか。

 ――しなかったのだろう。同じ振る舞いを弟と竜侯会議に対しても行い、結果、己が暗殺されるはめになっているのだから。

 エレシアはかすかに眉をひそめ、忌まわしい男の記憶を、ため息と共に追い出した。

 意識の片隅で笑いの気配がする。エレシアが仰向くと同時に、雲ひとつない青空に一点の紅い光が生じた。見る間にそれは巨大になり、重い羽ばたきの音を立てて、エレシアの傍らに舞い降りる。

「怒りの炎は相変わらず消えないな、エレシア」

「おまえがそれを笑うものだから余計にね」

 エレシアは小さく鼻を鳴らして、紅玉の鱗に覆われた竜の姿を見上げた。炎と鍛冶、武器と戦の神ゲンスの祠でエレシアが復讐を誓い、仇を討つ日まで挫けぬ力を授け給えと祈った日に、この竜が現れたのだ。

 そもそもティウス家は竜侯の血筋だが、まさか本当に竜と絆を結ぶことになろうとは、彼女自身夢想だにしていなかった。だが、迷いはなかった。皇帝の一族を滅ぼし、ノルニコムの独立を果たすことしか頭になかった。

「どいて頂戴、シャス。景色が悪いわ」

 視界を遮る炎竜ゲンシャスにつけつけと言って、エレシアは首を振った。顔にかかる赤銅色の髪を払ったのか、それとも顎で退去を命じたのか、どちらともつかない仕草。ゲンシャスは黄金色の目を面白そうに細め、ふわりと軽やかに舞い上がると、頭上の屋根にとまった。

「ここなら視界を遮らないだろう」

 見た目だけで言えば、竜の巨体に屋根が崩れてもおかしくないが、実際は瓦一枚軋みもしなかった。

 見えずとも気分を圧迫する存在感にエレシアは顔をしかめたが、それ以上は言わなかった。苦笑をこぼし、小さく肩を竦めて景色に目を戻す。

〈失望しなかったわけではないけれど、おまえのおかげでこの街を取り戻せたのだからね。おまえにも、良い眺めを楽しむ権利はあるわ〉

 竜の力が思ったほどではなかったことに、一時は確かに落胆した。見た目はいかにも力強く、巨大な翼に加えて鋭い爪と牙とを持ち、しかも、ほかならぬ炎の神に属する竜なのである。皇都までひとっ飛びして宮殿を焼き払うぐらい容易いと期待しても、当然だろう。

 ところがいざ絆を結んでみれば、ゲンシャス自身は炎どころか煙を吹くことすら出来なかったのである。否、可能だが実行しない、と言ったのだ。何もかもを焼き尽くしてしまうから、と。それを知った時は、何のために絆を結んだのかと悔いたものだ。

 エレシアの回想を感じ取って、ゲンシャスは喉の奥で笑った。

〈おまえは幸運だったのだぞ。我ら炎に属するものでなければ、戦に加わることなど興味さえ示さなんだろう。時機を見て姿を現し敵を驚かせろ、だの、先陣を切って飛べ、だのと〉

〈恩を着せるつもり? 楽しんでいたくせに〉

 ふふ、とエレシアは笑い、グラスに口をつける。と、そこへ、きびきびした歩調の靴音が近付いてきた。

「エレシア様。こちらにおいででしたか」

 現れたのは焦茶の巻き毛と晴朗な雰囲気を持つ青年だった。ロフルス竜侯軍副司令官にして騎兵隊長、マリウスだ。四年前の皇帝による粛清当時は一兵卒だったが、将官が大勢殺された後で頭角を現し、エレシアによって大抜擢された。しかし当人は少しも驕るところなく、謙虚に務めを果たしている。そういう点も、エレシアは気に入っていた。

 エレシアは振り返り、柔らかな微笑を浮かべた。そんな彼女の態度を見て勘ぐる者もいるが、実際には、マリウスが寡婦の孤閨を慰めることはない。女当主の好意は、我が子もこうなっていたであろうに、という虚しい想像に由来しているからだ。彼女の口ぶりは優しいが、そこに色艶はない。

「どう? 準備は進んでいる?」

 穏やかな問いかけに、マリウスは「はい」とうなずいて、屋根の上から垂れ下がる尻尾の先を見上げた。

「ゲンシャス殿のおかげで、鍛冶場の炎は衰えを知りません。順調に仕上がっております」

「結構。備えは手抜かりのないように」

「職人はもちろん助手や下働きに至るまで、奥方様のお役に立とうと懸命ですよ」

 マリウスは笑って言い、それからあっと気付いて、「失礼、陛下」と言い直す。エレシアは咎めなかったが、しかし聞き流しもせず苦笑した。

「早く慣れなければね。わたくしもそなたも」

「はい。申し訳ございません」

 畏まって低頭したマリウスに、エレシアは鷹揚にうなずいた。

 武器や防具の鍛造と補修は順調だ。民も次第に、ディアティウス帝国市民ではなくノルニコム王国人だ、と意識を変えつつある。街道には監視の目を光らせ、皇帝が相変わらずこの地を属州と捉えて“反乱鎮圧”軍を差し向けてきたなら即座に迎え撃てるよう、準備にぬかりはない。

(いずれ――そう、いずれは皇都まで攻め上り、ゲナスに連なる血族を討ち滅ぼしてやる)

 エレシアは遥か西の空を睨み、唇を引き結んだ。

 いずれ、必ず。

 けれど今はまだ、その時ではない。迎撃の準備は整えておかねばならないにしても、まだ、こちらから攻める時ではない。

(見ておいで、叔父殺しのヴァリス、穢れた血筋の皇帝よ。ディアクテの玉座は決して世界の王たる権利を与えはしない。我々はもはや決して、そなたの命になど従わない)

 怒りの炎が、強く眩しい意志の輝きを纏って燃え上がる。

 ゲンシャスが心地良さげに目を細め、空に向かって高らかに咆えた。


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