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灰と王国  作者: 風羽洸海
第一部 北辺の闇
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1-4.ふりかかる禍


 神殿の下男が荷物を取りに来たので、おしゃべりは中断された。下男は卑しい目つきでフィンの荷物を検分し、もぐもぐと礼を言って、何かを期待する様子で立ち尽くした。

 どうやら俺が荷物を運び込むことになっているらしい。フィンは察して、苦行に戻ることにした。

「じゃあな、ネリス。おじさんとおばさんにもよろしく。無事を祈ってるよ」

「あたしも」

 ネリスは答え、それからふと思いついたように手を伸ばし、何事か小さくつぶやきながらフィンの額と胸元に二本の指で触れた。

「なんだい?」

「おまじない。フィアネラ様に教わったんだ。気休めかもしれないけど……ともかく、フィン兄が怪我しないように」

 ネリスは曖昧な表情で肩を竦めた。本心では真剣なのだろうが、それを表に出すと、現実に危険が降りかかるような気がするのだろう。たいしたことじゃない、というふりをしていたら、災いを避けられるのではないかと、無意識に軽い態度を装っているのだ。

 フィンはそんな彼女の内心を薄々ながら察し、微笑んだ。

「ありがとう。おまえもな」

 温かな声で言い、彼は妹の頭をくしゃりと撫でた。

 それじゃあ、と今度こそ二人は別れ、ネリスは急かされるように階段を駆け下りていった。フィンは再び重荷を背負い、下男の案内で神殿の勝手口に回る。フィンを連れて行く間じゅう、下男はべらべらしゃべり続けた。

 いつもいつもありがとうございます、何もかも兵隊さんのおかげです、悪く言う町の者もおりますが、あたしらは感謝してますよ、ええ本当ですとも……

 卑屈な追従にフィンは何も答えなかった。自分は正規の軍団兵ではないのだと言えば一旦は黙るかもしれなかったが、今度は見下された挙句に威張り散らされることが容易に想像出来たからだ。重い荷物を運んでいるそばで、神殿に感謝しろだのきりきり歩けだのと、まくし立てられるのはご免こうむりたい。

 むっつり押し黙ったまま歩いていると、頭の隅をちらと皮肉な思いがよぎった。

(これじゃ、死んだ魚より退屈だって言われても仕方ないな)

 もっともこの下男は心弾む話し相手というわけではないので、こちらとしても墓石よろしく黙りこくっていることに何の気兼ねも感じないのだが。

 ともあれフィンはなんとか神殿の貯蔵庫に辿り着き、やっと重荷から解放された。だが、そこで自分を待っているものが何かを知り、彼は思わず口に出して嘆いた。

「冗談きついよ」

 絶望的なフィンの視線の先で、イグロスがなんとも情けない顔をして、表の石段に腰掛けていた。その足元に神殿付の薬師がしゃがみこみ、湿布を当てている。

「まったくだ。神々は随分と皮肉屋なのか、それとも俺たちが嫌いになったらしい」

 イグロスはフンと鼻を鳴らす。薬師が顔を上げて目で咎めたが、彼は気にしなかった。

「ご加護を賜りにきて捻挫を頂戴するとはな。くそ忌々しい」

「酷いんですか」

 自分で歩けないぐらい? 俺が担いで帰らなきゃならないぐらい?

 声にならないフィンの不安を嗅ぎつけ、イグロスはにやりと口を歪めた。

「大したこたぁない。杖を借りりゃ、自分で歩ける。心配するのは夜まで取っとけ」

「……?」

 相手の言う意味がわからず、フィンは眉を寄せたが、それ以上は何の説明もなかった。手当てが済むとイグロスは自分で言った通り、杖を借りて独力で立ち上がった。

「それで、俺は今から隊長の鉄拳を覚悟しとかなきゃならねえ、っと……。帰り道は分かるな? 俺は先に戻るが、おまえはフィアネラ様に祈って貰って、後から追いかけて来い。きっちりご加護を頼んどけよ」

 奇妙な命令を下しながらも、その表情は真剣だ。フィンは困惑したが、この五日で「なぜ」「どうして」と問うことの無駄を悟っていたので、ただ大人しく「はい」とうなずいて、後ろに下がった。

 イグロスは覚束ない足取りで数歩進み、それからコツを掴んだらしく、ゆっくりと去っていった。フィンは彼の背を見送りながら、無意識に胸の辺りに手を置いていた。そうすれば、不安にざわつく心を鎮められるというかのように。

 イグロスの姿が建物の陰に消えると、フィンは我に返って神殿の方へと走り出した。

 救いを求める人々が大勢祈りを捧げており、祭司フィアネラはすがりつく一人一人に穏やかな言葉をかけて、なだめていた。

「フィアネラ様」

 遠慮がちにフィンが呼びかけると、フィアネラは顔を上げて微笑んだ。

「こんにちは、フィニアス。久しぶりですね」

「俺のこと、覚えてらしたんですか」

「ええ、もちろん。あなたは孤児院にいた頃から、いつも礼儀正しい子だったから。こんな子供のうちから大人みたいにしっかりしていて、大丈夫かしらと心配したものよ。もっとも、今の所、問題なく成長してくれたようだけれど」

 ふふ、と懐かしそうに笑い、フィアネラは手招きした。フィンは褒められたのか否かよく分からなくて複雑な顔をしながら、祭司の前にひざまずく。その頭を軽く両手で挟み、フィアネラは真顔になった。

「祝福を受けに来たのですね。イグロスが捻挫したから、そうではないかと思いましたが……」

「どういうことですか?」

 フィンが訝しむ。フィアネラの慈愛に満ちた笑みが、かすかに翳った。

「あなたも見てきたでしょうけれど、元軍団兵たちのふるまいは、決して褒められたものではありません。けれど、それでも私達は彼らを許さねばならないのです。いいえ、感謝さえしなければならない。その意味を、あなたも知るでしょう。今は余計なことを言ってあなたを恐れさせたくありません。ただ、アウディア様のご加護を」

 淡々と言って、彼女はそっとフィンの額に唇をつけた。そして、「あら」と目をしばたたく。

「あなたはもうネーナ様のご加護を受けているわね。誰かに祝福して貰った?」

「えっ?」フィンは一瞬きょとんとし、それからああと思い出した。「ネリスが……妹が、おまじないをかけてくれました。神殿の前でたまたま行き会って。フィアネラ様に教わったと言っていましたが」

「あの子が……そうですか」

 良かったわ、とフィアネラは目を細める。何か意味ありげなその表情と声音に、フィンは不安をかき立てられた。だがフィアネラは説明せず、二本の指でフィンの両肩に触れた。

「では、娘神だけでなく母神のご加護もありますように」

 天空の神デイアと大海の女神アウディアが接するところから、大地の女神ネーナが生まれた。それがこのディアティウスの成り立ちについての神話だ。

 ネリスのおまじないに女神ネーナの加護が宿るとは信じられなかったが、フィンは黙ってフィアネラの祝福を受けた。自分にはその手の繊細な感覚はないらしいと自覚していたし、今はたとえ気休めでも、出来るだけ多くの加護が欲しい。こんな荒んだ状態になる前であったなら、ネリスに祭司の資質があるかもしれない、などという話は笑い飛ばしていただろうが。

 ともあれ、フィンはフィアネラに礼を言って暇を告げ、兵営へと走り出した。

 途中でのろのろ歩きのイグロスに追いついたが、彼はフィンの手助けを断り、じっと何かを探るようにフィンを見つめてから言った。

「先に戻って、隊長にこのことを報告しろ。兵営まで駆け足だ」

 また走れと言われ、フィンは一瞬顔をしかめた。が、口答えはせず、はいと応じて命じられた通りにする。この五日間で随分、走り続けることに慣らされた。今度は足を止めることが難しくなるんじゃなかろうか、などと考え、フィンはふと振り返った。

 イグロスは杖に寄りかかったまま、じっとフィンを見つめていた。罪の意識を浮かべた表情で。その理由をフィンがようやっと知ったのは、マスドに事の次第を報告した後だった。

「あの馬鹿が、足を捻挫しただと!?」

 マスドはこれ以上ないという渋面で吠えるようにくり返し、腹立ち紛れに部屋の壁を蹴りつけた。既にいくつも靴跡がついている上に、新しい汚れが加わる。フィンは余計な事を言わないように口をつぐみ、報告を終えた姿勢のまま直立していた。

 マスドはひとしきり罵声と呪詛を吐き散らしてから、ずいとフィンに詰め寄り、間近で目を覗き込んできた。

「それで、おまえはしっかりフィアネラ様の祝福を受けてきたんだな?」

「はい」

「なら、ついて来い。くそったれめ」

 罵ったのはフィンのことではなく、ここにいないイグロスのことだろう。荒々しく兵営を歩いていくマスドの後から、フィンも不安に顔を曇らせて続いた。

 連れて行かれたのは中庭で、いつものように数人が木剣を振り回していた。マスドは予備の木剣を立ててあるところから一本取り、フィンに投げて寄越した。

「利き手で持て。反対の手にはこれだ」

 次に彼が投げてきたのは、盾ではなく、火のついていない松明だった。フィンは両手にそれぞれを持ち、理解がじんわりと脳に広がるのを感じた。続いて、恐怖を。

「……まさか、これ」

 平静を装ったつもりだったが、声がかすれた。マスドが皮肉な笑みに口元を歪める。

「もっとしごいて足を鍛えてからと思っていたんだがな。恨むならイグロスを恨め。一通りは稽古をつけてやる。その後すこし眠っておけ。夕の鐘が鳴ったら……お前の行き場所は分かってるな?」

 冷たい沈黙が下りた。まわりにいた数人の兵士も、二人の会話から状況を察し、こわばった顔でフィンを見つめている。

(ああ、どうかお守り下さい。母なるアウディア様、ネーナ様)

 フィンは目を閉じ、二人の女神に祈った。心はちっとも安らがなかったが、しかし覚悟は出来た。目を開けて、マスドの酷薄な目を見返す。

「はい」彼はしっかりした声で答えた。「城門の……外です」

「そうだ」

 来い、とマスドはフィンを中庭に引き出す。付け焼刃の稽古がどれほどの役に立つかは分からない。だが、やらないよりはましだ。

(少なくとも、ちょっとした儀式にはなるさ)

 フィンはわざと皮肉に考え、木剣の柄を握った。かつては軍団兵になりたくて、手作りの木剣で我流の稽古をしたものだが、今また木剣を握っているのは何のためだろう。

(生きるためだ、馬鹿。しっかりしろ!)

 フィンは唇を引き結び、剣を構える。マスドの容赦ない稽古が始まった。

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