5-4. 卑怯者
フィンは暗闇の中にいた。
どうしてここにいるのか、どこへ行こうとしていたのか。良くわからない。
――と。
ぽつん。一対の青い光が灯った。小さな、蛍ほどの青い灯。
茫然とそれを見つめていると、光は気付かぬ間に胡桃ほどの大きさにまで膨れていた。
寒い。ぞくりと震え、フィンは不意に我に返る。
青い光がほんの少し、細くなる。声はなく、ただ、笑いの気配だけが闇の中を伝ってきた。
(おまえは)
あの時の狼か。ウィネアに入る前夜、フィンの前に現れて何もせずに去った、闇の獣。
(何なんだ、どうしてここにいる。何が可笑しいんだ)
小さな泡が湧き上がるにも似た、くっくっという音が聞こえた。その不吉さにフィンは身震いする。
――愚カナ。
一言、そう聞こえた。それが何を意味するのか、フィンは瞬時に理解し、息を飲んだ。
(やめろ)
無意識に首を振る。だが青い光は、ぱちりと開いてフィンを見つめた後、再び愉しげに細くなった。ふふ、と、鼻息のような笑い声のような、曖昧な音が漏れる。
――本当ニ、愚カナ……
声が遠くなる。愚かと言いながらも、しかしその残響には軽蔑も嘲笑もなく、むしろいっそ、愛しそうな、と言えるほどの気配が漂っていた。
光がすうっと遠のく。フィンは必死で手を伸ばした。
(やめろ、駄目だ!!)
光が 小さくなって 消 え る ――
「――!!」
飛び起きた勢いで前のめりになり、フィンは頭を抱えて荒い息をついた。体がガタガタ震え、意志の力では止められない。
「フィニアス?」
どうしたんだ、と眠たそうな声が問う。振り向くと、オアンドゥスとファウナの不審げな顔が、頼りない角灯の光に浮かび上がっていた。打ち捨てられた樵の小屋、古い干草に横たわっている両親と、その間で深く眠り込んでいるファーネイン。泣き疲れ、歩き疲れたのだろう。
角灯はナナイスから持ってきたものだったが、今は加護を失ってただの明かりでしかない。それでも、夢で見たような闇は、小屋の隅にほんの少しへばりついているだけだった。
フィンはゆっくり辺りを見回し、自分の置かれている状況を思い出すと、血の気の失せた指で顔をゴシゴシこすって立ち上がった。
「レーナ」
呼ぶとすぐに、ふわりと白い光をまとった少女が現れる。フィンはその金色の瞳を見つめて言った。
「助けに行かないと。皆が危ない」
「どうして?」
レーナは不思議そうに小首を傾げた。その問いの意味がすぐには分からず、フィンは眉を寄せる。じきに、心の中にレーナの感覚が染みてきて、彼は愕然とした。
何を根拠に、と問う「どうして」ではない。彼女が問うたのは、なぜ助けなければならないのか、だったのだ。
「どうして、って……あいつだよ。闇の獣が、隊長たちを見つけたんだ。だから助けに行かないと」
「でも」ふたたびレーナは困惑気味に目をしばたいた。「フィンの大事な人はここにいるでしょう?」
さらりと言われたその言葉は、痛烈な一撃となってフィンを見舞った。フィンは衝撃に怯み、己の胸を押さえる。心配そうに呼びかける両親の声も、耳に届かなかった。
そうだ。フィンが守りたいのは家族であって、他人ではない。
今、小屋の中とはいえ角灯ひとつで見張りも立てずに眠っていられるのは、レーナが闇の眷属を遠ざけてくれているお陰だ。もしフィンがヴァルトたちを助けに行くなら、両親とファーネインは取り残され……殺されるだろう。彼らを置き去りにして他人を助けには行けない。
イグロスの姿が脳裏をよぎった。他の全員を見捨ててもファーネインを守ると言い切った男。結局、彼は他人に情けをかけたが為に命を落としたのだ。
彼の轍を踏むことは出来ない。フィンには、後を託す相手がいないのだから。
「――……」
深い吐息が漏れた。のろのろと腰を下ろし、両手で顔を覆う。
いつか自分も誰かを見捨てるかもしれない、そう考えた日のことを思い出す。
こんな状況に陥ったのは、もとを質せば己の判断の誤りゆえだということも、
否、自分以外の人間にも原因は確かにあったのだということも、
あれもこれもすべて考えて――その上でこぼれた、重い吐息だった。
〈分かったよ、レーナ。助けには……行かない〉
そう伝えたフィンの心に、レーナがそっと優しく触れる。一瞬、フィンはそれを振り払いたい衝動に駆られた。だが子供じみた八つ当たりだとの自覚が忍耐を強い、結果フィンは、怒りや無力感といった暗い感情が溶かされて消えるのを、渋々ながら容認することになった。その罪悪感さえ、じきに薄れてしまったが。
「……すみません、おじさん、おばさん。起こしてしまって」
小声で謝ると、フィンは弱々しく微笑んで、出来れば寝て下さい、と頼んだ。
両親が不安げながらもふたたび横たわる。だが寝てくれと言った当人は、そのまま、まんじりともせず夜明けを迎えた。
小鳥がさえずり、遠くで鶏が刻を作る。フィンは眠る三人を置いてそっと小屋の外に出ると、地面を見下ろしてぎくりとした。獣の足跡だ。狼というよりはまるで熊のような大きさ。それ以外にも、正体不明の爪痕がひとつ、ふたつ……。
フィンは足で地面をならして痕を消し、木立の間に漂う白い靄を見渡してから、ゆっくり歩き出した。夏とは言え早朝の空気は冷たい。欠伸を噛み殺して、フィンは腕をこすった。
じきに木立が切れて、細い街道が現れる。ウィネアから北東のテトナへ向かう街道と、南東のカルスム峠へ向かう街道とを結ぶ、横道だ。
このままずっと左、すなわち南へ行けば、じきにカルスム行きの街道と交わり、そこから西へ折れると、いずれコムリスへ続く街道に合流する。フィンはそちらを見やってから、今度は右、すなわち北を眺めた。追手は、あちらから姿を見せるはずだ。フィンたちの行き先に気付いたなら。それ以前に、夜を無事に越せたなら。
フィンはふっと息をこぼし、街道脇の小川にしゃがんで顔を洗った。その頃には次第に靄が晴れ、世界はどんどん明るくなりつつあった。
袖で顔を拭き、もう一度北を見やる。追手は来ない。フィンは束の間そこで立ち尽くしていたが、決心したように踵を返して小屋へと歩き出した。ぐずぐずしていたら、ネリスたちと合流できなくなる。
しばしの後、フィンたちはささやかな朝食を終えて街道に出た。膨れっ面でぐずぐずしているファーネインを連れて歩き出したところで、遠く馬蹄と金属の触れ合う音が聞こえてきて、一行は足を止めた。ファーネインがぱっと顔を上げ、期待を込めて街道の彼方を見つめる。
フィンはすっと目を細め、それからつぶやくように言った。
「ヴァルト隊長です」
一行は逃げも隠れもしなかった。追手の足音は、軍団の速歩ではない。のろのろと足を引きずるかのようで、疲れ果てて――ウィネアに来る前のフィンたちと同じだ。
やがて軍団兵の姿がはっきり見える距離まで近付くと、ファーネインが表情を曇らせた。不安げにそわそわし、オアンドゥスの背後に隠れる。
無理もなかった。騎乗したヴァルトを先頭にした集団は、血に汚れ、傷ついて、山賊かと見紛うほどの有様だったのだ。
フィンの前まで来ると、ヴァルトは落ちるように下馬し、ふうっと息を吐いた。
「予想が外れた」
ぼそりと言って、彼は後続の面々を漠然と見やる。
「一匹二匹か、まったく出て来ないって方は予想してたし、対策も考えてたんだがな。まさかあんなに大勢で歓迎してくれるとは、俺も偉くなったもんだ。どさくさ紛れにこっそり逃げるとか、そんな話じゃあなくなっちまった。ここにいるのが生き残りの全員だ。まぁしかしなんだな、さすがにテトナから来た連中は全員無事だよ。それに、こっそり逃げた場合よりも金と食糧の割り当ては増えたし、馬まで手に入った」
「……すみません」
「おいおい」ヴァルトが呆れる。「闇の獣の動きまで、おまえの責任じゃなかろうが。どのみち、おまえの脱走に便乗すると決めたのは俺の勝手だ。小僧ごときが偉そうに謝ってないで、いいから連中の荷物をちょっとでも引き受けてやれ」
偉そうにしたつもりはないんだが、とフィンは複雑な気分になりながらも、今にもよろけて倒れそうな軍団兵から荷物を受け取った。オアンドゥスも隊列に歩み寄り、怪我人の肩を軽くしてやる。その間もヴァルトは話を続けていた。
「夜が明けた後で、事情は説明しておいた。俺たちがこのまま逃げるつもりだってこともな。その上で、決めさせてやったよ。ウィネアに戻って、ディルギウスに役立たずの大法螺吹きと罵倒されながら、城壁外の哨戒任務に回されるか。それとも、俺たちと一緒に来るか、ってな」
「戻った人もいるんですか」
フィンが問い返すと、ヴァルトはにやりと不吉な笑みを作った。
「いない。今のところはな。だが戻りたい奴の目星はついてる」
言うや否や、彼は隊列の中に割り込んで、一人の青年を引きずり出した。疲労と疑惑と絶望でどんよりくすんだ顔をしているその兵は、ユーチスだった。
絶句しているフィンの前で、ヴァルトはユーチスの背中を乱暴にどやしつけた。
「そうだろう、なぁユーチス。おまえ、俺たちの行き先を聞き出してからウィネアに戻るつもりなんだろう? 昨日からこそこそ嗅ぎまわりやがって、ばれてないと思ってたか?」
「…………」
ユーチスは唇を噛んでうつむき、答えない。フィンは情けなくて泣きたい気分になり、小さく「どうして」とかすれ声を漏らした。途端にユーチスは開き直ってか、ふてくされた風情で顔を上げる。
「どうして、だって? 何言ってるんだ、君は竜侯だろ。だったら、その力を役に立てる責任があるじゃないか。逃げ出すなんて卑怯だよ。司令官のやり方が気に入らないんなら、君が代わりになればいい。そのぐらい、竜侯だったら出来るだろ? なんで逃げるのさ。僕らを見捨てて、一人だけ、ずるいよ」
「俺は竜侯じゃない!」
フィンは思わずむきになって否定した。あまりにきっぱり断言したもので、生き残りの兵士たちが不安げなまなざしを交わす。その視線の意味――こっちにつくのは間違いかも知れない――を察して、フィンは頭痛をおぼえながら唸った。
「確かに、竜と絆は結んだ。だから、少なくとも俺と……というか、竜のレーナと一緒にいる限りは、闇の獣に不意打ちされる心配だけはしなくていい。だがユーチス、あんたの考えは的外れもいいところだ。俺は竜侯じゃない。そう呼ばれるだけの事は何もしてないし、これから何か出来るだけの力を持っているわけでもない。司令官に成り代わるなんて無茶だ」
出来るとしてもしたくない、という本音は隠して、そこまで言う。フィンはユーチスをきっと睨んだ。ほとんど祈るような気分で。
「頼むユーチス。俺を叙事詩の竜侯と一緒にしないでくれ。俺はただの……粉屋の息子で、特別なところなんか何もないんだ。大それた望みも持っていない。ただ家族と一緒に、どこかで安全に、平穏に暮らしたいだけなんだ」
軍団に入るつもりだったのも、ナナイス駐屯軍であれば、故郷を離れなくて良かったからだ。陸も海も近場を哨戒するだけが仕事だから、長くても数日の留守ですむ。気楽に風車小屋を訪えるし、将来はナナイスの町に自分の所帯を持って、月に数回ネリスや養父母を招いて食事をすれば楽しいだろう――そんな未来図を思い描いていたのに。
何もかも、砕け散ってしまった。
きらきら光る夢の破片をかき集め、なんとか元通りにつなぎ合わせようと必死で努力しているのに、ユーチスはそれを踏みにじったのだ。そんなことを望むのは卑怯だ、と。
悔しくて握り締めた拳が、白くなる。だがユーチスはそれに気付きもしなかった。
「そんなの、誰だってそうだよ。僕だって。だけど皆がそんな風に暮らせる世の中にするには、特別な力が必要だろ。君は力を手に入れたんだ。竜との絆なんて、簡単に手に入るものじゃないんだから、力がないなんて言い逃れだよ」
言い募るうち、ユーチスの声はどんどん甲高くなる。それにともなって、濁った靄がフィンの心にどっと流れ込んだ。
「君には義務があるんだ。(君の義務だ、僕じゃない)
君が竜を連れてウィネアに戻ったら、ウィネアの町全体が、闇の獣を退けられるんじゃないのかい?(出来るはずだ、やってもらわなきゃ、僕はもう戦いたくない)
それだけじゃない。君が軍団にいたら、この先どこへ進軍することになっても、夜中に味方が食われる心配はしなくてすむんだ。(力があるんだから守るのは当然だよ)
それなのに君は、ひとりだけ逃げるっていうのか!(正論だ、僕は正しい、間違ってない!)」
「うるさい!!」
とうとう堪えきれなくなって、フィンは怒鳴った。
「勝手なことを! あんたは脅えてるだけだ、自分が食われたくないから俺を盾にしたいだけだ! あんたの願いも俺の願いも同じだと言いながら、考えているのは自分の都合ばかりじゃないか。たまたま竜に救われた人間がそばにいるからって、当然の顔をしてたかるのはやめろ!」
怒り任せに喚き、言葉を切った瞬間、しまったと後悔する。こんなにあけすけに、相手の本心を暴露するべきではなかった。他人に真実を突きつけられて、それを認められる人間は多くない――とりわけこんな状況では。
案の定、ユーチスは青ざめて顔をこわばらせ、怒りと恐れのないまぜになった目でフィンを凝視していた。視線がぶつかり、せめぎ合う。
無言の緊張を解いたのは、ヴァルトだった。
「……で、どうする、フィニアス」
平然と問われて、フィンは気をそがれ、目をしばたたく。どうするって何を、と表情で問い返したフィンに、ヴァルトは苦笑で応じた。
「こいつだよ。たかり屋ユーチス君だ。このまま行かせてやったら、ディルギウスに密告するぞ。誰も戻らなければ、少なくとも数日は時間が稼げるし、今度こそディルギウスも、壁の外が危険になってることを認めるかもしれん。だが、こいつがのこのこ司令官に御注進に上がったら……」
あえて最後まで言わず、ヴァルトはユーチスを見た。ことここに至って、ユーチスはようやく自分の置かれた状況を理解したらしい。顔からさらに血の気が引いて、土気色に変わった。つい今しがたまで正論を振りかざしてフィンに犠牲を迫っていたのが、見る間におどおどと怯え、周囲の顔色を窺いだす。
フィンは疲れて眉間を押さえ、ヴァルトを見やった。
「随分、冷酷なことを言うんですね。テトナ以来の仲間でしょう」
「だからって仲良しこよしとは限らんさ。はっきり言っておくが、こいつの命で全員の安全を少しでも買えるなら、俺は喜んでそうするぞ。裏切られて危険を背負い込むより、よっぽどかマシだ」
「裏切りなんて、そんな」
弱々しくユーチスが抗議した。その表情が語る。裏切ったのはそっちじゃないか、嘘をついて、隠し事をして、逃げ出して――。
フィンは小さく頭を振って、まとわりつく他人の感情を追い払った。心の奥に手を伸ばし、レーナの温もりに触れると、少し気分が落ち着いた。
「ともかく……合流地点まで連れて行きましょう。ネリスならちゃんとした傷の手当てが出来ます。それまで考える時間を与えても悪くない。それにあそこなら」
と、そこで彼は声を潜め、ユーチスの耳に入らないようにささやいた。
「殺さなくても、置き去りにするという方法が取れます」
この場所でユーチスを縛って小屋に放置すれば、まず確実に誰にも見つけてもらえず死ぬだろう。だが、ネリスたちの待つ場所なら……。
そんなフィンの考えを理解し、ヴァルトは呆れたのか驚いたのか、眉を吊り上げた。
「お優しいこった。俺はてっきり、おまえさんはこいつが嫌いだと思ってたが」
ずばりと言われてフィンは赤面した。答えに詰まって口ごもる。
ヴァルトは鼻で笑い、面白そうに続けた。
「あれだけ露骨に容赦なく接しておいて、今更何をとぼけてるんだ。いやまったく、おまえさんには嫌われたくないもんだと、俺たちゃしみじみ思ったね。まあいいさ、それだけ嫌われてもお情けはかけて貰えると分かったのは、実にめでたい」
呵々と笑った隊長に、部下の間から失笑がこぼれる。情けない顔をしているのは、当のフィンとユーチスだけだ。
ヴァルトは一行を振り返り、声を張り上げて励ました。
「よし、それじゃ皆、もうちょっと踏ん張れ! この先で可愛いお嬢ちゃんが待ってるからな、そこまで行ったら休憩だ!」
不景気な同意の声が上がり、盾を打つ音がまばらに響く。ヴァルトは肩を竦め、フィンと一家を見回すと、小声で言った。
「馬にあの子供を乗せてやれ。まったく……おまえがあんなガキに執着するから、ディルギウスは面子を潰されたってカンカンだぞ。放っておけば良かったんだよ、おまえのガキでもあるまいに」
「誓いを立てたんです」
フィンは短く厳かにそれだけ言い、それ以上は聞かぬとばかりきっぱり背を向けて、ファーネインを馬の鞍に押し上げる。ヴァルトはそんなフィンの後姿をじっと見つめ、やれやれとつぶやいた。
「誓い、か。いまだに守る奴がいるとはな。しかもそれが……」
「何ですか?」
フィンが聞きつけて振り返る。ヴァルトは「いや」とごまかし、再び先頭に立って歩き出した。
傷つき疲れた隊列が、ぞろぞろと動き出す。ユーチスは逃げ出さないように周りを囲まれた状態で、小突かれ、亡霊のようにふらつきながら歩いていた。




