5-1. 逃亡(1)
五章
計画の細部を詰め、準備を整えるのには、さらに日数がかかった。その間も噂は消えるどころか広がり続け、兵営の外でも様々に変化した内容がささやき交わされるようになった。
竜が現れたというだけにとどまらず、盗賊を一掃してくれたという話から、いや軍団の雇った呪い師が呼び出した幻だ、いやいや、軍団兵の一人が危機に陥った時、天から眩い光が射して竜が舞い降りたのだ――などという作り話めいた、しかし真実に近いものまで。
司令官室から戻ってきたヴァルトが渋い顔でフィンを呼んだのも、こうなっては当然の成り行きだった。
「司令官様が直々におまえに会いたいんだと」
「……何の件か、言われましたか」
「イグロスの遺骨集めについてだが、まぁそいつは口実だろう。許可は出してやるがその前に本人に確認したいことがある、とさ」
ヴァルトは肩を竦め、意地悪くにんまりした。
「おまえがすっとぼけやすいように、言っといてやったよ。『呼ぶのは構いませんが司令官、あいつは昨夜から酷い腹下しで便所の虜になってますんで、長引かせないようにご注意下さい』ってなわけだ、せいぜいへっぴり腰の情けないところを見せて来い。おっと、ブルッて本当に漏らすなよ。臭いケツで戻って来たら締め出すからな」
愉しげな隊長に、傍で聞いていた兵の数人が堪えきれずふきだす。フィンは無言のまま、しかめっ面で耐えた。本当にあんたは“くそったれ”が好きだよな、との悪態は内心だけにとどめ、やれやれと小さく頭を振って詰所を出る。閉めた扉の向こうでどっと笑い声が起こったが、その理由を知りたいとは思わなかった。
ともあれ、下らないことで疲れたお陰で演技の手間は省けた。司令官室に現れたフィンを見るや、ディルギウスは片眉を上げ、胡散臭げな目つきをした後、ごほんと咳払いして切り出した。
「ナナイスの兵の遺骨を拾いに行くらしいな。北から連れて来た全員をひきつれて、城壁の外を散歩するつもりか」
「いいえ。危険ですし、子供たちは場所を覚えていないでしょう。俺の両親に手伝って貰って、あとは一人だけ……イグロスの姪を連れて行きます。遺品の見分けがつくかもしれないので」
用心深く答えたフィンに、ディルギウスは鼻を鳴らした。ナナイスからの信書を渡した時と同じように。
「それなら良い」
ディルギウスは独り言のようにつぶやき、うなずいた。フィンの胃がよじれる。本当に腹具合が悪くなりそうだった。
それなら良い? ではどうだったら良くないと言うのか。司令官は何を警戒しているのだ?
ディルギウスはじろりとフィンを睨み、彼が青ざめているのを見て眉を寄せた。ヴァルトの嘘っぱちを真に受けているのだとしたら、何かフィンにとっては不名誉なことを懸念したのだろう。
「あとひとつ、確認だ。噂では、貴様を助けるために竜が姿を現したそうだな。事実か」
「誰がそんなことを?」
思わずフィンは目を丸くして問い返した。竜の噂はともかく、なぜ自分が名指しされたのか。疑問はしかし、破裂した癇癪に吹き飛ばされた。
「訊いたのはこっちだ! 答えろ!!」
慌ててフィンは表情を取り繕い、その拍子に演技を思い出してそわそわした。
「何かの間違いです、司令官」
もう行っても良いですか、と訴えるような声音で弱々しく答え、ちらっとドアを盗み見る。ディルギウスは顔をしかめたが、その程度では許してくれなかった。
「では貴様は竜など見てもいないと言うのだな」
「竜なんて、そんなもの……噂でしょう?」
頼りなく言うと同時に、違う、相手が望んでいるのはこんな言葉ではない、と直感する。フィンは牡蠣にあたった時の記憶を掘り起こしながら、もぐもぐと言葉を継いだ。
「いるとしても、ただの粉屋の息子が助けて貰える筈、ありません。もっと立派な軍人ならともかく……失礼、司令官、その」
腹を押さえて前屈みになったフィンを眺め、ディルギウスは侮蔑に満ちた傲慢な笑みを浮かべた。それを見上げたフィンの視界に、赤黒い靄がかかる。脳裏に閃いたのは、巨大な翼のある生物を背後に従えたディルギウスが、額ずく人々を踏みつけて笑う姿。
(勘弁してくれ、今は)
フィンは咄嗟に顔を伏せ、ぎゅっと目を瞑った。頭上でディルギウスが鼻を鳴らす音が聞こえる。
「もう良い、行け」
野良犬を追うがごとき声音で命じられたことも、今は気にならなかった。フィンは挨拶もそこそこに、転がるように部屋を飛び出す。一瞬だけ、後でどんな噂が立つやら、という考えが脳裏をよぎったが、フィンはすぐにそれを振り払って一目散に走り出した。
ウィネアの北郊外は、前に通った時とは別天地のようだった。夏を迎えて白や薄紫の小さな花があちこちに絨毯を広げ、空もどんよりして寒かった以前とは違い、からりと晴れている。暑くてかなわないぐらいだ。
街道から外れて荒野に出る前に、フィンは墓地の一画に足を向けた。数多ある似たり寄ったりのつましい庶民の墓にまじって、まだ新しい石がひとつ。碑文はなく名前だけだ――イグロス。手配したのはヴァルトだが、見知らぬ他人であるにしても同じ軍団兵に対してあまりに素っ気ない。
フィンは、しばし無言でそれを見下ろしていた。自分なら何か刻むべき言葉を思いつけるだろうか、とぼんやり考えたものの、何も浮かばなかった。どちらにせよ、そんなものは必要ない。フィンは屈んで墓石の下に手を入れ、骨壺をおさめるべき場所をまさぐった。指先にふれた小さな袋が、かすかにチャリッとささやく。
遠くから門番の視線を背中に感じつつ、フィンはそれを手の中に握り込み、素早く懐に隠すと、何食わぬ風情でまた歩き出した。
久しぶりに外に出たファーネインは、一月ばかり前のことなど忘れたようにはしゃいでいた。蝶や鳥を追いかけて走り、花を摘んでは吹雪にして散らす。オアンドゥスとファウナも笑顔で見守っていた。それぞれが手にしているのは、四人分の昼食と水筒だ。
フィンの荷物は、遺品を集めるための袋と道具、それに万一に備えての剣と角灯だった。怪しまれずに持ち出せる理由も、一応はあった。もし日暮れまでに戻れず締め出しをくらったら、闇の獣の危険がなくとも火の気なしで一晩過ごすのは厳しいからだ。
しばらくして街道を外れ、北東へ歩き続けると、昼近くなって見覚えのある丘が目に入った。花が咲き乱れるのどかな風景になっていても、その場所は確かに間違えようのない痛みを残している。
ゆっくりと斜面を登り、頂上から見下ろすと、緑の草に埋もれるようにして黒く焼け焦げた跡が残っていた。荷車を燃やし、イグロスの遺体を仮の火葬に付した跡。ファーネインも流石にこれには記憶を呼び覚まされたらしく、表情を消しておとなしくなった。
作業する間、誰もが無言だった。オアンドゥスとフィンは焼け跡をかき回し、炭化した横木や車軸を除けていく。ファウナはファーネインと一緒に周辺を歩き、落ちている物を探した。
しばらくして、彼らはそれぞれの収穫を手に集まった。
予想していなかったわけではないが、それでも、イグロスの骨が――誰の骨も――残っていなかったのは、少し辛かった。闇の獣に食われたのか、狐や狼などが持ち去ったために散逸してしまったのか。見付かったのは、剣帯の止め具や、小さなお守りの神像らしき残骸、それに誰の物かはっきりしない靴紐や衣服の切れ端ぐらいだった。
「これじゃあどのみち、墓には入れられないな」
オアンドゥスが苦笑し、フィンもうなずいてその場に小さな穴を掘った。かつてこの大地に生きていたものの名残を埋め、上に小さな石をいくつか積むと、その前で小さな火を焚いた。香や供物を焼くのが本来のやり方だが、今は何もない。
四人は火が消えるまで黙祷し、それから少しその場を離れて草の上に腰を下ろすと、持参した昼食をとった。二度焼きした日持ちのするパンと、水とチーズ、それに果物が少し。内容は質素だが、量は充分だった。一度では食べきれないほどに。
まだ袋の中に干した杏や何かがあるのを見て、ファーネインがもっととねだったが、ファウナはやんわりそれを止め、片付けはじめた。
「もう帰るの?」
つまんない、とファーネインは口を尖らせる。フィンは曖昧な表情をし、短く「いいや」と答えて微笑んだ。ファーネインは嬉しそうに顔を輝かせたが、自分を見下ろす大人たちの奇妙な雰囲気に気付くと、戸惑いに笑みを消した。
「帰らないんだ、ファーネイン。孤児院には戻らない」
フィンが静かに告げる。ファーネインは見る間に不安と怒りに眉を寄せ、口を歪めて泣き出しそうになった。
「どうして? 嫌よ、あたし帰る」
怯えたように言い、ファーネインはさっと立ち上がる。だがフィンの手がその腕をとらえた。どう言い聞かせたら良いか散々悩んだにもかかわらず、フィンが言えたのはあまりに端的な事実だけだった。
「駄目だ。孤児院に戻ったら、殺されるんだぞ」
「嘘よ! なんでそんなこと言うの!?」
ファーネインは腕を振りほどこうとして暴れ、それがかなわないと見ると、耳をつんざく金切り声を上げた。
「ファーネイン! 嘘じゃない、あいつの屋敷に行っちゃ駄目なんだ」
フィンはなんとか説得しようとしたが、その言葉もファーネインの悲鳴にかき消されて届かない。
「離して! 大っ嫌い、離してよ! 馬鹿ぁ!」
ファーネインは小さな拳でフィンをめちゃくちゃに殴りつけ、髪を振り乱して泣き叫ぶ。と、それまで静観していたファウナが傍らに膝をつき、さっと手を上げた。
頬をひっぱたかれ、ファーネインが驚きと恐怖に目を見開く。叫びが止んだ隙に、ファウナが厳しく言った。
「静かになさい。でないと次はもっと強くぶちますよ」
有無を言わせぬ強い声音に、ファーネインは息を飲み、竦んで縮こまる。その深緑の目を、ファウナは容赦なく見据えた。
「あなたにお菓子をくれるのが、良い人ばかりとは限らないのよ、ファーネイン。あの男……ニアルドはね、あなたをお菓子でおびき寄せて自分の屋敷に連れて行った後、狼みたいにあなたを食べてしまうつもりなの。だから逃げなきゃいけないのよ」
「…………」
ファーネインは小さく首を振ったが、声は出さなかった。かわりに、ついさっきまで振りほどこうとしていたフィンの腕にしがみつく。ファウナが手を伸ばすと、びくりとしてさらに首を竦めた。
ファウナは微苦笑し、乱れた黒髪を整えてやりながら続ける。
「怖いの? でも、あの男の屋敷に行ったら、こんなことが毎日になるのよ。あなたの嫌がることをたくさんさせられて、あなたが泣いたら一回どころか何十回もぶたれて、その後で同じ手があなたを撫でるの。体じゅうをね」
「…………うそ」
「嘘じゃありません。ファーネイン、賢くなりなさい。あなたはとても可愛いから、この先も大勢の男が、甘いお菓子やきれいな服や花を持って、優しい言葉であなたを呼び寄せようとするわ。でもそういう男たちのほとんどはね、あなたを愛してはいない。あなたが可愛いお人形を見つけて、あれが欲しい、って駄々をこねるのと一緒。ちょっと遊んだら、飽きて捨ててしまうのよ」
「そんなの嘘よ。ニアルドおじさん、優しかったもの。あたしのこと、大事にするって言ったもの」
ファーネインは弱々しく反論し、またしゃくりあげはじめた。今度はファウナも、静かになさいと叱らなかった。
「男はよくそう言うのよ。君だけは特別だ、って」
淡々とした口調に潜む剣呑さに、黙って控えている男二人は顔を見合わせた。今のファウナは母親でも妻でもなく、一人の女だった。
「私の従妹にも、あなたと同じぐらい可愛くて素敵な人がいたのよ。でも、ろくでなしの男に騙されてみじめな死に方をした。あなたにはそうなって欲しくないの。目の前にあるお菓子に飛びつかないで我慢すること、用心することを覚えなさい。わかった?」
諭されてファーネインは、小さくうなずいた。だが実際には、何も分かってはいないのだろう。ぽろぽろと涙をこぼし、唇を噛みしめるその表情は、こんな仕打ちは理不尽だ、酷い、あんまりだ、と訴えている。
それでも、今は幼い心が納得するまで付き合ってはいられない。大人たちは顔を見合わせ、それぞれなりに小さくため息をこぼすと、立ち上がった。
「よし、行こう。ファーネイン、歩けるか?」
フィンの問いにも、ファーネインは地面を見つめて何も答えない。困って両親を見たフィンに代わり、オアンドゥスが少女を抱き上げた。
「しばらくは俺が抱こう。おまえは片手だけでも空けておかないとな」
「すみません。お願いします」
フィンはぺこりと頭を下げると、ぐるりを見渡してから、先頭に立って歩き出した。
遙かナナイスへと続く街道に出られるよう、北東を目指して。