4-7. 忍び寄る魔手
悩みと不安を抱えたままにもかかわらず、眠りは至福と呼べるほどだった。
レーナの姿は見えなくともその存在が強く鮮明に感じられ、広々とした解放感と、揺るぎない力が心身に満ちてくる。万能感、あるいは超越感と言おうか。しかしその感覚には驕りも自信も伴っていなかった。何か理解を超えた大きなもの、その一部に溶け込んでゆく感覚。
優しい温もりに満たされてフィンは眠りに落ち、そのままの気分で清々しい目覚めを迎えた。寝起きから頭がすっきりとして、活力がみなぎっている。
(これも『絆』の力なのか。だとしたら随分ありがたいものだな)
ごめんなさい、なんて。謝られるようなことは、何もないように思えるのに。
(……差し引いてもまだ足りない犠牲があるとでも?)
いずれこの先、それを捧げることになるのだろうか。フィンは眉を寄せ、服を着替えて窓の外を見やった。
薄明にまどろむ街は、まだ静かだ。広場の公共水道まで水を汲みに行く足音が、桶の金具のつぶやきと共に、そっと路地を通り過ぎてゆく。使用人か、庶民の家では子供の仕事だ。
ナナイスの孤児院での暮らしを思い出し、フィンは束の間茫然とした。それからふと頭を振り、懸念を払う。先のことまで考えなくとも、既に不安材料は目の前にごろごろしているのだ。いつまでレーナのことを隠し通せるか、ばれた時のために何をしておくべきか。家族は……?
ファウナはああ言ったが、フィンは自分が姿を消すことですべて解決するのなら、たとえ恨まれてもそうするつもりだった。しかし単に消えるだけではいけない。脱走兵とみなされたら、家族はこの住まいから追い出されるだろう。
(どうしたものかな)
あれこれと頭を捻りながら、フィンはいつもと変わらぬ風情を装って、哨戒部隊の詰所へと向かった。
幸いなことに、それからしばらくは平穏な日々が続いた。
南に通じる街道は、盗賊が追い散らされたおかげで少し安全になったらしく、騒動ひとつ生じなかった。部隊の環境は良くも悪くも変わらず、また、誰の口からも竜の一言さえ出なかった。まるであの日の出来事から、フィンに関する部分が削り取られたかのように。ただユーチスだけは「怪我はもうすっかりいいのかい?」と、負傷などしていないはずのフィンを盛大に心配して、全員を白けさせてくれたが。
ともあれ、すぐに何かが起こるということはなかった。……表面的には。
恐れていた事態がじわじわと姿を現してきたのは、盗賊退治の一件から五日余り経ち、夏の暑気がすっかり北辺を覆い尽くした頃だった。
噂が広がり、彼ら自身の耳にも届くようになったのだ。
その朝、フィンは兵営の庭を歩いていた。早々と日陰に逃げ込んだ犬が舌を垂らし、ハッハッと喘いでいる。フィンはちょっと羨ましそうにそれを見やって微笑んだが、顔を上げると、見知らぬ青年と視線がぶつかった。軍団兵なのは確かだが、名前はおろか顔に覚えもない。だが相手は、目が合ったのを幸いとばかりいそいそやって来て、いきなり訊いた。
「なあおい、竜が出たって本当か? おまえは城壁の外にいるんだろ、見たことないか?」
あまりに単刀直入な質問だったので、フィンは即答できずに竦んだ。表情を取り繕うことも出来ずに凝固してしまう。するとありがたくも相手は勝手に解釈して、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「いやその、ただの噂だよ。俺も信じてるわけじゃないぞ、ちょっとその……まあいいや、変なこと訊いて悪かったな」
正気を疑われたとでも思ってか、彼はごまかすように手を振ってそそくさと立ち去った。
ついに来たか、との思いを抱いてフィンが急ぎ足に詰所へ向かうと、既に集まっていた他の面々も、不穏な黒い影をまといつかせていた。
「遅いぞ。その顔からして、おまえも聞いたんだな」
ヴァルトが唸り、フィンは硬い表情のままうなずいた。
「噂が広まっているようです。詳しい話は知らないようでしたが」
「俺が耳にしたのも、単に竜が出たってだけの話だった。いずれどっかから伝わるだろうとは思ったがな」
くそったれ、といつもの罵声を付け足して、ヴァルトはため息をついた。
あれだけ巨大な生物がいきなり現れたのである。生き残りの盗賊は誰かれ構わずしゃべりまくっただろうし、もしかしたら、たまたま街道を通りかかって森の外から白い翼の先でも目にした者がいたかも知れない。しかし、それにしても。
「早かったですね」
フィンは言いにくそうに小声で、それでも事実を述べた。ああ、とヴァルトも応じたが、二人とも誰をも見ないように目をそらしていた。この部隊の誰かが漏らした、と結論付けたくはなかったのだ。第一、今さら犯人探しをしても仕方がない。
「問題はどうするかだな」
ヴァルトは白々しく伸びをしてから、フィンに向き直った。
「おまえの事まで突き止められることはないかも知れんが、俺たち全員が怪しまれるのはもうじきだろう。ディルギウスが耳にしたら……俺の予想では、飢えた野良犬並の勢いで食いつくだろうよ」
「利用しようとして、ですか」
フィンが唸ると、横から一人の兵が口を挟んだ。
「隊長、俺たちゃ哨戒に出てますよ。知らなくて良い事を聞きたかありませんからね」
軽くおどけた口調だが、声音は何やら意味深長だ。しかしヴァルトの方はぞんざいにうなずいて、顎で行けと合図しただけだった。
ぞろぞろと兵士たちが出て行く。ユーチスは不満げに彼らと隊長とを見比べ、フィンに向かって何かを言いかけたが、結局むくれた顔をして仲間を追いかけた。
故意にかうっかりか閉め忘れられた扉の外から、甲高い声が「全員の問題だと思うんだけどなぁ」と独り言めかして抗議する。ヴァルトが舌打ちして立ち上がったが、その手が把手にかかるより早く、誰かが外からバタンと急いで閉めた。
ヴァルトは宙ぶらりんになった手を見つめてごほんと咳払いしてから、曖昧に肩を竦めて椅子に腰掛けた。フィンも、手で示されて向かいの椅子に座る。
「さてと」
ヴァルトは初めてまともにフィンを見つめ、厳しい表情で言った。
「正直に答えて貰おうか。おまえはこれから、どうするつもりだ?」
しばらくして詰所へ戻ってきた兵たちは、あえて何も尋ねなかった。ユーチスという例外を除いて。
「結局さぁ、僕らどうすればいいのかなぁ。困るよねぇ」
大声の独り言に、フィンはヴァルトと一瞬目配せを交わし、曖昧な口調で答えた。
「今まで通り、白を切ってくれたらいい。そうすれば俺のことまで突き止められる心配はないだろうし、もし何かあっても俺一人の問題だから、皆に迷惑はかけない」
「君一人って……」
言いかけたユーチスを強引に遮り、兵の一人が声を大きくした。
「ま、確かに、俺たちにゃ関係ねえ話だな。ぼやっと見てりゃ、なるようになるさ」
フィンはうなずくと、隊長に小声で「それじゃ」とだけ言って外へ出た。ユーチスの声が追ってくる。
「ちょっと、どこへ行くんだい?」
「うるさいぞ、ユーチス。俺が用事を頼んだんだ」
ヴァルトにぴしゃりと言われて、ユーチスは納得いかない顔のまま、一旦は口をつぐんだ。が、すぐに閉ざされた扉を見やり、独りごちた。
「どんなに重大なことか、分かってるのかなぁ」
応じる者はおらず、言葉は空中でつかのま漂い、崩れ落ちた。
当のフィンはユーチスの懸念など気にするどころでなく、自分の考え事で頭をいっぱいにして、急ぎ足に孤児院へ向かっていた。
いつもと違って真昼間に現れたフィンに、屋内で子供たちの世話をしていたファウナとオアンドゥスが不審げな顔をした。
どうしたんだ、とオアンドゥスが鋭くささやく。フィンは何でもない態度を装って、小首を傾げた。
「いえ、緊急のことじゃないんです。ただ、軍団の用で……」
「軍団の? マックのことか」
オアンドゥスが訝りながら問い返す。今度はフィンの方が妙な顔になった。それに答えてオアンドゥスが奥の別室を漠然と目で示す。
「さっき、軍団の偉いさんが来たぞ。マックにも入隊を勧めに来たようだったが」
その言葉が終わるか終わらないか、マックが戻ってきた。傍らに付き添っていた軍人が、そのまま別れようとしてふと振り向き、フィンに気付く。アンシウスだった。
「フィニアス? なぜここにいるんだね」
「俺は、ヴァルト隊長の命令で……」
あなたの方こそ、と言いたいのを堪え、フィンは不安げにマックを一瞥してから、アンシウスの前に進み出た。
「ナナイスから同行したイグロスのことです。ウィネアに入る前に亡くなりましたが、彼も軍団兵でしたから、ちゃんとした墓に入れたいと。それで、遺骨を探しに出る相談を」
「なるほど」アンシウスはしかつめらしくうなずいた。「殉職者の葬儀は軍団の責任だな、確かに。時にフィニアス、君の方は調子はどうかね。先日は派手な戦闘があったようだが」
「仕事には大分慣れてきました」
フィンは短く答え、動揺を見せるまいと無表情を保つ。ふむ、とアンシウスは何やら言いたげに眉を上げたが、結局その場は「そうか。では、あまり寄り道をせんようにな」と言い残して立ち去った。
上司の姿が見えなくなると、すぐさまフィンはマックに駆け寄った。
「何を言われたんだ?」
「俺も軍団に入らないか、って」
マックはフィンの態度に不穏なものを感じ取って真面目な顔をしていたが、それでも声には誇らしさが滲んでいた。
「歳はちょっと足りないけど、ひとまず雑用係の名目で入って、実際には軍事訓練を受け始めたらいいんじゃないかって言われたよ。そうしたら、十八になったらすぐに伍長とかになれるから、って」
「…………」
フィンは彼の言葉をどう捉えるべきか分からず、顔をしかめて考え込んだ。
マックが本当に職業軍人としての人生を歩みたいのなら、喜んでやって良い話だ。今の時代に、食いはぐれず将来性が見込める仕事は、数少ない。
だが、だからこそフィンは鵜呑みに出来ないものを感じた。
なぜアンシウスのような肩書きの士官が、わざわざ孤児院に足を運んでまでそんな話を持って来た? 見込みのある少年を早い内に、というのなら、孤児院に話を通しておけば一も二も無く紹介してくれるだろう。多忙の合間に出向く必要などない。
「マック。俺もおまえのために喜びたいところなんだが、今の状況は……少し、複雑だ。アンシウスはほかに何か言わなかったか? 俺のことを訊かれなかったか?」
「やっぱり兄貴絡みかぁ」マックはおどけて肩を竦めた。「でなきゃわざわざ、連隊長なんて人が俺に会いに来るわけないよね」
「おまえの上達ぶりが目覚しいことも、おまえが頼りになる奴だってことも、俺は良く知ってる。でも、アンシウスは知らないはずだ」
フィンが真顔で応じたので、マックは照れたのと鼻白んだのとで、複雑な顔をした。ネリスなら「本当に退屈なんだから」とでも言うところだろう。だがマックはまだその境地には至らないので、首を傾げつつ答えた。
「そうなんだよ。俺もどうしてなんだかちょっと不思議だけど……もしかしたら祭司様が知らせたのかもね。うちの孤児院に、軍団兵志望で見込みのありそうなのが一人いますよ、って。フィン兄のことは何も訊かれなかったよ。一緒に来たのか、って確認されただけだった」
「……だとしたら、まだ噂は上の方まで届いてないのか」
「噂? まさか、フィン兄」
「ああ、軍団内に広まりだしているようなんだ。誰がどうという事までは知れていないが、竜が現れた、と。それで隊長が考えてくれた方法が……」
ひそひそと話していると、外から「どうぞ、こちらです」と案内する声が届いた。二人はハッとなって口をつぐみ、反射的に振り向く。ネリスが客を連れて入ってくるところだった。彼女はフィンがいることにぎょっとした顔を見せたが、それ以上は態度に表さず、素知らぬ風情で案内を続ける。後ろから現れたのは、裕福な身なりの中年男だった。
「あれは?」
なにがなし不快な気分になって、フィンはこそっとマックに訊いた。
「前に言ってた、ファーネインを引き取りたいっていうおっさんだよ」
マックも声をひそめて答える。フィンはしかめっ面になって男の姿を目で追った。視線に気付かず、男はネリスの後をいそいそと歩く。期待に胸がはちきれんばかりなのは、傍目にも分かった。
別の小部屋から、孤児院の職員に連れられてファーネインが現れる。
その瞬間、フィンはいきなり冷たい腐肉を顔に押し付けられたような、強烈な不快感に襲われた。背筋が薄ら寒くなり、胃がのたうつ。目の前で、男の全身を沼地の瘴気が包んだように見えた。
(何なんだ、いったい何がどうなって)
混乱したフィンの意識の片隅で、レーナの心が静かに示唆する。これが『見える』ということだ、と。
確かにフィンの目には、他人には見えていないであろう瘴気が映っていた。かといって、今までの視界が覆い隠されたわけでもない。
正常に見えてもいるのだ。男がにこにこしながらファーネインの頭を撫で、リボンや菓子を与えている姿、それ自体は何ら変化しても隠れてもいない。だが同時に別の感覚が瘴気を捉え、フィンの脳に直接、その正体を送りつけてくる。
――男の意識の中で、ファーネインは全裸にされていた。男の想像の手が、目の前の少女を隅々まで撫で回し、淫らな姿勢を取らせている。
「……っ!」
フィンはあまりのことに堪えきれず膝をついた。胸が悪い、反吐が出そうだ。
男が実に優しい声で、もうじき屋敷の方も準備が整うからね、と話しかけるのが耳に届くと、その本当の意味までが分かってしまった。
ファーネインより先にいた誰かが使っていた部屋、それを片付け、掃除し、その誰かを痕跡もろとも『始末』すること。それが『準備』なのだ、と。
マックやオアンドゥスが心配し、口々に声をかける。彼らの手が背中をさすってくれた途端に、悪寒がすうっと引き、得体の知れない感覚は閉ざされて、五感が元通りになった。それでもフィンはすぐには立ち直れず、床にうずくまったまま荒い息をつき、凝然と絨毯の織目を見つめていた。まだ頭の片隅が痺れているようだ。
(これが……レーナ、これが、君に見えている人間の姿なのか? こんな事まで)
〈いつもすべてが見えるわけではないの〉
痺れた部分でレーナの声が響いた。フィンは驚く力もなく、ただ、そうなのかと納得する。
〈でも、強いものは見えてしまう。欲望や怒りや憎しみは、特に目立ちやすいから。もちろん、大きな喜びや幸福や、あるいは……フィンみたいにきれいな人も、見えやすいのだけど〉
でもそれは数が少ないから、と、レーナの声は少し恐縮そうな響きを帯びた。フィンはうつむいたまま、微かに苦笑いをこぼす。それは竜の責任ではない、人間の責任だ。それとも、そんなものを見せることになった“誓い”を、また悔いているのだろうか。どちらにせよ、
〈君が詫びることじゃない。大丈夫だ〉
思うだけでなく意識して語りかけ、フィンは強いて深く息を吸い込んだ。大丈夫、もう瘴気も腐臭も感じない。今まで通りの、普通の空気だ。
フィンはゆっくり顔を上げ、気遣う人々に、大丈夫、なんでもない、と応じながら立ち上がった。部屋の向こうではそれに気付いた様子もなく、男がファーネインを可愛がっている。
竜の目を持たなければ、何ら疑わしいところのない、心和む光景のはずだった。無邪気に喜ぶファーネイン、純然たる子供好きに見える男の笑顔。
フィンは虚脱感と物悲しさに憑かれ、やるせなくそれを眺めていた。
(連れて行かなくては)
ファーネインを残して逃げるわけにはいかない。誓ったのだ、必ず安全なところに送り届けると。そしてあの男の屋敷は、断じて安全ではない。
(イグロス、あんたが求めた誓いは予想外に重くなりそうだよ。あんたの魂がまだ黄泉でこの世の声を聞いているのなら、少しでいいから力を貸してくれ)
ため息が出そうになるのを堪え、フィンは瞑目した。




