4-6. 家族
フィンの変化に最初に気付いたのは、意外と言おうか当然と言おうか、ファウナだった。フィンは司令官への報告をヴァルトに任せて孤児院へ足を運んだのだが、それを、外で遊ぶ子供たちを呼び集めていたファウナが見つけたのだ。
「おばさん」
フィンはぽろりと口からこぼれるままに呼びかけ、ほんの少し眉を寄せた。死にかけて、父さん母さんと呼ばなかったことを悔いたばかりだというのに、結局また同じことをしているなんて。
だが彼がそんな目に遭ったことなど、ファウナには分からないはずだった。裂けて血に染まった服は兵営で着替えたし、体には目に見えるところも見えないところも、かすり傷ひとつついていないのだから。
にも関らず、ファウナは心配そうに問いかけた。
「何かあったの、フィン?」
思いがけない反応に、フィンはたじろいだ。そして、事実を告げる心構えが出来ていなかったことに気付く。
「何か、って、何がですか?」
態度を決められないまま曖昧にごまかしたものの、余計に怪しくなってしまった。ファウナははっきりと訝る表情になり、子供たちを屋内へ入れてしまうと、フィンにまっすぐ向き合った。
「何かあったのね。私には話せないことなの? 気を遣っているのなら止してちょうだいな、フィン。あなた、自分では気付いていないのかもしれないけれど、昨日とはまるきり……そう、雰囲気がすっかり違っているわよ」
「…………」
フィンは無言で天を見やり、さもありなん、と納得した。家族になってわずか五年ほどとは言え、ファウナは母親だ。フィンが動揺したり傷ついたりしている時には、平静を装っているつもりでも必ずそれを察知したものだ。その鋭い観察眼を逃れられるはずがない。単に死にかけただけでも重大事なのだから。
何からどう話したものかと迷い、フィンはひとまず問題を先送りにした。
「帰ってから、話します」
どのみちここでは誰に聞かれるか分からない。軍団からあてがわれた集合住宅の一室に帰り、家族が顔を揃えてからの方が良いだろう。ただそうなると、マックには話したものかどうか……。
と、まるでフィンの考えを誰かが伝えたかのように、庭を横切ってマックとネリスがやって来た。すっかり本物の兄妹のように仲良くなっている。フィンは二人の姿に微笑を浮かべたが、ふと、奇妙な感覚に目をしばたいた。何か、ちらちらと光る靄のようなものが、二人を取り巻いているように見えたのだ。
瞬きし、目をこすると、それは薄れて消えた。気のせいか、とフィンが訝っていると、今度はネリスの方がフィンを見て目を丸くした。
「お兄、何それ!」
素っ頓狂な声を上げられて、フィンは驚いて思わず後ろを振り返った。同じくびっくりした顔のファウナがいるだけだ。何それ、などと叫ばれるような代物は見当たらない。マックもわけが分からない様子で、ネリスとフィンを忙しなく見比べている。
彼らの反応に、ネリスもしまったと思ったらしい。慌てて口をふさぎ、素早く辺りを見回した。数人の子供と、神殿の下男らしき人影があったが、どれも遠かった。ネリスの声に何事かと立ち止まっていた者も、寄って来はせず、またそれぞれの目的へと動き出す。
ネリスはほっと息をついて、フィンの前へ駆け寄った。そして、いきなり兄の上着を鷲掴みにし、べろんと引っぺがす。
「うわ!? ネリス、おい!」
何をするんだ、と流石にフィンも慌てた。マックとファウナが目を白黒させている間に、ネリスは剥き出しになったフィンの胸をまじまじと見つめ、信じられないというように首を振りながら、手を離した。
誰かがこの現場を見たら何と思うことか。フィンは赤くなってあたふたと身だしなみを整える。困惑するマックとファウナを放って、ネリスは真顔でフィンを見上げた。
「何か、とんでもない事があったんだね。お兄、自分がどうなっちゃったか、分かってないでしょ」
「妹にひん剥かれかけたのは分かってるよ」
唸るように言い返し、フィンは裾をきちんと直す。やれやれとため息をついてから、彼はマックを手招きすると、ごく小声でささやいた。事こうなっては打ち明けるほかない。
「誰にも言うなよ。俺はどうやら竜と絆を結んだらしい」
「――え?」
マックはぽかんとして聞き返した。いきなりおとぎ話の世界を持ち出されて、咄嗟に飲み込めなかったらしい。フィンはちょっと肩を竦め、一段と声を低めた。
「レーナは精霊じゃなくて竜だったんだ。だが、このことが知れたらディルギウス司令官がどう出るか分からない。だから、絶対に秘密にしてくれ」
「…………」
マックは顎が外れそうな顔をしたが、じきにぱくんと口を閉じ、そのままこっくり深くうなずいた。それから彼は奇妙な表情を作って、ファウナとネリスに目をやった。
「おばさんたちは、世にも珍しい話を詳しく聞けるんだよね。いいなぁ」
おどけた言葉を装ってはいるが、目には誠実な理解の色がある。
まったく頼もしいな、とフィンは苦笑気味になり、ファウナを振り返った。
「今夜はマックもうちに泊められませんか?」
「もちろん大歓迎よ」
ファウナは即答し、にっこり笑って、狭くて満足な寝床はないけれど若いから大丈夫よね、などとよく分からない根拠に基づいたことをのたもうた。
そうして、その夜にはフィンの経験は一家とマックの全員が知るところとなった。
秘密厳守は当然として了解されたが、ネリスいわく、「お兄の胸の辺りになんかうねうねしてる光が見えた」のだそうで、同じような祭司の目を持つ者には、早晩露見するに違いなかった。
「でもきっと、そういう人は自分が見たものを言いふらしたりしないよ」
ネリスは楽観的に請け合った。己の力をはっきり自覚するようになってから、以前にはなかった自信や視点を徐々に会得しつつあるようだ。
「神様が関ってるとなったら、ぺらぺら吹聴して良いものじゃないっていうのは、分かると思う。それに……自分の頭がおかしくなったと思われたくはないしね」
肩を竦めたネリスに、フィンは小さくうなずいた。彼女の場合は、状況が切迫していたせいもあるが、家族もごく自然にその力を受け入れた。しかし、皆が皆、そう幸運なわけではない。
「一番怖いのは、半端に見る力のある人が、お兄に気付いちゃうことかも知れない。なんとかそれ、隠せたらいいんだけど」
それ、と言いながらネリスはフィンの胸元に目をやった。フィンもつられて見下ろしたが、もちろん彼には何の変化もわからなかった。ネリスに詩的な表現力がないのは致し方ないにしても、自分の体で「なんかうねうねしてる」のかと思うと、見えないだけに薄気味悪い。
「何か方法が見付かるまで、神殿には来ない方がいいよ。見える人、結構いると思うから」
寂しいけどね、とネリスが言った。マックは不満げだったが、理屈は分かるので反対せずにうなずく。
「俺も何か勉強してるふりをして、神殿の書物を探してみる。もし、どうしても隠し通せないとなったら……」
声が小さくなり、曖昧に途切れた。不安げな視線が交わされ、皆の表情が曇る。
――また、逃げるのか。
口に出さずとも、同じ思いを抱いたことは分かった。
ナナイスから、テトナから逃げ出し、つらい道程を経てどうにか安住の地を見つけたと思ったのに。また、ここにも居られなくなるのだろうか。
「……すまない」
フィンがぽつりと詫びた途端、ネリスが憤然として身を乗り出した。
「ああもう、本っ当にお兄って馬鹿だね! お兄のせいじゃないでしょ!? 悪いのは盗賊! それとぼんくら司令官!」
くたばれ、のしるしに突き出される下品な手つきをして見せたネリスに、両親とフィンが同時に咎める声を上げた。三人から一斉に非難され、ネリスは悪戯っぽく首を竦めてマックを見る。
フィンにじろりと睨まれて、マックは慌てて「俺は教えてないよ」と首を振った。ネリスはとぼけて明後日の方を向いていたが、白々しい口調で話を戻した。
「ともかく、逃げなきゃならなくなったとしても、その時はその時だよ。どのみちウィネアは故郷じゃないんだし、逃げるのだって初めてじゃないもんね。それに今度は……レーナが助けてくれる。でしょ? もう力を封じられていないんだから」
楽勝だよ、と笑って見せたネリスに、フィンも苦笑を返すしかなかった。
「まあ……俺にもレーナにも、どの程度の事が出来るのかは分からないがな。少なくとも、遠くまで見える目と、安全な眠りには事欠かないだろう。ネリスとマックも随分、頼もしくなってきたし」
「うん」
ネリスは少し照れたように、しかし誇らしげにうなずいた。
「フェンタス様がいろいろ薬草のこととか、手当ての方法とか、教えてくれるの。ネーナ様のお力を借りるのは、まだ……なんていうか、うまく出来ないけどね。でも、前より色んなことが“分かる”ようになったし。あたしも、役に立てるよ」
「俺だって」マックが急いで口を挟んだ。「毎日剣の練習してるよ。上手くなった、って、フィン兄も思うだろ? それだけじゃなくて、地図とか空模様の読み方とか、ここの先生から教わってるんだ」
張り合うように努力とその成果を申し立てる二人を眺め、オアンドゥスが「おやおや」とおどけてファウナを振り向いた。
「俺たちの出番がなくなってしまいそうだな」
「本当にね」
ファウナもくすくす笑い、それからフィンに優しく微笑みかけた。
「フィン、何があっても私たちはあなたと一緒にいますからね。ナナイスの時みたいに、一人で決めてしまわないで。申し訳ないとか、自分ひとりが背負えば済む、なんて風には考えないでちょうだいね」
「…………あ」
礼を言おうとして言葉に詰まり、フィンはただ無言で深く頭を下げた。温かい感情が、皆から優しいさざ波のように寄せて来るのが分かる。その感覚がレーナの力によるものなのか、それとも単なる気分的なものなのかは、どうでも良かった。
何があっても、この“家族”は信頼できる。そう確信し、フィンは顔を上げた。途端に、
「痛っ!」
頭上に用意されていた拳にぶつかり、反射的に声を上げる。幼い子供がよくやる古典的な悪戯だ。頭のてっぺんを押さえて渋い顔をしているフィンに、ネリスが勝ち誇ったように言った。
「本っ当、うちのお兄は真面目すぎてつまんないね!」
充分おもちゃにしてるじゃないか、との反論を、フィンは賢明にも飲み込んだのだった。少し喉につかえたけれども。