1-3.兵営暮らし
人間は、どれだけ他人を嫌いになる事が出来るのだろう。
フィンはぼんやりそんなことを考えた。彼を兵営まで連れて行った男は、門番だとばかり思っていたら実は隊長で、名をマスドといった。フィンは幸か不幸か彼に気に入られてしまったらしく、直接彼の指導を頂戴することになった。早い話が下僕扱い、である。
軍事訓練などというものではなく、フィンはとにかくこき使われた。顎で呼びつけられ、些細な用事で兵営の端から端まで、厩舎まで、港まで、とにかく一日中走らされた。
もっとも、そのおかげで兵士たちの堕落ぶりや、町での乱暴狼藉を目の当たりにしたり、もっと悪いことにそれに加われと命じられたりせずに済んでいるのは、ありがたかった。
(辛抱しろ、堪えるんだぞ)
絶えず内心で繰り返していないと、反抗的な態度を取りたくなることもしばしばだった。ついさっき磨いたばかりの靴をまた磨けと言われたり、命じられて取ってきたものをすげなく「これじゃなくてアレだ」と突っ返されたり。そしてそういう時には大抵、嘲笑と罵倒がつきものだった。
しかしフィンが少しでも睨み返したりすれば、即座にマスドは大袈裟に驚き、猛獣のように笑って言うのだ。
「おお、おっかねえ、おっかねえ。どうやらおまえの躾をした奴を、ここまで呼んでこなきゃならねえらしいな」
こうなると、フィンは黙って頭を垂れ、言われた通りに振舞うしかなかった。ネリスやおじさん達を守るために、ここにいるんだぞ――そう自分に言い聞かせ、奥歯を噛みしめて。
そうして走り回らされている間、フィンは外の様子をまったく知ることが出来なかった。元軍団兵が本当に夜の守りを引き受けているのか、食糧はどこから手に入れているのか、家族は無事なのか、それら一切。
だが五日目にしてやっとその機会が巡ってきた。港のアウディア神殿へ行くよう命じられたのだ。イグロスという名の兵士がフィンを連れて行く道すがら、話してくれた。
「海から獣どもが襲ってこないのは、フィアネラ様が聖なる炎を絶やさずにいるおかげなんだ」
さしもの荒くれ者の口調にも、この時ばかりは敬意が込められていた。フィンはかすかに目をみはり、黙って岸壁を見やる。岬の突端にそびえる神殿は、町の規模には不似合いなほど荘厳だった。ナナイスは漁業や交易も盛んな港町なので、母なる海の神アウディアは大切な守り神なのだ。
かつてはオアンドゥスも一家全員を連れて、神殿へ参拝に出向いたものだった。粉屋に海の神は関係なさそうにも思えるが、強い海風がなければ風車も回らない。そんなわけでフィンも女祭司フィアネラの顔は見知っていた。
山賊集団と化した軍団兵も、さすがに神殿までは手出しが出来ない。神殿に続く道には市民の姿も多く、兵士が来るのに気付くと脇に避け、敵意のまじる怯えた目を向けてきた。だがそんな視線にもイグロスはむしろ胸を張り、傲慢に彼らを睥睨する。フィンはいたたまれずにうつむき、唇を噛んでいた。
イグロスは神殿に直行せず、港に寄った。そこでフィンは初めて、この町の食糧事情が極めて危うい命綱に頼っていることを知った。
「船だけが頼りなんですか」
思わず問うたフィンに、イグロスは肩を竦めて答えた。
「馬で行ける範囲のものは、取り尽くしたからな。まぁ、まだ何か残っているかも知れんが……海の上ならアウディア様が守って下さる」
舳先と艫、両方の舷側にも、いくつもの角灯を吊るした船から、麦の袋や何かの木箱、壺といったものが下ろされている。それだけでなく、どこで見つけてどうやって入手したのか知りたくない物もあった。半分ほど食べられたチーズの塊、半端な量の干し肉や胡桃、明らかに家庭用の酒壺、等々。
「日暮れになっても、海に逃げたら獣は追ってこない。それに俺たちの船は、何たって聖なる炎に守られているからな」
彼は口を動かしながらも、船から降りて来た仲間に手振りで合図し、神殿に運ぶ品物を取り分けさせる。しばしの後、フィンはずっしり重い行李を背負わされ、なんだって神殿ってのは高い場所にあるんだ、などと内心恨み言をこぼしつつ、坂道と階段をえっちらおっちら登っていた。
先を行くイグロスの方は、両腕に荷物を抱えてはいるが、フィンのものほど重くはないのか、それとも日頃の鍛錬か、さして苦にする風情もない。
息を切らせてどうにか神殿の入り口まで辿り着くと、フィンはとうとう膝をついた。イグロスは振り返って「だらしがないな、小僧」と鼻を鳴らしたが、その笑い方は、フィンが町に来てから目にした中では一番ましなものだった。
「そこで待ってろ。下男か誰かに取りに来させる」
言い置いて、彼は一人で神殿へと入って行った。返事も出来ずにフィンはその場に座り込み、荷物の番をしながら息を整える。と、その時だった。
「フィン兄!?」
聞き慣れた声に呼ばれ、彼は即座に振り向いた。
「ネリス!」
神殿の中から現れた妹の姿に、どっと安堵が押し寄せる。無事だった! 疲れも忘れて彼は立ち上がり、ネリスを抱きしめた。ネリスもしっかりとしがみつき、フィンの肩に顔をうずめる。しばらくそうしてから、彼女は腕をほどいてフィンを見上げ、痛々しい苦笑を見せた。
「お兄、汗臭いよ」
「五日ぶりの再会に言う事がそれか?」
フィンは憮然として見せたが、すぐに笑みをこぼしてネリスの頭をくしゃりと撫でた。ほんの五日の間に、ネリスは随分やつれ、汚れたように見えた。
「おじさんとおばさんは? 住む場所は見付かったのか?」
「うん、クナドさんの家にいるよ。なんとか……やってる」
ネリスは言葉を濁し、目を伏せる。フィンはその肩を軽く掴んだ。
「本当か? 食べ物はちゃんとあるのか? 怪我とか病気とかしてないか?」
「大丈夫だってば。フィン兄は心配しないで。麦粉の配給は一応ちゃんとされてるし、クナドさんはいい人だから。あたしたちが持ってきた物は、ほとんどなくなっちゃったけど……」
「盗られたのか」
「ううん」
ネリスは唇を噛んで首を振り、きっと顔を上げると、無理に笑みを作った。
「あたしたちより、他の人に必要だったから。本当に、何もかも足りないの。クナドさんちには全部で……何人ぐらいいるのかな、二十人ぐらいかな? ほとんど皆、兵隊か、町のほかの連中に身ぐるみ剥がれたんだって。だから、あたしたちだけが独り占めしてるわけには、いかなくて……鍋とか毛布とか、皆で使ってる。食べ物はあっという間になくなったし、あたしの人形も……あげちゃった」
最後の言葉は消え入りそうだった。フィンは痛ましげに眉をひそめる。ネリスはもう人形遊びをする歳ではないが、幼い頃に母親に作ってもらった人形をとても大事にしていて、それには魂が宿っていると信じていたのだ。それを、よりによってこの辛い時期に手放すなんて。
「……偉かったな、ネリス」
フィンはささやき、そっと妹の額に唇をつけた。ネリスはようやっと本物の笑みを広げ、目に浮かんだ涙をごまかすように何度も瞬きして、誇らしげに胸を張った。
「いいの、あたしはもうあの子がいなくても大丈夫だから。もうじき十五なんだもん、大人だよ」
これにはフィンも思わず失笑し、途端に、到底“大人”らしからぬ顔で睨まれてしまった。余計に笑いたくなったのをなんとか堪え、フィンは「悪い、悪い」と謝る。ネリスは膨れっ面でそっぽを向いた。
「本当にフィン兄って、白けるなぁもう! まぁその実態を知ったお陰で、あたしは町のさるお馬鹿さんみたいに、お兄の見た目に騙されずに済んだわけだけど」
「何だそれは、初耳だぞ。そうだったのか?」
思わず間の抜けた顔で問い返したフィンに、ネリスは澄まして答えた。
「ご心配なく。あたしがちゃぁんと言い聞かせて、目を覚まさせてあげたから」
「ネリスおまえ、何を言ったんだ、何を」
フィンはしかめっ面で詰め寄った。別段、町の娘といい仲になりたかったわけではないし、どのみちネリスの友達だとしたらまだ子供子供していようから、色恋の相手として考えられもしないだろう。だがそれと名誉の問題とは別だ。
ネリスの方はそんなフィンの反応を眺めてにやにやしていた。
「別にぃ? 本当のこと言っただけだよ、うちのお兄は墓石みたいにくそ真面目で、死んだ魚より退屈だよ、って。何よ、詐欺罪で訴えられる前に助けてあげたんだから感謝してくれてもいいんじゃないの?」
「………………」
頭が痛い。フィンは眉間を押さえてうつむいた。二人の会話が耳に入ったまわりの通行人が、くすくす忍び笑いを漏らしている。
さすがに兄が憐れになってか、ネリスはふと真顔になって話題を変えた。
「白けると言えばさ、お兄が前に言ってたことだけど」
「なんだ?」
フィンはいささか用心しながら先を促した。が、ネリスは笑いもせず、小さく肩を竦めて続けた。
「天界は地上よりもっと大変なことになってるのかも、っていうの、あれ、本当かもしれないね。父さんたちとも話してたんだけどさ」
「何かあったのか」
「そういうわけじゃないけど。でもさ、実際、おかしいじゃない? 闇の獣たちはぞろぞろ出てきてるのに、精霊だの小人だのって方は、全然みかけないんだもん。昔はもっといっぱいいたんでしょ? 竜だって……まぁあれは元々すごく高貴な生き物で、数も少ないって話だけど、でも精霊とか小人とかは、普通に人前に出てきたりもしたらしいじゃない。なのにそれがなくって……闇の獣だけは相変わらずうじゃうじゃいる」
嫌な感じだよね。そう締めくくって、ネリスは岬の突端に張り出している聖火台を見やった。そこには昼の今でもはっきり見える、明るい黄金色の炎が輝いていた。
「……きっと、あれも長くはもたないよ」
ネリスがつぶやく。フィンは無意識に「ああ」と応じていた。その後で彼は己に疑問を抱いたが、理由もなく胸に生じた確信はまったく揺らがなかった。それは、炎を見つめるネリスの視線の厳しさのせいかもしれない。
「なんでだかわかんないけど、そう感じる。良くないよ」
「ああ。だが、それは言わないほうがいい」
そんな噂が広まれば、どんなことになるか。フィンは身震いし、一日でも長くあの炎が燃え続けるよう祈った。