4-5. 絆の誓い
「あああああああぁぁ!!」
かつて上げたことのない凄まじい絶叫が喉を焦がす。全身の血液が、一瞬で灼熱の熔けた黄金に変わった気がした。否、フィンにはそれが見えた。輝く黄金の光が体中に広がり、すべてを焼き尽くし、融かし、作り変えてゆく。
体が反り返り、四肢が突っ張って痙攣する。胸の――心臓の上に、光の焼印が押し付けられている。
見開いた目に、周囲の景色がやけに鮮明に映った。まるでうんと高い場所から見下ろしているかのように。ヴァルトが怯え、後ずさりながらも離れられずに見つめている。口々に何やら叫びながら逃げていく、盗賊たちの後姿。腰を抜かしているユーチスや、倒れたままの兵士。
それとは別に、自分を取り巻くすべてが感覚に訴えてきた。木の梢、風にこすれる葉の一枚一枚、そこに走る葉脈。湿った黒い大地、虫が蠢いている……無数の生き物の気配、己自身の肉体……血の噴き出す傷口が、瞬く間に盛り上がり癒着し消えてゆく。薄く残った白い痕さえも、じきに見えなくなって。
そこまで知覚した後やっと、全感覚を圧倒していた白い輝きがゆっくりと薄れはじめた。魂まで焼き尽くしそうだった熱が冷えて、体がどさりと地面に落ちる。衝撃で肺から息が押し出された。
「っごほ、ごほッ!」
咳き込み、反射的にフィンは跳ね起きた。そして、
「……??」
その動作のあまりに軽いことに目をしばたたく。たった今まで、死にかけていたはずなのに。
何がなんだか、わけがわからなかった。困惑しながら無意識に右脇腹をさすって、さらにぎょっとする。見下ろすと確かに服は裂け、血に濡れているのに、体には傷ひとつついていなかった。
愕然としたフィンの視界の隅で、ちらちらと白い光が瞬く。彼は混乱したまま振り向き、顔を上げて、
「うわッ!?」
もうこれ以上は驚けないと思っていたのに、限界を超えて驚くはめになった。梢の上に広がる青空を背にして、巨大な生き物がそこにいたのだ。どことなく犬に似ていなくもない体格だが、晴れた日の綿雲のように白い毛並みがふわふわと波打ち、その背には天をも覆いそうなほどの翼が広がっている。
フィンはあんぐり口をあけ、双子の満月のような黄金色の瞳を見上げた。
驚愕と同時に、これが何だか知ってるぞ、と納得もする。
「レーナ」
くんくん鼻を鳴らして膝に擦り寄ってくる仔犬のような、などと勝手な想像をしていたが、よもやまさかこれほどまでに育つとは。開いた口がふさがらない。
と、フィンに名を呼ばれて巨大な姿が揺らぎ、光を纏って小さく縮んだ。まだ翼の名残がうっすらと見えるものの、見慣れた少女の姿がそこにあった。
黄金の双眸から涙をぽろぽろこぼしながら、レーナはフィンにぎゅっと抱きついた。フィンはその背を優しく撫で、柔らかな温もりにホッと息をつく。
「君が助けてくれたんだな」
ありがとう、と言いかけたところで、涙声がそれを遮った。
「ごめんなさい」
「……?」
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。わた、私っ……ただ、死なせたくなかったの、死んで欲しくなかったの、だから……っ、ごめん、なさい」
レーナは何度も謝りながら、わななき、しゃくりあげている。フィンは困惑し、助けを求めて周囲を見回した。
先刻高みから見下ろしたと思った光景は事実だったらしく、盗賊は死体だけ残して消え失せていた。ヴァルトはやはりひきつった顔で距離を置いてこちらを見つめており、何人かの兵士はもたもた体を起こして愕然とした顔を向け、そして……へたりこんだままのユーチスが、いつもの甲高い声で言った。
「そんな、竜だなんて! どうして黙ってたんだ」
言われてやっとフィンは、自分の身に何が起こったのかを悟った。
(何てことだ。俺が……まさか俺が、“竜侯”になったって?)
伝説に謳われる、かつての大戦において活躍した竜侯たち。だが彼らとて最初から竜侯だったわけではない。何らかの理由で竜と出会い、あるいは見出され、“絆の誓い”を立てることで竜の命と力を分け与えられたのだ。
その誓いがどういうものなのかは、伝説に残されていない。だからフィンも聞いた事がなかった。ただ、何か特別な絆が竜と竜侯の間に結ばれるという、それだけしか。
信じられなかった。単にレーナがその特別な力で助けてくれただけだ、と思いたかった。あんな言葉ひとつで、そんなことが起きるなんて――確かにあの時は心の底から一緒にいたいと願いはしたが、しかしそれは自分がじきに死ぬと思っていたからであって、まさかこんなことになるとは――そもそもレーナが竜だなんて……
「ごめんなさい」
もう一度、か細い声が耳元で詫びた。フィンは無軌道に駆け巡っていた思考の手綱を引いて止まらせ、落ち着け、と自分に言い聞かせた。ともかく今、大事なのはそんなことじゃない。
「謝らなくていい」フィンは優しく言った。「俺だって死にたくなかった。生き延びられて、ともかく嬉しいんだ。だから、君が謝ることはない」
「…………」
レーナは小さく首を振ったが、しかしそれ以上は謝罪せず、そっと体を離した。くすん、と鼻を鳴らしてから、指で涙を拭く。フィンは何やら微笑ましくなって、よしよし、と頭を撫でてやった。
その時になってやっと、ヴァルトがふうっと息を吐いた。もしやずっと息を詰めていたのかと疑うほど、深く長く。
「はぁ……やれやれ、竜侯様とは恐れ入ったぜ。ともかく、死人が増えなくて良かった」
その言葉でフィンもいつもの感覚を取り戻し、辺りを見回した。部隊は全員、傷だらけながらも生きていた――最初にやられた一人を除いて。フィンは立ち上がり、その遺体へと向かった。釣られて夢から醒めたように、他の面々も集まってくる。
ヴァルトが子供と兵士の瞼を下ろしてやり、くそっ、と罵った。
「いつだってそうだ。幼くて弱い子供や、優しくて良い奴から死んでいくんだ!」
思いがけない言葉にフィンは胸を突かれて怯んだ。だがヴァルトの部下たちは、慣れた様子でやれやれと頭を振った。
「ヴァルト、そりゃないぜ。あんたも俺たちもこうして生きてるってのに。俺たちゃ屑かい」
「ああそうだとも」ヴァルトは唸った。「こんなご時世に生き延びられるのは、汚れた人間だけだ。くそったれめ」
やれやれまた始まった、とばかり、兵士たちは顔を見合わせて肩を竦めた。だがフィンは彼の言わんとするところが分かる気がして、黙ってうつむいた。
こんな殺伐とした、奪い合いと殺し合いが日常のご時世に生きるなら、誰もがきれいなままではいられない。ナナイスで見られたように、兵は市民から奪い、市民はお互い同士で奪い合い、あるいは食べ物を乞うために自らの体や尊厳を売り渡して堕ちてゆく。まともだと思われる人々でさえ、難を逃れるためには無為や無視という罪悪の泥を被らざるを得ず、生きる気力を失わないためには自他を欺き嘘を重ねざるを得ないのだ。
「……ともかく、帰りましょう」
フィンは暗い声でつぶやくように言った。ヴァルトは地面を睨みつけたまま答えた。
「ああ。だがここを始末してからだ」
言葉通り、ヴァルトは全員を指揮して盗賊の根城を始末した。小屋を打ち壊し、中に残されていた武器や貴重品は取り返して、残りには火をかけた。繋がれたままだったロバと馬は、仲間と子供の遺体を運ぶ役に立った。
一切を片付けて街道を歩き始めた時、最後尾で馬を引いていたフィンは、ふと、かたわらに寄り添うレーナを見やって眉をひそめた。
(真昼間で、しかもあんなことがあったのに、レーナは姿を見せている。ということは、封印が解けたわけだ)
つまり“絆の誓い”が、封印を解く方法だったのだろう。あまりにも大きな犠牲だとレーナが言って退け続けてきた方法。だがフィンには、自分がいったい何を犠牲に差し出したのか、まだよく分からなかった。むしろ命を救われたではないか。
考えながら見つめていると、レーナが振り向いた。目が合うと、心の中に以前よりも強くレーナの存在を感じられた。おずおずとレーナが微笑むと、彼女の不安と罪悪感がはっきりと伝わってくる。なるほどこれが絆ということか、とフィンは納得しながら、励ますように笑みを返した。
(大丈夫、どんなことになっても俺は君の選択を恨んだりしない。助けられたことを感謝するから、だから……一緒に行こう。ずっと)
これからはもう、不安と疲労に苛まれて眠れぬ夜を過ごすこともない。レーナがいるなら、困難も苦労も、きっとなんとか乗り越えていけるだろう。
(それにしても、レーナが竜で俺が竜侯だなんて、何の冗談だか)
やれやれ。あどけないレーナの表情を眺め、フィンはひとり苦笑をこぼした。どうやら竜にもいろいろいるらしい。伝説に残るような、高貴にして偉大なる、神に次ぐ存在かとばかり思っていたのだが。
そんなことを考えていると、レーナが何やら複雑な感情を抱くのが分かった。拗ねても怒ってもいないが、微妙に不本意げである。フィンはにやにやしそうになるのを堪え、とぼけて前を向いた。
途端に、気味悪そうな仲間達の凝視が一斉に突き刺さり、フィンはびっくりして立ち止まった。自分がすっかりレーナひとりに気を取られていたと気付き、我に返って赤面する。ヴァルトが呆れた風情で頭を振った。
「なァにを黙ーって見つめ合ってニヤニヤしてんだ、気色悪い。新婚の夫婦だってそこまでじゃねえぞ」
「すみません」
「……謝るこたぁないが……これが竜侯様とはねぇ……」
嘆かわしいと言わんばかりの口調に、フィンは首を竦めた。まったく同感だが、そうと言ったら余計に呆れられるだけだろう。代わりに彼は、真顔に戻って言った。
「そのことなんですが、黙っていてもらえませんか」
「なに?」
ヴァルトが聞き返し、仲間達も不審げな顔になった。フィンは一人一人をゆっくり見ながら、しっかりと強い声で頼んだ。
「俺自身、まだ本当に自分がどうなったのか分かってないんです。絆の誓いを立てたのは確かですが、いわゆる“竜侯”になったとは思えません。それに、今、迂闊なことを吹聴したら、俺だけじゃなく全員が危ない」
「全員、ってのはこの部隊のことか」
「ええ。ただでさえ俺たちはディルギウス司令官から疎まれているのに、闇の獣どころか今度は竜が現れたなんて話をしたら、駄法螺で人心を乱したとか何とか理由をつけて、仲良く吊るされかねませんよ」
「そん時ゃ、そこの竜のお嬢さんが助けてくれるんじゃないのかね」
ヴァルトは鼻を鳴らしたが、しかしそれを当てにする様子はなく、しかめっ面で唸った。
「まあな、確かに、危ない橋を渡ることはなかろうさ。これが証拠だ、とくと拝みやがれ、っておまえらを突き出したところで、司令官は信じやしねえだろうし……仮に信じたとしても、その時は余計に面倒なことになるだろう。ああ全く同感だ、黙っとくのが賢い」
さり気なく失敬な発言を挟みつつも、ヴァルトはフィンの頼みを理解し、了承した。兵士たちもそれぞれ、フィンに向かってうなずく。フィンはその一人一人に目礼して了解のしるしを確かめていたが、ユーチスが曖昧にうなずいた時、妙な違和感をおぼえて眉を寄せた。
(……なんだ?)
何かがひっかかった。無意識に行っていたことを意識の領域に引き上げようとして、それが消し飛んでしまったような。
他の兵士たちの時には感じなかった不安が、じわりと胸に広がる。信用できない、と本能が警鐘を鳴らした。
(馬鹿な)
フィンは小さく首を振って、疑いを振り払った。いくら先刻あんなことがあったからと言って、そこまでユーチスも愚かではないだろう。彼を恨んで蔑むのは公正でない。死にかけた原因はユーチスだけでなく、フィン自身の誤りにもあるのだから。しかし。
「ユーチス」
念のため、フィンは名を呼んで釘を刺した。
「俺の名前はもちろん、竜、の単語ひとつも口にしないでくれ。頼む」
「え?……うん、分かったよ」
自分だけ念押しされたのが不快だったのか、ユーチスはどことなく嫌そうな顔になったものの、改めてもう一度うなずいた。
と、そこでヴァルトが気付いてレーナを見やった。
「しかしな、そうすると、このお嬢さんをどう説明するんだ? 盗賊に捕まってました、とは言えんだろう」
今度は視線がレーナに集まる。レーナはびっくりしたように身を竦ませ、フィンの背後に隠れた。だがフィンが心の中でそっと触れると、すぐに安心して緊張を解き、皆の前に歩み出た。
「私、いない方がいいのね?」
無邪気な口調で言われて、ヴァルトは急に良心の所在を思い出したらしく、へどもどした。
「い、いやその、違うんだ、そういう意味じゃぁ……」
「なぁに?」
レーナは目をぱちくりさせ、小首を傾げる。それからきょとんとしてフィンを振り向いた。フィンは失笑を堪えて妙な顔をしていたが、レーナの方は我慢せずにふふっと楽しげな笑いをこぼすと、
「それじゃあ、また」
おやすみなさい、と言うような軽い口調で別れを告げて、ふわりと溶けるように消えた。初めてそれを目にしたヴァルトや兵士たちは、揃ってあんぐり口を開けてしまう。フィンは心中密かに同情しつつ、彼らが気を取り直すのを待った。
ややあってヴァルトが開けっ放しだった口を一旦閉じ、はあ、と気の抜けた声を漏らした。
「……本当に、あれが竜なのかね?」
「俺も疑問に思っているところです」
フィンは真面目くさって答え、それからにやりとして付け足した。
「でもともかく、常識から随分外れているのは確かでしょう?」