3-8. つながりの糸
その夜、フィンはふと目を覚ました。
自分がどこにいるのか束の間思い出せず、目をしばたたく。そうだった、とりあえず今夜は神殿の客室を使わせてもらったのだ。
室内は暗かったが、まったくの闇ではなかった。雨戸の隙間から、細く青白い光が漏れている。なぜ目を覚ましたのかと訝っていると、通りでどっと笑い声が起こるのが遠く聞こえ、あれかと納得した。ナナイスの孤児院にいた頃も時々耳にした、深夜営業の居酒屋で飲んだくれている男たちの騒ぐ声だ。
ウィネアはナナイスよりも格段に大きい町なのだから、こうした夜中の騒ぎも頻繁で当然だろう。耳を澄ますと、笑いが消えた後も少し話し声が続き、それが遠ざかっていくのが分かった。
そうしてベッドの上で座っている間に、すっかり目が冴えてしまった。やれやれとフィンはため息をつき、体を回して床に足を下ろす。眠りが浅くなったのがいつからだったか、もう正確には思い出せなくなっていた。
フィンは同じ室内で眠っている家族を起こさないように、そっと静かに扉を開けた。念のために部屋の隅に置かれていたあの角灯を持ったが、火を入れる決心はつかず、またその必要もなかった。外は月夜だ。結局角灯はもとの場所に置いて、ひんやりとした夜気の中へ滑り出た。
世界が白い。
月はやや細くなっていたが、それでも空が晴れているおかげで充分に明るかった。流石に神殿の中には、人の気配はない。フィンはふと思いついて、そのままひたひたと歩き出した。
通りに出ると、兵営に近いためか、数件の居酒屋の明かりが見えた。ちらほらと行き来する人影もある。だがフィンの目当てはそこではなかった。むろん、入りたくとも銅貨一枚持っていないのだが。
夜の街を、フィンはひたすら丘の上目指して歩き続けた。道など知らなかったが、ともかく坂や階段を上り続ければ、いずれは頂上に――デイア神殿に着くことは分かっている。
高く上るにつれ、人影は少なくなり、明かりも見えなくなった。当然だ。神殿は夜中に参拝するものではないのだから。
と言っても、人が来ないからとて神殿が閉ざされるわけではない。石造りの門はあっても、そこを閉ざす門扉はないし、せいぜい祭司たちが供え物や貴重品を回収して倉庫に鍵をかけるぐらいだ。神のものに手を出して、自ら破滅したがる人間はいない。ごく少数の例外を除いて。
ともかくそんなわけで、フィンも最後にはデイア神殿にたどり着いた。
ナナイスの神殿参りで鍛えた心臓も、流石に少々苦しい。あの参道ほどの急坂ではないが、何しろ遠かった。自分の荒い息遣いが静寂を乱しているのが、デイア神に不敬と取られなければ良いのだが。
フィンはゆっくり息を整えながら神殿の門をくぐった。何も特別な事は起こらなかったが、それでも、すっと空気が変わったような気がした。
単に夜で人気がないからかもしれないが、しかし、ここは静かで、清浄だ。実生活の利益に直結する神々とは違い、デイアは最も崇高で、流石に天空の神というか、現世離れした存在だからかもしれない。
むろんデイアとて王権や名誉の守護者と言われてもいるが、それとて一般人から見れば雲の上の話であり、直接かかわりのある現実的な話ではない。ゆえに至高の神とされて荘厳に祀られてこそいるものの、日常参拝する人間はそれほど多くなく、かけられる願いも俗塵にまみれていない、清らかな、ある種の理想や夢物語に近いものが多いのだ。
(レーナがああいう性質なのも、デイアを名前に戴いているからかな?)
そんなことを思い、フィンはやっと、自分が何を求めてここまで来たのかに気付いた。はぁっと息を吐き、やれやれと頭を振る。
(いくら夜中で、丘の上の神殿でも、こんなに人がうじゃうじゃいる街のまさに中心になんか、出て来てくれるわけがないじゃないか。しっかりしろ、いつからこんなに情けなくなったんだ)
勝手のつかめない街で夜中に一人ふらふら出歩くなど、無用心な馬鹿のすることだ。
そう自分を叱咤しながらも、フィンは一応、辺りをざっと見回した。やはり、どこにもあの白い光はない。
(帰ろう)
やれやれ、と肩を落として踵を返した時だった。
背後にふと気配を感じ、フィンは反射的に体ごと振り返った。
「レーナ?」
小声でささやき、月光の落とす影に目を凝らす。返事はないが、確かに気配がした。フィンは用心しながら、中庭を横切り、奥へ――本殿の方へと歩いて行く。
本殿の階段に足をのせた時、ふわりと暖かい風が頬に触れた。顔を上げると、レーナがそこにいた。
声もなく、フィンは手を伸ばしてレーナを抱き寄せた。胸が詰まって言葉が出てこなかったのだ。体が触れ合う感覚よりも、心の中に彼女の存在が染みてくる感覚の方が強かった。押し入りもかき乱しもせず、あくまでフィンの心はそっとしておきながら、そのまわりを陽射しのような暖かさが包む。
気がつくとフィンは階段に座り込んでいた。レーナが寄り添い、微笑を浮かべて金色の目でフィンを見つめている。
あえて言葉を交わす必要のない、穏やかな沈黙が続いた。その間もフィンは、レーナの存在が心を温めてくれるのを感じていた。
「不思議だな」
ようやっと口を開いた時には、フィンは自分がすっかり良くなったような気分になっていた。
「君は自分の力を使えないと言っていたが、こうして一緒にいるだけでなんだか随分……楽になったよ。ありがとう」
「つながりを作ったの。会いたかったから」
レーナの物言いは相変わらず分かりづらい。フィンは首を傾げたが、同時に、その“つながり”とおぼしきものが心の中で揺れ、相手の意図を伝えてくれた。
弱くて何の拘束力もない、しかしどうやら魔法的なつながりが二人の間に生じることによって、お互いが守り、守られることになるらしい。フィンの気分が穏やかになったように、レーナの方も、こうして姿を現せる程度には、街にひしめく暗い感情から守られているのだ。
「呼んでいるのは、聞こえていたわ」
レーナはささやいてフィンの肩にそっともたれた。重さはほとんど感じられない。
「だから、会いたかった。でも、ここはあんまり空気が澱んでいるから……こうしないと、出てこられなかったの。ごめんなさい」
「何も悪いことなんかないさ。俺も君に会いたかった」
そう言ってからフィンは唐突に、なんだかこれでは人目を忍ぶ恋人達の逢瀬のようではないか、と気付いて顔を赤らめた。その気分が伝わったらしく、レーナも目をぱちくりさせて、戸惑ったようにフィンを見上げる。お互い妙に気恥ずかしくなって、二人は目をそらしてもじもじした。
が、それも長続きせず、フィンが小さくふきだした。今更こんな遠慮を感じるのも滑稽だし、誰かに見られているわけでも、禁じられたことをしているわけでもないのだ。
フィンの笑いに呼応して、レーナの楽しげな気分が“つながり”を揺らす。フィンはレーナに向き直ると、手を伸ばして軽く相手の髪を撫でた。
「本当に……ここ数日は、きつかったよ。イグロスは死んでしまったし、子供たちも何人か行方知れずで……頼みにしていた軍団は相手にしてくれなかったし。ナナイスも……」
そこまで言い、ふとフィンは思いついて真顔になった。
「君は、ナナイスの状況が分かるかい? ネリスは……その、分かったようなんだが」
レーナは小さく首を振り、それから漠然と北を見やった。
「はっきりとは見えないわ。でも、北の方からどんどん暗くなっているのは確かよ。人の灯す明かりは、もうほとんど残っていないみたい」
その口調があまりに淡々としているので、フィンはつい、辛辣な声を漏らした。
「君にとっては、どっちでもいいのかい。地上に住むのが人間でも、闇の獣たちでも」
言ってしまってから後悔する。相手は精霊で、人間と同じにとらえる方が間違っているのだ。少なくとも今、フィンやネリスの味方であってくれる、それだけでも充分ありがたいことだというのに。
振り返ったレーナの顔に、表情はなかった。初めて見る不思議な生き物に対するかのように、金色の瞳でじっとフィンを見つめる。
「フィン。私たちには、人間も闇の眷属も、世界に生きている他の生き物たちと同じようにしか見えないの。どの種族だけが良いとか悪いとか、特別だとかいうことはないわ。ただ、私たちの目にも、とてもきれいに見える人はいる。きれいなものには惹かれるし、好きになるし、大事にしたいわ」
「……ああ。すまない」
「どうして謝るの? フィンは何も悪くないわ」
レーナはことんと首を傾げた。どうにも会話が噛み合わない。つながりを通じて、フィンの苛立ちや、それをレーナにぶつけたことに対する後ろめたさや自己嫌悪も伝わっているのは確かなのに、彼女にはそれが何なのか理解できないらしい。フィンは苦笑してしまった。
まだ不思議そうな顔をしているレーナに、なんでもない、というように首を振ってから、フィンはふと好奇心にかられて訊いた。
「まさか、君たちから見たら、闇の獣にも“きれい”なやつがいたりするのかい?」
「私が知ってる限りでは、いないけれど」とレーナは遠い目をした。「大戦の前は、闇の眷属にもきれいなものがいた、って聞いたことはあるわ。……ごめんなさい、あんまり私、実際には人間も闇の眷属も、たくさんは見たことがないから」
「ふうん……そうなのか。俺たちにとっては、あいつらはとにかく恐ろしくて、殺すか殺されるかの関係でしかないが、君たちの目にはまた違うんだな。中にはもしかしたら、変わった奴もいるのかも知れないな。俺を食わなかった奴みたいに」
「……?」
「ウィネアの外で、一匹だけ偵察に回っていたらしい奴と、出くわしたんだ。近寄られただけで、魂まで凍りついたみたいになって、何も出来なかった。絶対に食われると思ったのに、そいつは何もせずに消えたんだ」
笑われたような気もする、とまでは、流石に言えなかった。あまりに馬鹿げて聞こえる気がしたのだ。たとえ相手が精霊でも。
レーナはしばし考える様子を見せたが、彼女にも理由の見当はつかないようだった。結局、言ったことには。
「きっと、フィンがきれいだからよ」
「………………」
それはないだろう。いくらなんでも。
久しぶりの脱力感に、フィンは階段の上でのびてしまいそうになった。レーナは「あ、あれ?」とおたおたする。
「ご、ごめんなさい。なんだか私、いつまで経っても、うまく話せないみたい」
「いいよ」フィンは笑って首を振った。「もう慣れた。それに、この“つながり”があるから、なんとなく君の気持ちも分かるし。便利だな。こういう力は、封じられてないのかい」
フィンにしてみれば何気ない問いだったが、レーナは途端に顔をこわばらせた。心に触れていた温もりが、瞬時にざっと引いてしまう。慌ててフィンは、利用しようなんてつもりじゃない、と言いかけたが、より早く、再び心の中におずおずとした気配が戻ってきた。
「……この力だけ。これだけ、残されているの。必要になるから」
つぶやくように言い、レーナはうつむいた。そして、きゅっと唇を噛む。初めて見る表情にフィンが驚いていると、彼女は瞑目し、
「でも、使わないわ」
己に言い聞かせるように、あるいは封印そのものに挑むかのように、厳しい声音で断言した。そして、ふわりと音もなく立ち上がる。
「おやすみなさい」
今までに何度も交わした挨拶だったが、それがこんなにつらそうに聞こえたことはなかった。引き止めようとフィンが立ち上がった時には、しかし、既にレーナの姿はなかった。
レーナの気配が消え、フィンは不意に夜風の冷たさを感じて身震いする。
だが、心の中にはまだ、かすかに陽だまりの暖かさが残っていた。