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灰と王国  作者: 風羽洸海
第一部 北辺の闇
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3-7. 神殿にて

 

 ネーナ神殿は中庭を取り囲む方形の配置になっていた。ディアティウスでの一般的な様式だ。入り口から見て正面奥に神像を祀る本殿、左右には付属施設が並ぶ。施設の種類は祭神によって様々だが、参拝者のための休憩所や施療院、地元の子供のための学校などである場合が多い。

 ここもやはり施療院があり、フィンはその中で両親を見付けた。右手の治療を受けるオアンドゥスにファウナが付き添っているが、ほかに見慣れた顔はない。辺りを見回して、フィンは目をしばたいた。

「子供たちは?」

「孤児院の方で、お風呂や着替えの世話になっているわ。ここの神殿の人たちは皆とても親切で、ありがたいことね」

 ファウナが微笑む。良かった、とフィンもうなずいて、それからもう一度ぐるりを見渡す。

「……ネリスもそっちに?」

 不安げな問いに、答えが返るまで間が空いた。フィンはぎくりとして両親を見つめる。オアンドゥスが顔をしかめたまま、唸るように言った。

「ネリスは奥で祭司様と一緒にいるよ。……急に泣き出したんだ」

 不吉な知らせにフィンは顔をこわばらせ、背後を見やった。躊躇したのも一瞬だけで、「様子を見てきます」と言い置いて走り出す。

 中庭と回廊では市民がそこここにかたまって議論や噂話に興じていたが、フィンは彼らには目もくれず、障害物を避けるようにその間を縫って走った。肩を軽くぶつけられた男がひとり不快げに振り返り、フィンの汚れたなりを見て聞こえよがしに舌打ちした。

 本殿に駆け込むと、フィンはすぐにネリスに気付いた。壁に作りつけられている石のベンチで、毛布を肩にかけて震えている。祭司であろう小柄な年配の男が横に座り、背中や肩をさすっているのが見えた。

「ネリス!」

 フィンは駆け寄ると、祭司にぺこりとお辞儀してから、ネリスの前にしゃがんだ。

「何があったんだ? 大丈夫か、ネリス」

 まだ涙で濡れているネリスの頬にそっと手を伸ばし、優しくてのひらで包む。ネリスは何か言おうとして口を開いたが、しゃくりあげてしまうばかりだった。

 フィンは急かさず、空いた側の隣に腰を下ろすと、肩を抱いてやった。途端にネリスが痛いほど強くしがみつく。フィンが背中をさすり続けていると、やがてネリスは小さくかすれた声をこぼした。

「……っかく……ここまで、来たのに……、っく、ひっ……無駄、だったよ……」

 フィンはぎょっとなって竦んだ。兵営での出来事が“分かった”のかと思ったのだ。だがネリスは、額をフィンの肩に押しつけてうつむき、ほとんど聞き取れないほどの声でささやいた。

「ナナイスが……燃えた……皆、死んじゃった」

「っ!? まさか、そんな!」

 流石にフィンも色を失い、ネリスの両肩を掴んでその顔を覗き込もうとした。だがネリスは目を合わせようとせず、頑なに顔を伏せる。

「お兄も、分かるよ……あの、角灯……つけたら」

「…………」

 フィンの手から力が抜けた。昨夜、あの輝きが弱々しく消えかけたのは、気のせいでも、何かの間違いでもなかったのだ。恐らくネリスの感覚は正しいのだろう。今もしあの角灯に火を灯したとしても、もはやアウディアの加護はあるまい。ただの、小さな、弱い炎の明かりに過ぎないだろう。

 すぐに確かめる気にはなれなかった。フィンは呆然として、ただ無意識にネリスの肩を撫でていた。

 しばらくして、祭司がこほんと控え目に咳払いをした。

「妹さんは、随分疲れているようですな。ほかの子供たちと同じように、熱い風呂に入って清潔な服に着替えたら、少しは気も落ち着くでしょう……もちろん、あなたも」

 穏やかな声には、奇妙に心を落ち着かせる力があった。フィンはもうこのまま塵になって崩れ落ちそうだと思っていたのに、彼に言われると無意識にこくりとうなずき、ネリスの手を取って立ち上がっていた。

 祭司がネリスの背中を支え、そっと促す。ネリスはうつむいたままではあったが、よろよろと歩き出した。

 結局フィンとネリスが人心地を取り戻したのは、祭司の言った通り、入浴と着替えを済ませた後で、その頃にはもう、外はうっすら蜂蜜色に染まりだしていた。

 血と泥と垢を落とし、古着ながら清潔な衣服に袖を通すと、一行の気分は大分良くなった。疲れ荒んでいた心が少し温まると、外見に表れる惨めさや険しさも薄れる。ファーネインの世話をしていた女が、汚れの下から現れた愛くるしいお姫様にちょっとした歓声を上げたのを横目に見て、フィンはため息を堪えた。ここにイグロスがいたら、さぞ得意げな顔をしただろうに。

 その後、神殿の者たちは一行を孤児院の食堂に集め、パンとスープをふるまってくれた。パンは今朝に焼かれたものでまだ香ばしく、スープは豆と根菜を水と牛乳で煮たもので、熱々だった。久しぶりの、まともな、人間らしい食事だ。胃袋をごまかすのがせいぜいの、とにかく食べられるというだけの代物ではない。味わうことが出来て、食べる喜びを感じられ、じんわりと体の隅々まで温もりが広がる。

 フィンの舌にほんのりと甘い滋味が広がったが、この恩恵に与れなかった仲間を思うとそこに一抹の苦味が混じるのは、どうしようもなかった。

 だが子供たちの方はもっと無邪気で、目に見えて生気を取り戻し、はしゃいで笑い声を上げてさえいた。それを見ると、フィンの顔も我知らずほころんだ。

 やっとひとつ、まともなことができた。テトナから彼らを連れ出したのは、間違っていなかったのだ。犠牲は出したものの、今ここにいる子供たちだけでも、助けることが出来たことに、ささやかだが深い満足を覚える。

 オアンドゥスとファウナも、ほっとした様子で子供たちを眺めていた。ネリスの隣にはマックが座り、ふさぎこんでいる彼女の気を引き立てようと、あれこれ楽しい話題を提供したり冗談を飛ばしたりしている。努力に報いるようにネリスは時々笑みを浮かべたが、やはりまだ無理が感じられた。

 やがて満足した子供たちが次々にあくびをし始めると、孤児院の職員が優しく寝床へといざなった。そして、食堂には“大人”だけが残った。フィンの一家とマック、そして祭司フェンタス。

 これまでの経緯を聞くと、フェンタスは丸顔に同情的な微笑を浮かべてうなずいた。

「お話は分かりました。テトナの子供たちは、こちらの神殿で責任を持って育てましょう。フィニアス、あなたはどうするつもりですか?」

「……軍団で、働くしかないと思います。そうしたら、家族の住まいは世話してもらえるそうですから。この街で俺たちが、ほかにそんな待遇のいい仕事に就けるとは思えません」

 暗い口調でフィンは答えた。臼も家畜も失った粉屋の一家が出来る仕事など、ごく限られている。金持ちの屋敷で住み込みの下働きをするという手もあるが、一家全員をまとめて面倒見てくれることはまずないだろう。しかもオアンドゥスは利き手の指を失って、当分はまともな仕事が出来ないのだから、尚更だ。

 と言って家族がそれぞれ別れて暮らせば、今のご時世、そのまま離散してしまう危険を覚悟しなければならない。軍団という手段があるのなら、あえて他の道を選ぶことはない、というのがフィンの考えだった。

 フェンタスも同意見らしく、いたわるように応じた。

「それが良いでしょうな。皆さんの境遇には同情いたしますが、流石にあなた方の住まいまでは用意できません。ですが、軍団なら……。オアンドゥスさん、ファウナさん、お二人には軍団の用意してくれる部屋に住みながら、こちらに通って孤児院の仕事を手伝って頂ければありがたい。新しく入った子供たちも、見知った大人がいてくれる方が馴染みやすいでしょう。賃金はあまり出せませんが、少なくとも食事は保証します。それに……オアンドゥスさんの手は、まだしばらく治療が必要ですしな」

 気前の良い申し出に、夫婦は顔を輝かせた。フェンタスはおどけて、

「もちろん、もっと条件の良い仕事が見付かれば、そちらに移って頂いて結構ですがね」

 と言い足し、一家を少し苦笑させた。

 と、そこでいきなりマックが口を開いた。

「フィン兄、俺も軍団に入るよ。一緒に連れて行って」

「無茶を言うなよ」思わずフィンは呆れ声を上げてしまった。「軍団に入れるのは十八になってからだぞ。いくら今が非常時だと言っても、おまえはまだ……」

「もう十五だよ」

 素早くマックが遮った。これにはその場の全員が――ネリスさえも――驚いて少年を見つめた。視線を一身に浴びて、マックは悔しそうに唇を噛む。その姿は、どう見積もっても十三歳が限度だ。

「俺の体が小さいのは分かってるよ。でも嘘じゃない、本当にもう十五になってるんだ。あと半年もすれば十六になる。それでもまだ少し若いけど……でも、もう孤児院の世話になれる歳じゃない」

「確かに、十五になれば孤児院から出てもらうのが普通ですが」フェンタスが困惑気味に言った。「事情が事情だし、子供たちも君がいないと不安でしょう。急がなくても、しばらく一緒に暮らして構わないよ」

「でも……」

「マック、祭司様の言う通りだ。せめて子供たちが落ち着くまで、一緒にいてやってくれ。軍団に入れば、すぐには辞められないんだから」

 フィンも諭した。一度軍団兵として正式に登録されると、よほどの事情がない限り、三年は絶対に抜けられない。いくら今の帝国がガタガタになっていると言っても、否、なっているからこそ、脱走には厳しい処罰が待っているだろう。

 その点ではフィン自身も不安がないではなかった。今はまだ身分が宙ぶらりんになっているが、このウィネアで正式に入隊が記録されたら、がっちりと拘束されることになるだろう。だが、三年も無事に勤め上げられるだろうか。

 本国で本格的に戦争が始まれば、そしてディルギウスが北辺の兵を率いて参戦すれば、三年で片がつくとは思われない。退役の約束など、卵を割るより簡単に破られるだろう。当面の衣食住のためにやむを得ないとは言え、結果としてフィンだけが家族と引き離される可能性は高い。

(それでも……皆が安全な街中で暮らせるのなら、いいさ)

 最初はいなかった者が、去るだけの話だ。ただ消えるのではなく、住む場所という置き土産を残せるのなら、充分ではないか。

 フィンが自分を慰めていると、マックがテーブル越しに手を伸ばしてフィンの腕を掴んだ。驚いて顔を上げたフィンに、マックは強いまなざしを据えて言った。

「それなら、せめて俺にも剣の使い方を教えて。軍団に入っても、ここにはちょくちょく来られるんだろ?」

 否とは言わせない口調だった。テトナからここまでの旅で、自分に戦う力がないことを痛切に思い知ったがゆえの決意。もちろんフィンの方も、断ったり宥めたりはしなかった。戦える力と技が欲しい、武器が欲しい――その願いはよく分かるから。

「俺が教わった程度のことで良ければ、全部教えるよ。それに、もし軍団で、ちゃんとした技術があって、おまえに教えてくれそうな人を見つけられたら、頼んでみる。約束するよ」

 そこで彼はふとおどけた苦笑を浮かべた。

「どっちみち俺も、誰かにきちんと教わらないといけないしな。付け焼き刃で三年しのぐのは難しいだろうから」

「何言ってるんだい。フィン兄なら大丈夫だよ」

 マックは呆れたように笑った。その目に浮かぶ信頼の色に、フィンは困惑し、気恥ずかしくなって顔を伏せた。自分が意外にちゃんと戦えたことは、確かに驚きだった。けれど、あんな幸運が続くわけがない。

「頑張らないとな」彼は独り言のようにささやいた。「お互い、生き残るために」

 応えはなかった。ただ、厳しい旅を越えてきた全員が、声を出さずに小さくうなずいた。


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