3-6. 堕ちた軍団
兵営の構造は基本的に帝国中どこに行っても同じだ。フィンは迷うことなく、司令官室まで辿り着いた。途中何ヶ所かで呼び止められたが、封印された書簡を見せるとすぐに放免された。自分を見送る兵士らの目が、妙に複雑な色を浮かべていることに気付き、フィンはすこし眉を寄せる。
軍団の支給品である胸当てと剣は身につけているが、見た目があまりにみすぼらしいのと、年齢的なものもあって、どういう事情かと不審がられているのだろう。軍団に入れるのは十八歳になってからで、フィンはぎりぎりの年齢だ。入ったばかりの新兵だとしたら、特使に選ばれるというのは異例である。
ただそうした理由を差し引いても、彼らの態度は奇妙だった。
(俺はただ救援を求めに来ただけなのに)
間違った所に間違ったものを持って来てしまった――そんな思いが募る。
その思いは、第八軍団長ディルギウスに会って間もなく確信に変わった。彼は労いの言葉ひとつかけず、胡散臭げにフィンの差し出した信書を受け取ると、無造作に開いて目を通し……
「フン」
顔をしかめて鼻を鳴らしたのだ。
フィンは唖然となり、信じられずに相手を凝視した。友軍が助けを求めているのに、この男の反応は何だ?
「どうせなら、もっとましな言い訳を考えれば良いものを」
ディルギウスは舌打ちして唸ると、書状を床に投げ捨てた。カサリと乾いた音は、あまりにも軽い。もはやそれはただの紙切れだった――ナナイス市民数千人の命の重みを失って。
「な……っ、なぜ、そんな!」
思わず詰め寄ったフィンを、ディルギウスはじろりと疎ましそうに睨んだ。そのまなざしの不吉さに、フィンは怯んで後ずさる。
「召集に応じなかっただけでなく、貴様のような小僧に戯言を持たせて寄越すとは、マスドの奴め、すっかりナナイスの領主気取りか。闇の獣だと? そんなもの、今まで通りの巡回で何の問題も起きておらんわ!」
「まさか! 現に俺は奴らと戦ったんですよ、ナナイスで何度も! テトナを通ってここに来るまでの街道にも、奴らは待ち伏せしていた!」
「黙れ!」
バン、とディルギウスは机を叩きつけた。
「兵士のくせに言い訳ばかり上手くなって、何ひとつ満足に出来んのか!? 軍団の威光も地に落ちたものだ、すっかり無能な愚図の集団に成り果てて、追い剥ぎどもが活気づくも道理だわ!」
顔を赤黒くして怒鳴り、唾を飛ばして罵る。田舎者どもが軍団を軽んじて税も納めない、盗賊どもは白蟻のように潰しても潰してもわいてくる、それを言い訳に商人どもは値を吊り上げる、云々かんぬん。
「どいつもこいつも、俺をなめおって! しまいにこんな小僧までが俺に、ええくそ、この俺に向かって、偉そうに意見しくさる! 世も末だ!」
独り喚き散らすディルギウスを前に、フィンはすっかり困惑し、何も言えずに立ち尽くしていた。
つまりはこの街でも、物資は全般に不足しているのだ。だがこの司令官は、それが闇の獣による被害だとは考えていない。軍団兵が自分の命令に従わないから、無能だから、人々が堕落しているからだ、と言うのだ。
どう言えばこの司令官を説得できるのかなど、まったく分からなかった。ナナイスへの救援など、とても望めない。それどころか、
「目障りだ、出て行けくそガキが!」
これ以上この部屋に留まることさえ出来そうになかった。フィンはディルギウスの剣幕に押され、じりじりと後ずさる。ここは一旦退散して後日出直せば、説得できるだろうか。それとも、たとえ相手が司令官杖を振りかざして殴りかかってこようとも、今ここで耐えて食い下がるべきだろうか。
迷っていられる猶予はなかった。
「失せろと言っておるのが聞こえんのか!!」
ディルギウスの怒声が耳を張り、壁を震わせた。とても無理だ。フィンは唇を噛み、無言で一礼すると部屋から逃げ出した。
扉を閉めて廊下を少し走り、それからやっと息をつく。
一日も早くナナイスに援軍を送って欲しいのに、まともに話も出来ないとは。
フィンが司令官室を絶望的に振り向いたその時、斜向かいにある部屋の扉が開き、ひょこりと男が顔を出した。きょろきょろと廊下を見渡し、フィンの姿を見つけると手招きする。
「……?」
俺ですか、と問い返そうとフィンは口を開いたが、相手がしーっと人差し指を立てたので、慌てて声を飲み込む。早く、と急かすように再度招かれて、フィンは足音を忍ばせて男の部屋に入った。
フィンの背後で扉を閉め、男はしばし廊下の物音に聞き耳を立てる。それから、よし大丈夫、というようにうなずいた。
「災難だったな、少年。まあ座れ」
「あ、ありがとうございます」
あまりの待遇の落差に戸惑いながら礼を言い、フィンはおずおずと示された椅子に腰を下ろした。椅子といっても背もたれのない簡素なものではあるが、疲れきった足には何であれ救いだ。思わずほっと安堵の息が漏れる。
「さて」男が机を挟んで向かいに座り、おもむろに口を開いた。「私はアンシウス、第八軍団の第二連隊長だ。君は? 軍団兵にしては若いようだが」
「名前はフィニアス、歳は十八です。二ヶ月ほど前に、兵士になったばかりです」
随分長い二ヶ月だったが、と思い返しながら答える。アンシウスはふむとうなずき、しげしげとフィンを眺めた。
「君はナナイスからテトナを通ってここまで来たそうだが、本当かね」
「はい」
「闇の獣が跋扈しているというのも?」
「本当です。現に俺は何度も奴らに殺されかけました。ナナイスは酷い有様です。テトナから引き揚げた軍団兵は、何も報告しなかったんですか?」
フィンが反問すると、アンシウスは複雑な顔になった。その質問はしないで欲しかった、と言いたげだ。しばしためらい、気が進まぬ風情で答えた。
「確かに、彼らは口を揃えて闇の獣の脅威を訴えたが……軍団長は本気にしなかった。君に対する態度と同じだよ。ぼろぼろでここに戻ってきた隊長は、勝手にテトナから全兵力を撤退した上に大勢の部下を失った咎で鞭打たれ、獄中で自裁した。生き残りの部下たちは疫病のように嫌われて、ひとまとめにして城壁外の哨戒任務に出されているが、隊長の末路を目にしたゆえか何も言わんよ」
「そんな……あなたは信じてくれないんですか。今、外で何が起こっているのか、事実から目を背け続けるつもりなんですか」
率直なフィンの言葉に、アンシウスは瞑目し、ため息をついた。
「何とも言えんな。だがテトナやナナイスの事実がどうあれ、このウィネアにも動かし難い事実はある。軍団長の言葉に異を唱えるなら、街にはいられない……それが一番大きなものだ。軍団長は強力な縁故を持っているし、市議会は完全に彼の言いなりだ。それに、君には気の毒だが、南方からはまだ物資が届いている。滞りがちではあるがね。北辺は元々貧しい土地だし、これまでも度々税の滞納があった。君の言い分が信じられなくても仕方がない」
「…………」
フィンは我が耳を疑った。仕方がない、と言うのか。仕方がないから諦めろ、と。
彼の凝視から逃げるように、アンシウスはごほんと咳払いして壁に目をやった。織物に仕上げた帝国全土の地図が掛けてある。
「それにもうひとつ、今のウィネアにとって重大なのは、皇帝の座を巡る争いが深刻化しているということだ。いずれこのヴィティア州も、無縁ではいられまい。兵力を集めて、いつでも南進できるように準備を整えておかねばならん」
「だからナナイスは見捨てる、と言うんですか。お願いです、せめて」
一部隊だけでも、と懇願しかけたフィンを、アンシウスは手の一振りで黙らせた。
「ナナイスには船があるだろう。本当にそれほど厳しい状況なら、海へ出てグラエス岬を回り、ヴェルティアなりどこなりに避難すればいい。ウィネアから兵力を割くことは出来ないのだ」
さらりと言われ、フィンは一瞬相手が正しいのかと錯覚しかけた。確かにナナイスには近海の哨戒船が何隻もある。だが……マスドなら、アンシウスの言うような方法は真っ先に考えただろう。実行しない、出来ない理由があるに違いない。
しかし混乱した頭ではその理由を推測も出来ず、フィンはただ会話を続けて望みをつなぐために問うた。
「本国の情勢は、そんなに緊迫しているんですか」
「うむ」アンシウスは深刻そうにうなずいた。「アエディウス帝の亡き後、長男ゲナス殿が即位したのは知っているかね。今から五年ほど前だが」
フィンはぼんやりうなずいた。ちょうど彼がオアンドゥスに引き取られた頃だ。新皇帝の即位祝いを街でもやっていた記憶がある。
「ゲナス殿は竜侯会議と折り合いが悪かった。元々軍との結びつきが強い方だったからな。そこで会議は弟フェドラス殿に何かと肩入れした。その動きを危惧したゲナス殿は皇帝に対する謀反であるとして会議を解散させたが、それが結局、フェドラス殿に決心させることになった。二年余り前、フェドラス殿が兄君を暗殺して帝位に即いた」
「そんなこと、全然知りませんでした」
「あの頃から情報が怪しくなり始めたからな。そうでなくとも山脈の北側まで知らせが届くには、時間がかかる。フェドラス殿が帝位にあったのも、わずか一年足らずだった。ゲナス殿の息子が逃げ延びて、亡父を強く崇敬していた皇都守備隊の後押しを受け、フェドラス殿を倒して即位した。一年と少しばかり前の話だ。今の皇帝はヴァリス陛下ということになる」
「それで? 次は誰が皇帝になろうとしているんですか。ディルギウス殿ですか」
うんざりした様子を隠せずにフィンは皮肉めかして先を促した。そうでもなければ、ここウィネアの軍団までが戦に備えねばならない理由がない。
「軽はずみなことを言うものではない!」アンシウスは顔をしかめて叱責した。「いいかね、よく聞きたまえ。今のヴァリス帝には敵が大勢いるのだ。自身が殺害した叔父フェドラスには、養子セナトがいた。これは実際には、ナクテ領主、竜侯セナト=アウストラの孫だ。今もって行方不明らしく、セナト老とその息子にして第四軍団長ルフスが行方を捜している。彼らが幼いセナトを見付けて擁立すれば、ヴァリス帝には困ったことになる」
「ナクテ……」
つぶやき、フィンは地図を見やった。肥沃なネーナ平原のほぼ中央、都にも並ぶ大きな街だと教わった。ウィネアからはカルスムの峠を通って山脈を越えるか、南西に進んで海岸沿いに山脈を回りこめば、ナクテの背後に出ることになる。敵としてか、友軍としてかは、情勢次第ということか。皇帝と竜侯の戦いを見物し、勝ちそうな方にいいところで力添えして名誉と特権を得るか。あるいは、いっそ共倒れしてくれるのを待つか。
ディルギウスの胸算用を察し、フィンは気分が悪くなった。第八軍団の本来の任務は北辺を安全に保つことだ。彼らの“国”は山脈の北側であって、南ではないのに。
怒りを堪えて黙り込んだフィンに、アンシウスは続けた。
「ほかにも不穏な噂がある。亡きゲナス帝が粛清したノルニコム人の名門ロフルス家だが、目こぼしされた寡婦エレシアが女当主となり、一族郎党をまとめて皇帝に復讐の叛旗を翻したということだ。しかも……」
そこでアンシウスは間を置いた。勿体をつけたのか、それとも口にするのをためらっただけかはわからない。フィンが眉を上げると、アンシウスはごほんと咳払いして、平静を装った口調でぞんざいに締めくくった。
「このエレシアは、本物の竜侯らしい」
「…………」
ぽかん、とフィンの口が開いた。本物の、竜侯。それはつまり、遠い昔の名残となった肩書きだけではないということで、すなわち……
「竜が、現れたんですか」
「噂ではな。エレシアの髪と同じ、焔のように赤い色をした竜が、戦場を飛んだとか」
真偽はどうだか、とごまかすように彼は肩を竦めた。フィンも曖昧な顔で、開けっ放しだった口を閉じた。
もしそれが本当なら、皇帝の座など、竜の鼻息ひとつで吹き飛ぶのではなかろうか。まだそうなっていないのは、竜の力も伝説ほど強くはないからか、それとも実際にはやはり、竜が人間同士の戦に関ることなどないからか。だがここであれこれ推測しても、事実が分かるわけではない。
アンシウスが気を取り直して、話を実際的な内容に戻した。
「ともかく、そんな事情であるから、いつ本国から召集がかかってもおかしくはない。北辺に回す余裕はないのだよ。彼らには自力で何とかしてもらうしかない。君はどうするかね? 一人でここまで来たのなら、このままこちらの軍に移籍してもいいぞ。またナナイスまで戻るのは大変だろう」
思わずフィンはひきつった笑いをこぼした。あの道程をまた戻る? もしアンシウスがフィンの立場であったなら、あるいは一度でも北へ向かおうとした事があるなら、今の発言がどれほど馬鹿げているか分かるだろうに。
何が可笑しいのかと訝るアンシウスに、フィンはゆっくり首を振った。
「戻れません。結局あなたは俺の言ったことをひとつとして本気に取っていないんですね。俺はナナイスから、家族と、もう一人の軍団兵と一緒に出発しました。闇の獣が待ち伏せていた街道をどうにか突破して、テトナで生き残りの孤児たちを見付けた後は、獣を避けるために街道から外れたところを通ってきました。そしてあと少しというところで……盗賊に襲われたんです」
次第に声が強くなり、挑むような響きを帯びる。ばつが悪そうに目をそらしたアンシウスに、フィンは容赦ないまなざしを据えた。
「子供たちが何人か攫われて、軍団兵は死にました。皆、傷だらけでぼろぼろです。食べ物も水もない。戻れるわけがありません。軍団の一部隊と一緒でもない限り」
文句なしに強烈な一撃だった。少なくとも、言った当人はそう思った。
――だが、長い沈黙の後、アンシウスはまるで何も理解しなかったかのように、フィンを見ないまま平静かつ淡白に答えたのだ。
「なら、君はこの街で仕事を探さねばならんな。軍団に勤務するなら、君の家族の住まいぐらいなら用意できる。兵士は一人でも多く欲しいのでね。孤児たちはネーナ神殿の付属施設で引き取ってくれるだろう。まぁ、返事は明日でも構わんよ。一度家族のところに戻って相談してきなさい」
そして、行きたまえ、と手を振って退室を促す。
適当にかわされ、うやむやにごまかされた。
フィンは失望に肩を落とし、もはや何を言う気力も尽きて、頭も下げず挨拶もせず、部屋を出て行った。今となってはもう軍団に希望など見出せなかったが、それでも恐らく、明日またこの扉を叩くことになるのだろうとうんざり考えながら。




