3-5. 州都ウィネア
ウィネアの市壁は、高さにしてナナイスの倍はあろうかという立派さだった。その全周については比ぶべくもない。みすぼらしい難民の一行は首を仰け反らせ、それぞれなりにぽかんとした。
門には軍団兵が立っていたが、出入りする人々を調べている様子もない。時々、荷車を引いた商人たちから通行税を取っているだけだ。
「篝火が、ない……」
呆然とオアンドゥスがつぶやく。フィンも辺りを見回して眉を寄せた。壁の外に、篝火の台がないのだ。それはつまり、この街は闇の獣の襲撃に晒されていない、ということ。
「どうしてなんだ?」
街の規模が大きすぎるからか。それとも、軍団兵が周辺を見回って獣退治を行っているのか。それにしては、盗賊が現れたのはおかしいが……。
フィンたちは北側から東門へ回ってきたので、南側の正門に続く立派な街道と荘重な墓の数々を見ることはなかったが、それでも、辺りには庶民のつましい墓が並び、墓地につきものの低木が白い可憐な花を咲かせていた。ここでは、ナナイスやテトナでは失われてしまった生活が、まだ続いているらしい。
一行が門に近付くと、二人いる衛兵が不審げに眉を上げた。フィンはネリスやオアンドゥスらと不安げな視線を交わした。何らやましいところはない筈なのに、呼び止められたくなくて無意識に足を速める。
「待て待て、おまえたち」
案の定、衛兵たちは槍を下ろして行く手をふさいだ。仕方なくフィンは立ち止まる。疲れきっていたし、怪我人や子供たちもいるのだ。悶着は起こせない。
衛兵はどう対応すべきか迷っている風情で、彼らをしげしげと眺め、曖昧な口調で言った。
「旅芸人でもなさそうだし、物乞いか? 旅券か何か身元の証明書は持っているのか」
普通なら、街から街へと旅する事があっても、滅多に旅券の提示を求められることはない。許可証は罪人の逃亡や侵入を防ぐのが目的であるから、何かの事情で厳しい検問をとの要請が出ている場合を別として、怪しまれない限り素通りできるものだ。
生まれ育った街から離れたことのないフィンは、その辺りの事情には疎かったものの、物乞い扱いされたのには愕然として、思わず仲間達を振り返った。それから、無理もないかと肩を落とす。馬車も馬も、まともな旅装さえもなく、泥や垢や血に汚れて、飢えにやつれて。
(そう、確かに……物乞いだ。助けを請いに来たんだから)
自嘲気味にそんなことを考えながら、フィンは荷物を探ってマスドからの信書を取り出した。無事だ。封もはがれていない。ほっと息をついて、彼はそれを手に進み出た。
「俺は軍の特使です。ナナイスから来ました。後ろにいるのは、俺の家族と、テトナの生き残りです」
「特使?」
衛兵は胡散臭げに眉を寄せたが、信書の封印を確かめ、「本物だ」と驚きに目を丸くした。彼は改めてみすぼらしい一行を見回し、困惑の面持ちで訊いた。
「テトナの生き残りと言ったな。いったい何があった?」
「知らされていないんですか? 軍団兵が戻っているんじゃないんですか」
「それは……うむ、確かにテトナの部隊は戻ってきたが、召集があったからと聞いている。違うのか」
「召集? 逆では?」
フィンは混乱して問い返した。援軍をウィネアから派遣する必要こそあれ、反対にウィネアに召集する理由などないように見える。少なくとも、壁の外に篝火を焚かなくても良いのだから。
話が噛み合わない。二人の衛兵は当惑のまなざしを交わし、困って頭を掻いた。しばらく迷って、結局彼らは判断をお偉いさんに丸投げすることに決めた。
「ともかく、本物の特使なら通さないわけにもいかんな。兵営の場所は分かるか? 門をくぐったら通りをまっすぐ行って、中央広場から北西に向かう坂を上れ。前方右手にネーナ神殿があって、そこを通り過ぎたら左手に見えてくる」
「ありがとうございます」
礼を言って歩き出そうとしたフィンに、衛兵は「ああ待て」と慌てて続けた。
「あー、なんだその、兵営に入るのはおまえだけにしておけ。残りの連中は神殿で待たせておく方が、面倒がないだろう」
含みのある口調に、フィンは鈍い怒りと落胆を感じたが、態度には出さずに再度礼を言い、皆を促して歩き出した。
命がけでやってきたのに、この対応はあんまりではないか。ウィネアの住民は、本当に何も知らないのだろうか? 農作物が入ってこないだとか、色々と生活にも影響が出ているだろうに。
重い足を引きずるようにして歩いていると、ネリスが横で兄の心中を代弁してくれた。
「……がっかりだね。あたし、ウィネアに着きさえすれば、すぐに軍団兵が迎えてくれて、よし分かった任せろ、って、ナナイスを助けに行ってくれると、思っ……てた」
語尾が揺れて、くすん、と鼻をすする。フィンは妹を見下ろして、「ああ、俺もだ」と暗い声で同意した。子供たちも同様らしく、おどおどと不安そうに辺りを見回している。ウィネアに着きさえすれば、すぐにも誰かが両腕を広げて迎え入れてくれると、何の根拠もない望みを抱いていたのだろう。
フィンはため息を押し殺し、行く手を睨むように顔を上げた。
州都だけあって人通りが多く、誰もが忙しそうにしている。フィンたちをちらちらと見る視線もあったが、声をかける者はいなかった。眉をひそめてすぐに顔を背けるばかりだ。
遠くからカーンカーンと金床を打つ音が聞こえる。人のざわめきやロバの鳴き声、食べ物や蝋燭を売り歩く者の口上、そのどれもが、どこか殺伐とした気配を感じさせた。よく見ると、路傍で立ち話をしている人々の半数ばかりは眉を寄せ、厳しい顔つきをしている。無邪気に笑っているのは、年端も行かぬ子供か、自分の住む家だけが世界のすべてである下男下女の類ばかり。
最後尾で子供たちが脱落しないか見張りながら歩いていたファウナが、横の夫にささやいた。
「ここもなんだか、きな臭いことになっているみたいね」
「ああ。召集と言っていたが……まさか、南へ兵を進めるつもりじゃないだろうな」
オアンドゥスは唸った。傷の痛みと厳しい毎日のせいで、眉間の皺が深くなる一方だ。きっとこの先、すっきりと縦皺が消えてなくなることはあるまい。
「南なんて……サルダ族が、また攻めて来たのかしら」
「わからん。だが北に兵を寄越してくれるつもりがないのは、明白だ。くそッ!」
オアンドゥスが罵り、その語気の荒さに、近くにいた子供がびくっと竦んだ。
ピュルマ山脈に住むサルダ族は同じ人間だが、厳しい自然環境の中で狩猟採取を主な生業として暮らす、少数民族だ。山で採れる鉱物や岩塩を下界との取引通貨とし、ごくたまに山から下りてくるが、滅多に自分達の領域を出ない。そして同時に、よそ者が山に踏み入ることも歓迎しない。
平穏に住み分けられている間は良いが、天候不順や災害で食糧難になると、サルダ族は昔ながらの方法に頼る。すなわち、豊かな下界からの略奪だ。ディアティウス帝国の一部に組み入れられたとは言え、実質的には、山脈は今も野蛮人の領域とみなされている。
ここ数十年、ヴィティア州に駐屯する軍隊が戦うのは、主に闇の獣と、このサルダ族だった。もっとずっと昔には、帝国化を拒む北辺のヴィティア人部族とも戦っていたが、オアンドゥスらの世代では既に、自分達が帝国市民でない時代など想像もつかない。
ともかく、相手がサルダ族なら、北辺の兵までかき集める必要はないように思われた。オアンドゥスとファウナの人生で、幾度かサルダ族来襲の噂は耳にしたものの、すべて州南部の軍だけで撃退出来ていたのだから。
何か良くないことが起こっている。
漠然とした不安に、二人は揃ってため息をついた。
丁度その時、行く手にネーナ神殿が見えてきた。大地の女神を祀る神殿は、丘の中腹に位置していた。遠くから頂上にあるのが見えたのは、天空の神にして帝国の守護神、デイアのものだろう。
「おじさん、おばさん」
先頭からフィンが振り返って呼んだ。
「ここで待っていて下さい。皆をお願いします。きっと傷の手当てもしてくれるでしょうし、ちょうどいいから、ネリスのことも相談できれば……。俺はその間に、これを軍団長に届けてきます」
「分かった。気をつけてな」
オアンドゥスが無事な左手を上げると、フィンはうなずいて、一人でさらに先へと歩いて行った。
見慣れたはずの背中が雑踏に紛れ、他人のように思われる。オアンドゥスはやや茫然とした面持ちでそれを見送った。
「……あいつ、いつの間にか男になってたんだなぁ」
しんみりしたつぶやきに、横でファウナが失笑した。フィンを養子にしたせいで、一家におけるオアンドゥスの立場はすっかり長老的なものとなったが、実際の年齢で言えば彼はまだ三十代なのだ。息子の成長に世代交代を感じて老け込むには、少々早すぎる。ファウナは、憮然としたオアンドゥスの肩を「嫌ですよ、もう」と叩いた。
「あなたの方がずっといい男ですよ」
「…………」
む、だか何だか低く唸り、オアンドゥスはごまかすように子供たちを見回して人数を確かめた。冷やかすような顔のネリスと目が合い、慌ててごほんと咳払いする。
「よし、それじゃあ、フィンが戻ってくるまでこちらで待たせて貰おう。ネーナ神殿なら施療院もあるはずだ。さあ、行くぞ」
オアンドゥスは照れ隠しのように急いで背を向けて、神殿の中へと歩き出した。
ネリスは何とはなしにマックと顔を見合わせ、お互いおどけて肩を竦めた。だがそんな気分も、神殿の門をくぐると、不思議なことにすうっと薄れて消えた。
敷地に入った瞬間、何か空気が変わったのを感じた。清浄な、あるいは静謐な、それでいて力に満ちた空間だ。
ネリスは無意識に深呼吸し、行く手の本殿を仰ぎ見た。荘重な建物――その中にネーナの神像が安置されているのが感じられる。像はあくまで像でしかなく、芸術品ではあるが、それ以上ではない。だがネリスには、そこに何か別の力が宿っていることが、離れた場所からも察知できた。
ずっと、何のしるべもない野原をさまよっていたような気がした。今初めて、くぐるべき扉を見つけたのだ。現実の神殿を歩きながら、ネリスはもうひとつの知覚でその扉にそっと手を触れた。
新しい感覚が開かれてゆく。ネリスはゆっくり、そっと扉を押して……
――刹那、全く異質な何かが割り込んだ。
踊る炎、赤く染まる空、悲鳴と罵声、絶望の叫び。体中から力が抜けていく。寒く、一切が冷たくなって、氷のような闇が世界を閉じ込める。
青い光が点々と灯った。底知れぬ憎しみと悪意に満ちた喜びが、暗黒の波濤となって押し寄せる。
「ネリス!」
肩をつかまれて我に返ると、ネリスは石畳の上に両膝をつき、うずくまっていた。一晩氷雨に打たれたかのように心身が冷え切り、歯の根が合わなくてカタカタ鳴った。
無意識に彼女は顔を上げ、はるか北を見やった。
(フィアネラ様)
止めようとする間もなく、涙がこぼれた。理由などない、ただ“分かった”のだ。
「ナナイスが――」
案じ顔で取り巻く両親や子供たちに、かすれ声でそれだけ言うのが精一杯だった。ネリスは両手を石に叩きつけ、激しい嗚咽に身をわななかせた。




