大地のすべてを愛するごとく
以前からちらほら頂いていた「ファーネインと小セナトはその後どうなったのか」というご質問に対する回答のSS。
本編完結から約十年後、小セナトは27歳ぐらい。まだヴァリスが皇帝ですが数年後には譲位されます。
満々と水を湛えた湖は碧空を映し、見渡す限り広がる緑の草原には点々と牛が群れている。
かつてそこが大都市であったことを示すものは何もない。かすかな街道の跡すらも。ただひとすじの轍が南から湖のほとりまで続き、その果てに一台の馬車がぽつんと止まっていた。
荒涼として寂しくも見える景色の中に佇む、ふたつの人影があった。
「十年か」
青年がこぼした一言には、深い感慨と満足がこもっていた。ほっとひとつ吐息を漏らし、彼はかたわらの人物を振り返って目を細める。
「十年で、やっとここまでになった。君のおかげだ。君と、小人族の尽力で大地が緑を取り戻した。ありがとう」
感謝を告げた相手は、顔の半分を仮面で隠した女だった。波打つ長い黒髪が風に戯れる。
「私達だけの力ではありません、セナト様。あなたと皇帝陛下が適切な手を打って下さったから、不毛の荒野を生き返らせることに専念できたんです」
「大地の癒し手、森の賢女ファーネイン殿。君に比べたら私の力など微々たるものだよ」
セナトは畏まって頭を下げる。だがふたたび顔を上げた時、そこには為政者の厳しさが浮かんでいた。
「これからが難しい。呪われた大地、草一本生えず虫一匹生きられない死の国であった間は誰も所有権を主張しなかったが……牛を放せるほどに回復したとなれば、いざこざは避けられまい。今までと同じようにいくかどうか」
半ば独り言のようにそこまで言い、いやそれはこちらの問題だったな、と顔をこする。そこでふと彼は思いついたように目をしばたたいた。
「なぜ牛なんだい? 家畜の糞で土を肥やすというのはわかるが、羊のほうが痩せた土地に強いし、毛もとれるのに」
「牛は土の上に出ている草の葉を食べるだけですが、羊は根こそぎにしてしまいますから。普通の土地なら気をつけて頭数を管理すれば食べ尽くさないようにできますが、ここは……死んだ大地に、ようやく薄皮一枚が張ったばかりです。わずかな油断でまた砂漠に戻ってしまいます」
「そうなのか、知らなかった。それも小人族の秘伝かい」
「いいえ、牧畜を営む人々なら承知のことですよ」
ファーネインは澄まして答え、それから小さく笑った。
「かく言う私も知らなかったんですけど。協力してくれる皆さんから教わることがたくさんあって……賢女だとか持ち上げられていますけど、実際はそんなに物知りでもないんです」
「でも実際、植物の生育については君の知識がおおいに役立っていると、各地から報告が届いているよ。ナクテの再建が進んだのも君のおかげだと。私も陛下の代理で大概あちこち走り回っているが、君はまさに竜侯のごとく、あらゆる場所に現れるね。ウティア様から神秘のわざのひとつも教わったのかい?」
話すうちにセナトの口調と表情が、昔のように柔らかくなっていく。ファーネインは恥ずかしそうに目を伏せた。
「私は何も。ただウティア様の竜が少しだけ力を貸してくれているので……秘めたる力の神の竜はさまざまな時と場所を少しだけ繋げる力がありますから。私自身は、何の力も神秘も持たない、ただの人間です」
そう語る彼女こそが自分の言葉を信じていないような声音だった。それでも彼女は、あえて強調する。
「森の奥で泣いていた子供の頃と、本質的には何も変わっていません」
「……そうかな」
古い記憶を呼び覚まされて、セナトはしみじみとファーネインを見つめる。かつて樹海に隠れ、人間らしいふるまいさえできずにいた少女とは、もはやすっかり別人のようだ。時を超えるという神秘を経験し、生まれ変わったも同然の姿。
ややあって彼はぽつりとつぶやいた。
「君は何も求めないんだな。不思議な力と知識、小人族や竜侯とのつながりを持ちながら、そのすべてを大地のために使い、見返りを求めない。賞賛や名声さえも。それは子供にできることではないよ」
真面目に感心しているセナトに対し、ファーネインは思わずのように笑った。
「いいえ、見返りは求めていますし、受け取ってもいます。こうして次の皇帝陛下に親しく接して頂き、ねぎらいとお褒めの言葉まで賜っているのに、喜んでいないと思われますか? あなたはご自身の価値を軽く捉えていらっしゃいますね」
「……そう、かな。いや、でも、君が権力に価値を認めているようにも思えないが」
「ご冗談を。あなたとヴァリス様のご厚意がどれほど私達にとってありがたいことか。ここで牛を放すことひとつ取っても、皇帝陛下の許可と保護があればこそ安全に行えるんですよ」
ファーネインはしかつめらしく応じてから、ふとうつむいて頬を染めた。
「本当のところ権力など関係なく、あなたに褒められたいという子供じみた動機があると言ったら、呆れられますか」
「まさか」セナトは即答した。「むしろ光栄だ。権力を剥ぎ取られた一個人としての私のために、これほどの献身はもったいない」
面映ゆそうに微笑んだ彼に、ファーネインも黙って笑みを返す。お互いが理解し合っていることは、言葉にせずとも通じていた。
かつて二人が共に幼く何も持たない逃亡者であったあの時に、傷ついた醜い獣同然の少女に対して勇気ある思いやりを示されたからこそ、今の信頼があるのだ。利害も打算もない、一個人としてのふるまいだったからこそ。
穏やかな沈黙の間を、優しい風が吹き抜けてゆく。馬車の方から遠慮がちな咳払いが届き、セナトは身じろぎした。
「どうやら時間切れのようだ。……一緒に来るかい?」
さりげなく自然な、答えを知っている声音。会う度にいつも最後に投げかける問い。返事もまた、当然そうあるべきものだった。
「いいえ。私は大地と共にあります」
「ならば私の感謝と敬意も共に」
セナトは厳かに述べ、丁寧に深く一礼すると、別れは告げず馬車に乗り込んだ。
道なき野原をガタゴト揺れながら、馬車は小さくなっていく。ややあって、湖の縁をまわって小人族の女が姿を現した。
「はいよ、種は届けてきたよ。今年はまだ牛の餌が足りなくて、乳も仔牛に飲ませるのがせいぜいだってさ。来年にはバターやなんやかや、作れるといいんだけど」
「ありがとう、イゲッサ」
「どういたしまして、馬車の兵士と一緒にあたしまでぼやっと待ってるだけってのも、時間の無駄だからね。……また見送ったのかい、ファーネイン」
「ええ。私が都へ行ってもできることはないもの」
「あの坊ちゃんは、あんたが役に立つから誘ってるわけじゃないよ」
「わかってるわ」
今までにも幾度か交わしたやりとりだ。ファーネインは豆粒ほどになった馬車の影をじっと見つめたまま、言葉を紡ぐ。
「……私ね、セナト様を愛しているわ。あの方は醜い私に怖じて逃げ出さなかった。自然に治るまでそっとしておこうというもっともらしい言い訳で、自分には何もできないという諦めを正当化もせず、ただ食事を置いておくだけのささやかなことを忍耐強く続けてくれた。あの尊い心と行いを愛するからこそ、今度は私がそれをお返ししたいの。セナト様が生きて暮らし、いずれ治められる、この大地すべてに」
それは風に紛れるほどのささやきにもかかわらず、太陽のように強く明るい熱を秘めた告白だった。
黙って聞いていたイゲッサは、ゆっくりひとつ息を吐いて、目尻と口元の皺を深くした。
「なんともはや、壮大だねぇ。あんたのそういうところはやっぱり、ちょっとばかり普通の人間から外れちまったのかもしれないね」
「そうかしら。……そうかも? だけど身分違いの間柄なら、同じように想って愛を捧げた人はきっと昔からいたはずよ。結婚だとか、その、男女の仲になるだけが恋愛の成就じゃないわ。でしょう? ……ちょっと、笑わないで。もう」
ころっと普通の恋する乙女になってしまった“森の賢女”様に、イゲッサが堪えきれず肩を震わせて忍び笑いを漏らす。ファーネインは赤くなって大袈裟に憤慨し、ぷっと膨れてそっぽを向いた。
視線の先には、広々と遮るもののない湖と大地。涼しい風を受けて、軽やかに黒髪が踊る。彼女はそれを手で押さえ、気持ち良さそうに目を細めた。
唇がほころび、小さく動く。声にされない言葉が何であったにせよ、幸福な微笑みがすべてを物語っていた。
(終)




