船乗りは冒険を好む
本編完結から4年ほど後、タズとネラの話。
※空行を挿入する一般的な横書きウェブノベル体裁にしました。
※ほんのり大人向け描写あり。
紺青に入道雲が白く光る夏空の下、皇都オルドスの港は多くの船で賑わっていた。
帝国がすっかり小さくなり、往時の繁栄は失われたと言っても、海を渡ってディアティウス各地に物資を運ぶ交易活動は衰えていない。むしろ、北部や東部が経済を建て直してゆくにつれて船の需要は増すばかりだ。
かつてのように、護衛付きで軍団の物資や貴族御用達の高級品を積み込んで安泰な航海、とはいかない。競争も激化し、海賊も出没する。
だがそれだけに、才覚を活かせばのし上がることが可能な世界だ。そう、身ひとつで見習い水夫になった孤児院育ちの少年も、二十八歳の今や堂々たる大商船のあるじにまで成り上がったのである。
「よっしゃ、それじゃ後は頼むぞ!」
威勢良く言って部下たちの返事を確かめ、タズは背嚢ひとつで身軽に船を下りた。留守番を任された水夫の若者が一人、舷側にもたれて羨ましそうに言う。
「あーあ、俺も早く遊びに行きてぇ~」
すると地獄耳の船長が振り返って大声を返した。
「馬ァ鹿、大事な上得意様と商談だよ!! 昨日一昨日船に上がったばっかりのヒヨッコが、百年早い!」
うへっ、と若者が首を竦め、年長の水夫に頭をぐりぐりいたぶられる。悪気のないじゃれ合いにタズもちょっと笑い、軽く手を挙げて、今度こそ街へ入っていった。
すっかりその姿が見えなくなってから、頭を押さえて若者がぼやく。
「……けど船長のアレ、大事な商談ってナリじゃねえっしょ。事務所にも寄ってかないみたいだし、あのまんま行くって酒場か花宿じゃねえの?」
もっともな疑いではあった。
彼らは元々所属していた商船団から独立したばかりで、成長著しくはあるものの、まだ小規模だ。船は大型だがこの一隻限り。本拠地ナナイスにはこぢんまりした商館を構えているが、ほかは二、三の港に事務所があるだけ。取引の大半は港の荷揚げ場でおこない、重要な件ならば相手方の商館や屋敷に出向くことになる。
「新入りはオルドスに来るのは初めてか。なら覚えとけ。この船のお得意さんは色々いるがな、オルドスで船長が一人で出向く上得意様ってのは、特別なんだよ。立派な商館で堂々と会って、取引してますって見せびらかすようなのとは違うのさ」
「え、それってヤバい話」
「馬鹿野郎、そうじゃねえ」
ごつん、と水夫はまた拳骨を落とす。
「北の竜侯様と友達だってんでもわかるだろ、うちの船長はああ見えて意外な人脈を持ってるんだ。商品は積み荷だけじゃない、船長自身が会って話すことに価値があるってこった」
「ってーと……まさか、皇帝陛下、とか」
「さすがにそりゃねーわ、あの格好だぞ」
「ッスよねぇ」
「まぁ話を取り次ぐ誰かと会ってる、ってんならわかるけどな」
何でもないことのように言われ、新入りの若者は驚くべきなのかどうかわからず、複雑な顔をする。先輩水夫は肩を竦め、雑踏を眺めやって独りごちた。
「まったく、そんな大物にゃ見えねーんだけどなぁ。いいのか悪いのか」
独立前からこの船に乗っている彼も、今の船長が皇都で誰と何をしているのかまでは把握していない。していれば、いささか違う人物評になったかもしれないが。
「大事な商談そっちのけで寝室に直行だなんて、お行儀が悪いですよ、タズさん」
「すんません……」
一応謝りながらも、手は柔らかな丸みを撫で続けている。日に焼けた船乗りの腕に抱かれた白い身体が拒絶するようにくねったが、本気ではないしるしに、すぐ優しい抱擁に変わった。
「せめて先に入浴して欲しいのですけど」
潮風でごわごわになった黒髪をちょんちょんといじりながら、ネラが抗議する。タズは「今から一緒に」と笑った。
かつて小セナトに対して「俺は利用されやすいからおまえのためにならない」と言って距離を置いたタズが、そのセナトの侍女であるネラと今の関係になったのは、帝国の旧都が消失して一年半ほど後のことだ。
そのしばらく前、タズは初めて一隻の船を任されたのを機に、前の雇い主に独立を願い出た。商会の方針にただ従うのでなく、故郷ナナイスにもっと利益をもたらす商いがしたい、と正直に告げたのである。
当面は下請けという形での制限付き自由を許されたタズが、オルドスで新たな取引相手を探していたところへ、小セナトからの使いが来て今いる屋敷に案内され、待っていたのがネラだった。
「独立されたと聞きまして」
どこから噂を仕入れたのか、平然と彼女は言い、改めてセナト様の力になってくれないかと頼んだのである。
帝国がこのざまになって、以前のように隠微な政治的駆け引きがおこなわれる余裕はなくなった。むろん現皇帝と次の皇帝に敵がいないわけではないが、かつての帝国政治における敵とは種類が違う。今は一人でも多くの友人が欲しい、と。
「はぁ……そりゃまあ、ネラさんの頼みなら、あのガキんちょのために一肌脱いでやらなくもないですが」
タズ本人も、以前と同じ理由で断る必要性は感じていなかったので、ひとまず曖昧に答えた。あの頃よりは少しばかり人を見る目を養えている自信があるし、ナナイスよりも大変そうな皇都の様子を見れば、なんとか力になりたいというのが正直なところだ。
が、しかし、今のタズは一隻の船長。小船ひとつぶんどって飛び出した頃とは背負うものが違う。彼は敢えて返事を渋った。
「けど、俺の方にも利益がある話ですかね?」
「もちろんです。あなたの船に任せたい荷もありますし、港に事務所を設ける便宜も図りましょう。……それで足りなければ」
ネラは淡々と言って、彼の目の前で、結い上げた髪から簪を抜いた。豊かな髪が肩と背に流れ落ち、その光景の美しさ、意味するところに、タズが目をみはり息を飲む。
そのままネラが、己の肩に手を伸ばして服の留め具を外そうとしたので、タズは大慌てで止めた。
「ちょ、待った待った! 本気ッスか!? あのクソガキ、まさかネラさんにそこまでやれって!?」
彼の動転ぶりにネラはきょとんとし、次いでぷっとふきだした。以前と同じ、温かく見守る姉のような笑顔になる。
「良かった、そういうところは変わってませんね、タズさん。やっぱりあなたは信頼できる人です」
「……え、……あれ、試されたんスかね、俺」
笑われて赤面し、タズはややこしい顔で頭を掻く。そして小声でぼそりと付け足した。
「こんなことで信頼されてもなぁ……正直、喜んだし」
聞かれたくないような、でも知って許して欲しいような、中途半端な声音の独り言。ネラは今度こそ声を立てて笑い、手を差し伸べた。
「試したわけでも、セナト様の命令でもありません。久しぶりにあなたに会えて、……変わらず誠実な人のままだと感じられて、嬉しかったんです。だから」
続きは言葉ではなく、つながれた手と手、絡まる指と指の語らいになった。
それ以降、タズは皇都に来る度、ネラのもとに通って各地の情勢を知らせた。
この屋敷は小セナトのために提供されたものだという。暗殺を防いだミオンが刺し殺された事件の後、演説が効いたのか、あるいは新都拡張工事の進捗によるものか、いくらか治安が改善して人心と住居に余裕ができたらしい。
だが当人は相変わらず元市庁舎内で皇帝ヴァリスと共に仕事漬けだ。ごくたまにタズとセナトが直接顔を合わせる機会もあったが、ほとんどはネラが情報を仲介した。今では彼女が、次期皇帝への陳情や交渉の窓口になっているのだ。
「今回はセナト様もこちらへいらっしゃるそうですよ。たまには姿を見せておかないと、いつまでもガキんちょ呼ばわりされるのはかなわないとおっしゃって」
身繕いを終えて食事までのひと時、二人は居間でくつろいでいた。絨毯にクッションを置いて腰を下ろし、用意された飲み物と軽い菓子を楽しむ。
ネラはタズに寄りかかり、その肩に手を回したタズは柔らかな髪に顔を埋めて、しっとりした花の香りを堪能した。
「あー、前に会った時もずいぶん背が伸びてたなぁ。わかっちゃいるんスけどね。その場にいないと、つい昔のまんまの気がして」
「初めて会った時から、もう七年……八年かしら。変わらないわけがありませんわ。あなたもすっかり頼もしくなって、どこから見ても立派な船長さんでしょう。こんな髭面になっても、中身は昔と変わらないタズさんですけど」
ふふ、とネラは笑って、からかうようにタズの頬に接吻する。タズは照れくさそうにもじゃもじゃの顎を掻き、改めて愛人の姿をしげしげ眺めた。
「ネラさんは見た目も変わらずきれいッスね」
「あら、若作りして見えます? 『竜の娘』でも歳を取りますよ」
ネラはわざとらしく機嫌を損ねたふりをした。実際、化粧や身なりに気を使ってはいるが、それでも避けがたい容色の変化に自覚がある。変わらない、と言われて喜ぶよりも、変化に気付かれたらどうしよう、と不安がまさるのだ。
タズは女心の機微はよく分からなかったが、誤解されたと気付いて言い直した。
「あーいや、すんません、そうじゃなくて。俺にとっては、中身も見た目もずっと同じようにきれいだって意味」
「……」
さすがに返す言葉もなく、ネラは頬を染めて絶句する。たっぷり一呼吸はそのまま固まってしまい、それから彼女は負けたというように苦笑した。
「嬉しい褒め言葉をありがとうございます。でも、これからも同じでいられるかどうか。きっとだいぶん、変わってしまいますわ」
「なるほど、もっときれいになる、と」
「そうなれば良いのですけど」
ネラは受け流してから、ふと真面目な顔つきになった。壁際に控える召使に目配せしてから、居住まいを正してタズに向き直る。
「今日はいつもとは別のお話があるんです。……三年ほど前の、セナト様に対する暗殺未遂事件は憶えていらっしゃいますか」
「ああ……はい。一時期どこでも噂になってましたよ。日はまだ沈まない、って、あの演説が」
タズも背筋を伸ばし、表情を引き締めた。当時多くの人々が示した心酔や感激とはほど遠い、痛ましげな厳しさが眉間や口元にあらわれている。ネラはそれを見て取って、安堵したように目元を緩めた。
「あの後でセナト様は、私を侍女から外されました。もう子供ではないのだから、いつまでも女性に身の回りを世話されているのは格好が悪い、とおっしゃって。この屋敷の管理を任せたいが、ナクテに帰っても良い、アウストラ家の女主人に仕えるのが本来のつとめだろう、……と」
「そういや、そんな話でしたっけ」
先祖をさかのぼれば初代ナクテ領主たる竜侯とその竜につながる血筋。その秘密は代々の女主人にだけ伝えられてきた。ネラも本来は小セナトの母親フェルネーナに仕えていた身だ。
「ええ。セナト様が私の手はもう必要ないと仰せなら、次は妹君のエフェルナ様にお仕えするのが順当なのですが……実は、あちらにいる私の身内が亡くなりまして。それを知らせて下さったフェルネーナ様が、もう血筋のつとめに囚われなくとも良い、最後の一人ぐらい自由に生きることを、大地竜も望むだろうと仰せられました」
「ありがたいっちゃありがたいお言葉ですが、両方からいっぺんにお役御免にされても困るッスね」
タズが苦笑して言い、ネラもやや気楽になった様子でうなずく。
「それで不意に気付いてしまったんです。このまま私が子を産まなければ、血筋が絶えてしまう。いいえ、血筋というよりもただ、私は独りぼっちになってしまう、と」
「ネラさん」
思わずタズは身を乗り出したが、ネラは手ぶりで制した。かつて見知らぬ姉弟の窮状を見て、事情も聞かずに飛び出した船乗り青年が、また先走ったことをする前に。
「だから養子を迎えました」
彼女は言って、ほら、と視線で示した。タズも振り向き、召使が連れて来た幼子の姿に目を丸くした。一歳か二歳か、まだよちよち歩きもおぼつかない。ふわふわした細い黒髪と、まるでネラから受け継いだかのような矢車菊色のつぶらな瞳。
「うわー……可愛いッスねぇ! 女の子?」
「ええ。母子ふたりだけで神殿に保護された後、母親が病気で亡くなったそうです。ルミナと呼ばれていたので、そのままに。本当は何も説明せずに会わせて、あなたの子よ、って悪戯をしようかと思ったんですけど」
笑いながらネラは言い、ルミナを膝に抱き上げる。タズは大袈裟に驚き呆れた顔をして天を仰いだ。
「まさかネラさんがそんな! 本気にしますよ、俺。なんなら今からでも」
「あら」
「滅多に家にいない父親でも良ければ」
タズはいつもの剽軽さをひっこめた真剣な口調で断言し、まっすぐにネラの瞳を見つめる。ネラも決意のほどを確かめるように鋭い視線を返し、ややあって、納得の笑みを広げた。
「はい。宜しくお願いしますね、タズさん」
「こちらこそ、お願いします」
畏まって、きりっとした一礼。あとはもう相好を崩し、俺にも抱っこさせて下さい、可愛い可愛い、うわぁおしめが濡れてる、と大騒ぎ。
いきなり降って湧いた『我が子』にもまるで臆する様子がないので、ネラはつい質問した。
「あなたなら養子も喜んで下さるだろうと思っていましたけど、ここまで楽しそうな反応は予想外でしたわ。急に家族ができて、少しは怯んだりなさらないんですか?」
正式に結婚すれば何かと制約もかかるし、子供に対する義務も負うことになる。自由気ままな船乗りにとって、いきなり両手両足に重しを付けられるような事態ではないのか。
だがタズは、そんな懸念を笑い飛ばした。
「船乗りってのは冒険好きなんスよ。新しい家族に新しい人生、未知の海に漕ぎ出すようなもんじゃないですか。わくわくせずにいられませんって。いざ、帆を上げよ!」
まさに、からりと晴れた航海日和のごとく爽やかに言い、小さな娘を高々と掲げる。いかにも大らかな彼の態度に感化され、ネラも意気揚々と敬礼した。
「了解です、船長!」
――直後、娘の大泣きという時化に遭遇してあたふたするはめになったのだが、それはそれで、ひとつの幸せな船出の形であった。
(終)




