満ち足りぬ者たち
本編完結から40年ほど後の話。
満足か、と老人は問う。女は笑い、聞き返した。満足したことがあるか、と。
皇都オルドスから離れた片田舎の荘園に、かつて皇帝だった男の住まいがある。名門アエディウス家が有していた莫大な資産の、最後の一握りだ。帝国そのものが衰退し、すっかり貧しくなった現在では、それでも充分裕福だと言えよう。
気取らず飾らず、快適にくつろげる素朴な邸宅は、土を耕し果樹を世話して実りを得てきた本国民らしい佇まいだ。
風通しの良い一室で、老人が寝台に身を起こして客と相対していた。
「まさか貴殿がおいでになろうとは。天竜侯の差し金か」
血色の悪い唇で微笑をつくり、彼は白い顔を客人に向けた。炎色の豊かな髪をもつ貴婦人は、小さく鼻を鳴らして腕組みする。
「今にも死にそうだと言うのだから、来ないわけにはゆかないでしょう。かつての帝国の残り火が消えるのを、この目で見届けないことにはね。存外死にそうになくて無駄足だったようだけれど」
「ふ、ふふっ」
老人は笑い、むせそうになって口元を押さえた。
「変わらぬな、炎竜侯エレシア殿」
言った彼もまた、かつてと同じ静謐なまなざしをしていた。エレシアは竜のような目でそれを受け止め、沈黙のみを返す。
ややあって老人が問うた。
「満足か」
ザア、と窓の外を風が走る。青い麦畑を波打たせ、李の白い花を散らして。
「貴殿の憎むディアティウス帝国は、すっかり無力になった。貴殿の伴侶と子らを奪った男は弟に殺され、生き残った息子は帝国を瀕死に陥らせた。反して貴殿の国は今や大陸随一の繁栄を誇り、あるじたる竜侯と同様、活気に溢れ輝いている。もはや帝国が、ノルニコムに対して武力を振りかざすことはおろか、恐れながらと物申すことさえあるまい。……満足されたか。それとも、貴殿の炎にくべる薪はまだ不足か」
しばしいらえはなかった。エレシアはじっと老人を見つめ続ける。そこに埋もれている答えを視線でえぐり出すがごとく。
長い沈黙の後、彼女は薔薇の蕾がほころぶように笑った。
「満足など、どこにあるというのです。そなたは満足したことがあるのですか。己の人生に、やり遂げたこと、仕損じたことすべてについて、すっかり満足したことが?」
「……ないな。今も心残りばかりだ。貴殿が訪れたと聞いて、今さらだがこの首を差し出すべきかと考えたが……我ながら呆れる。思い浮かぶのは未練ばかりだ」
老人は応じ、苦笑して、己が手を見下ろした。骨が浮き、皺だらけになった手。かつて帝国を動かし、建て直そうと働いた、今は無力で食事の碗も満足に持てぬ手を。
エレシアは彼のそんな態度を蔑むように、眉を上げて呆れ顔をした。
「そなたの首など、今さら何の価値がありますか。自惚れるのも大概になさい。満足かと問われたなら答えは否です。炎神ゲンスの竜侯ともあろう者が、もうこれで良い、と炉の火を落とすなど、あろうはずがない」
きっぱりと言い切ってから、彼女はひとつ静かに息をついた。唇を開きかけてためらい、引き結んで。それからもう一度、思い切って言った。
「既に憎しみはありません。かつてされた仕打ちを忘れられはせず、思い出す度に今も胸が不穏に騒ぐことは事実。けれど、今の帝国を……そなたと、そなたの跡継ぎらを、憎んではいません」
「それを聞いて安心した。異世へ旅立つのも少し気楽になりそうだ。あちらに着いたらグラウスに感謝しなければな」
老人は穏やかに言い、エレシアがわずかに身じろぎしたのを見上げて、灰茶の目にこっそり面白そうな光を浮かべた。
「私に代わってさんざん貴殿と激論を戦わせ、存分に炎を燃え立たせてくれたおかげで、貴殿の心にしつこく突き刺さる遺恨の杭も燃え尽きたのだろう」
「…………」
えへん、とエレシアはわざとらしく咳払いしてそっぽを向く。頬が赤い。老人は若返ったようにくすくす笑った。
「あの頃は本当に、帰国の度に憤激と惚気をこれでもかと浴びせられて参ったものだ。貴殿との激論を逐一再現しては憤り嘆き、最後には結局、蜜菓子もかくやの惚気と賞賛を胸焼けするまで突っ込んでくれて、幾度もう帰って来るなと命じたくなったことか」
「あの男ときたら」
まったく、と怒ったようにエレシアはつぶやく。だが上辺の怒りはすぐ、今は地上にない魂への思慕にとってかわられた。懐かしく慈しむ笑みが目元を和らげ、瞳を揺らす。
「こちらこそ、来る度に愚痴を聞かされてたまったものではなかったわ。青白い顔をしているくせに仕事を抱え込み、すぐ体を壊すくせに養生しようとしない、食事をまともに摂らずに気が向いた時だけ適当なものをつまむ……そんな話を寝室で延々と聞かされてごらんなさい。そなたのせいで、幾度小火を出したことか」
「あやつめ」
今度は老人が苦笑いで唸る。
それきり、お互い言葉が途切れた。老人と女、見た目の年齢も気性もまるで異なる二人の間に、一人の男が遺した記憶が橋を架ける。
唐突に、エレシアが長い髪をふわりと翻して踵を返した。二歩ばかり行って止まり、冷ややかに顔だけを振り向ける。
「どうやらまだ早かったようだから、今日はもう御前を失礼いたしましょう、前皇帝ヴァリス陛下。いずれ御身が異世へと旅立たれる時には、必ずわたくしが未練を断ち切って差し上げます。それまでせいぜい、残りわずかな命で足掻きなさい」
余命幾許もなさそうな老いた男に対するにはあまりに無情な挨拶を残し、エレシアはさっさと戸口へ向かう。若々しく眩しい背中へ、ヴァリスは羨望と諦念の混じる声をかけた。
「承った。その日を楽しみにしていよう」
炎竜侯が帰った後、ヴァリスは一人で追憶に耽った。かつての仇敵の、昔のままの姿を目にしたせいで、あれもこれもと記憶が鮮やかによみがえってくる。
若かりし日、友と二人で語らったこと。隣国の女王に子を授けたことを知らせる、誇らしさと後ろめたさの入り混じる顔。ヴァリスの子が夭折した日、慟哭する彼に黙ってずっと寄り添ってくれた無骨な手の温もり。
気難しい夫に辛抱強く慈愛を注いでくれた妻の微笑。柔らかな声。無垢に一途に父を慕い、反抗することを知る前に逝った娘と息子。
――そう遠くない内に、己もまた、彼らと同じところへ行くのだ。
エレシアにとっては妬ましいことだろうな、と皮肉に思いつつ、一方で、しかし、と考える。
やり残したことは多い。気がかりも絶えない。すっかり引退した身ではあるものの、帝国をめぐる様々な事柄には心乱される。変わらぬ若さがあったなら、と、時折訪ねてくる天竜侯を妬ましく思うこともしばしばだ。
結局、どうあっても満足などできぬということだろう。
「因果なものだな」
ふ、と苦笑まじりにつぶやくと、彼は再び枕に頭を落とす。足掻けと言われたことで、かえって気が楽になったようだ。自然と口元が緩み、笑みが浮かぶ。
ああ、今日は良い夢が見られそうだ。
(終)




