兄と妹
コロナ後遺症でしんどいフォロワーさんへのお見舞いSS。
イケ兄をご所望とのことですが……イケてる?
「あっ、お兄! いいところに来た!」
顔を見るなりそう言われ、フィンは思わずたじろいだ。金髪も半分がた白くなってきた妹が、ばたばたと駆け寄るなり、抱っこしていた幼子を押しつける。
「これから大事な打ち合わせって時になって、ぐずりだしちゃって。悪いけどしばらく見ててくれる? 予定大丈夫?」
せわしなくまくし立てるネリスの肩越しに、遠来の客とおぼしき数人が目を丸くしているのが見えた。六十歳に手の届こうという神殿祭司長が、どう見ても二十歳そこらの青年を「兄」と呼んだことに面食らっているのだろう。
襁褓をつけた幼子は、引き渡される間もべそをかき奇声を上げ手足をじたばたさせている。フィンはのたうつ巨大芋虫のごときそれを、どうにか安定した姿勢に保持しようと苦心しながら答えた。
「様子を見に来ただけだから、時間はある。おまえの部屋に?」
「うん、おもちゃとか着替えとか一揃い預かってるから。よろしく」
「わかった」
慣れたやりとりの後でようやく、客人の一人がネリスの兄は竜侯であることを思い出したらしく、あっ、と短い声を上げてそわそわした。当然のこと挨拶すべきなのだが、どうにもタイミングが悪い。フィンは苦笑気味に目礼だけすると、ずり落ちそうになった幼子を抱え直して「よしよし」とあやしながらその場を離れたのだった。
しばらくの後。
「お兄、様子どう……」
急ぎ足に戻ってきたネリスが、振り返ったフィンに「しーっ」と指で合図されて声を飲み込む。狼藉の限りを尽くした小さな嵐が、床の真ん中でべったり倒れ伏して眠っていた。
大人ふたりはできるだけ静かに、汚されたものや壊されたものを片付け、気配を殺して隣室に移る。それからやっと、水で割ったワインを注いで一息ついた。
「お疲れ様、ありがと」
「そっちも。話はまとまったのか?」
「だいたいね。またあの岬にアウディア様の聖火が灯せるよ」
答えてネリスが懐かしそうに笑う。フィンも「そうか」とうなずいた。
昔のナナイスにあった神殿は、港町にふさわしく海の女神アウディアを祀っていた。だが再建された時には、天竜侯の存在があまりに大きく、またアウディアの加護を受けた祭司もいなかったため、神殿は天空神デイアに捧げられたのだ。むろん、他の神々への祭壇や祠も後から造られたが、かつてナナイスの象徴であった岬の聖火は、ずっと失われたままになっていた。
それがようやく、ウィネアから呼んだ職人や祭司の協力で取り戻せる目処が立ったのだ。神殿祭司長に就いたネリスが、何年もこつこつと資金をやりくりし、各所と協議を重ねてきた成果である。
フィンは改めて妹を見つめ、目を細めた。
「おまえもすっかり重鎮だな」
「やめてよ、そんなのじゃないわ」途端にネリスは渋面になって否定する。「あたしはただ、少しでも昔のナナイスを取り戻すためにできることをやってきただけ。重鎮なんて言われたらなんだか偉そうなオッサンみたいじゃない。やだやだ」
心底嫌そうな顔は、まるで若い娘のようだ。既に大抵の『オッサン』よりも年配になった今でも、その辺りの認識は変わらないらしい。フィンが面白そうな顔をすると、ネリスは胡乱げに言い返した。
「だいたい、竜侯様のほうがよっぽど重鎮でしょ。相変わらず全然偉そうに見えないけど。子守もしてくれちゃうし」
「子守をしてるのはおまえもだろう。自分の子を育てて、……母さんの介護もして、ようやく手が空いたら今度は孫を」
「仕方ないよ、誰かが世話をしなきゃならないんだから。あたしはたまたまネーナ様のお力で、この歳になっても腰が痛いとか膝が痛いとかいうこともなく、毎日元気に動き回れてるけど、皆がそうじゃないんだし」
ネリスは言って肩を竦めた。彼女が産んだ子供たちは今のところ全員健在だが、中にはやはり、身体の弱い者もいる。隣室の暴君を思い、フィンはしみじみとうなずいた。
「元気な大人でも、朝から晩まで毎日あれの世話をするのは無理だろうな……」
「本当にね。時々預かるぐらいなら、楽しめる余裕もあるんだけど。まぁ忙しいのも悪くないわよ、老け込む暇がないから」
ネリスは笑って言い、寂しくないしね、と小さくつぶやいた。父母を看取り、夫はもう何年も前に海賊との戦いで海に沈んだきり帰らない。子や孫はいても、昔の自分を知っている者が次々といなくなっていくのは、存在の一部が失われるような孤独感をもたらすものだ。
フィンが思いやる顔つきになると、ネリスは湿っぽくなるのを避けようとばかり皮肉っぽい目つきを返してくれた。
「見た目の若い兄がいるっていうのも便利よね。お兄って呼ぶ度に、あたしはこの人より年下なんだ、って確認できて気持ちが若返るもの」
「そういうものか?」
「そうよ。若々しくいる秘訣には二種類あって、まさに実際若い人たちと交流することと、あるいは逆に、年長ばかり相手にして自分が一番若いと感じること、って言われてるのよね。お兄は両方いっぺんに満たしてくれるわけだから、助かるわぁ。おまけに子守やらお使いやら何でもこなしてくれちゃうしね!」
便利便利、などと軽い口調で冗談めかして笑う。子供の頃から同じ、兄をいいように使って遠慮しない妹のふりで、けれど声音とまなざしには誠実な感謝を込めて。
「……今更だけど。父さんがお兄をうちに連れてきてくれて、本当に良かった」
「ああ。俺もそう思うよ。昔はさんざん罵られたり殴られたりして、正直、勘弁してくれと思った時期もあったが」
「ちょっと、今この流れでそれ言う!? ほんっとにお兄ってば、話をつまらなくするんだから」
わざとらしくしんみり述懐したフィンに、ネリスが大袈裟に憤慨して拳を宙に振る。だがそれが昔のように、本当にぶつけられることはない。
妹が怒り顔で睨み、兄は首を竦めて防御のふりをして――共に笑み崩れたのだった。
2022.8.29




