若気の至り
【ネリス編】※第二部、粉屋一行が将軍とクォノスにいた頃。
人が住むところ、兵営であれ神殿街であれ何であれ、商店は必ず出来るものだ。人口がある程度あれば、生活必需品だけでなく奢侈品や工芸品の類も流通する。
そんなわけで兵営主体で無骨なクォノスの街にも、小間物屋ぐらいはあるのだった。
ネリスの荷物持ちを言い付かったフィンは、ふと店先に並ぶブローチに目を留めた。洒落っ気はあるものの華美ではない、普段使い用の、小型で安いものだ。
兄がついて来ないのに気付いたネリスが、どうしたの、と戻って来た。
「珍しいね、お兄がこういうの気にするなんて」
「ちょっと思い出したんだ。ほら、あれ」
手を伸ばして、ひとつのブローチを指す。
「昔おまえに貰ったのに似てるよな」
「えぇ?」
贈り物なんかしたっけ、とネリスは首を傾げて顔をしかめる。それから突然、ものすごい勢いで真っ赤になった。
「ちょ……っ、忘れてよそんな大昔のこと!!」
通りに響き渡るほどの大声を出され、フィンの方がびっくりして目をしばたたく。彼が絶句している間に、ネリスは背を向け、
「そんなのどうでもいいでしょ、ほら早く!」
怒ったように言い捨てると、走るような勢いでずかずか歩き出した。フィンは慌ててそれを追いかけながら、こぼれそうな苦笑を努めて噛み殺している。ネリスの方はそれに気付くどころではない。
彼女の頭の中は、羞恥と後悔でいっぱいだった。もう六年ほど前のこと、フィンがオアンドゥスに引き取られて間もない頃の出来事を思い出して。
風車小屋の夫婦には娘が一人きり。その子が十歳になり、夫婦は新しい子を授かることはあるまいと諦めた。
婿取りを考えるには早いが、娘が年頃になってからでは、変な虫がついてしまうかもしれない。それなら、適当な少年を今の内に養子に迎え、一家の跡取りとして育てるのはどうか。上手く行きそうなら、そのまま娘と結婚させる。駄目なら駄目で、娘の虫よけにはなるだろう。
そんな思惑もあって、夫婦は孤児院へ向かったのだった。
むろんそうした大人の事情を、子供の方でも薄々は察する。そうでなくとも十歳の少女は、恋愛や結婚に多大な夢を思い描くものだ。十三歳の少年が“兄”になると聞いて、思いっきり期待しても仕方がない。
そんなわけでネリスは、ファウナにこっそりお願いして、街で小さなブローチをひとつ手に入れたのだった。絡み合う蔦を模した、白いエナメルがけのものを。
「今日から家族ね。はいこれ、あげる」
上げるというよりは下賜するといった態度で、ネリスはそれを来たばかりのフィンに渡した。
新しい兄は、あまり表情を変えずにただ数回瞬きし、特段の反応もなくそれを受け取る。喜ばれなくてネリスは少しがっかりしたが、彼がブローチをじっくり眺めているので、どきどきしながら次の反応を待った。
が、この期待もまた裏切られた。
「ありがとう。大切にするよ」
フィンは微笑んで礼を言うと、それを身に着けることなく、そっと机の上に置いたのだ。ネリスは落胆すると同時に、理不尽ながら怒りを抱いた。養子の話を聞いてからずっとあれこれ想像して恋心を膨らませていたのに、初対面であっさり無下にされるなんて。
というのも、実は当時、白い蔦のブローチは、娘達の間で愛の証として流行していたのだ。想う相手に贈り、彼がその場で身に着けてくれたら将来結ばれる、というわけである。
むろん根拠はない。そもそもは小間物屋が、売り上げのために流した噂である。
だがネリスは信じていたのだ。
町に住んでいなくて素敵な出会いのない自分に、ついに運命の相手が現れるのだ、と。
――今から思えば、実にまったく恥ずかしい限りの、思い込みと夢想と稚気ゆえの贈り物であった。
「あああもう、嫌なこと思い出しちゃったじゃないの、お兄の馬鹿馬鹿馬鹿!」
「おまえは忘れてたのか。まあ俺も、ピンが壊れてから修理に出せないまま、しまいっ放しにしてしまったんだが」
「いいから忘れてよ! お兄にあんなの上げるなんて、あたしが馬鹿だったのよ本当もう信じられないあああああ嫌だ嫌だ嫌だ! こんな墓石兄貴だと分かってたら、骨壷でも贈ったのに」
「……初対面でそれをやられたら、俺は泣きながら孤児院に帰ってたぞ」
「なに繊細ぶってんのよ。天下無双の朴念仁のくせに」
手厳しい悪態にも、フィンは苦笑しただけで言い返さなかった。
その態度に、ネリスはふと不安になる。
案外、彼は色々と気付いているのかもしれない。気付いていて、態度にも顔にも出さぬよう隠しているのかも。
(だってあのブローチ、街で流行ってたんだもん。お兄が知らなかったなんてこと、ある?)
男ばかりでつるんでいる街の少年達なら、少女達のおまじないなど、気にもしないだろう。だがフィンは孤児院にいた。年下の少女の面倒もよく見ていたらしい。
(それに来たばかりの頃、お兄ってば、どれだけ父さん母さんって呼ぶように言われても、絶対にそうしなかったっけ)
常に礼儀正しく、他人としての距離を――それも自分を低く位置づけて――取り、遠慮を忘れなかった。それは、単に彼の性格ゆえだったのだろうか、それとも。
(お兄も気付いてた……?)
跡取りに、というオアンドゥスらの思惑に。だからこそ、ネリスのブローチも着けず、以後も決して“兄”としての立場を踏み外すことなく、過ごしてきたのだろうか。
もし、そうだとしたら。
――否、もし、彼がそうしていなければ。
「……うわああああぁぁぁぁぁ……」
思わず呻きを漏らすネリス。えもいわれぬおぞましげな声音に、フィンはぎょっとなって一歩下がった。
「大丈夫か、ネリス?」
「おっっっ……そろしい想像、しちゃった……」
「何なんだ一体」
「なんでもない。無知って怖いねぇ……はぁ」
つくづくとため息。いやはやまったく、運が良かった。
ネリスは軽く頭を振ると、わけが分からず困惑しているフィンを振り返り、にやりと笑った。
「お兄がお兄で助かったよ」
「……??」
「おかげであたしは、好きなだけこき使える荷物持ちに恵まれたわけだし」
「ちょっと待て」
「さぁ、早く行くよ! 売り切れちゃう前に買い込まなきゃ」
安売りは逃せないんだからね、と張り切るネリスの後ろから、ほどほどにしてくれよ、とフィンが続く。遠慮のない軽口を叩きながら、兄妹は連れ立って歩いて行った。
(終)
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【フィニアス編】
※ネリスばかり恥を暴露されては可哀想なので、と書いたSS。時期はネリス編よりも前、コムリスで粉屋をしていた頃。
ネリスが買い出しから戻ると、昨日に引き続いて今日もタズがいた。
「こんなとこで油売ってていいの?」
呆れて言った彼女に、タズはまるで悪びれずに応じる。
「いいの、いいの。どうせ今は暇なんだし、おじさんにちょっと、粉の値段のことで訊いとくことがあったからさ」
それだけの用事にしては、既に随分な時間ここでくつろいでいるように見えるが。ネリスは不信のまなざしを向け、それからふと残念そうな顔になった。タズはそれを見て取り、どうした、と眉を上げる。ネリスは肩を竦めて答えた。
「うちのお兄も、タズぐらい融通が利けばいいのにね。今頃、例によってクソ真面目に働いてるんだろうなぁと思ってさ」
「あー、まあ、あいつは昔からああだから。仕方ないさ」
タズも苦笑する。ネリスは買い物籠を下ろすと、適当な腰掛を引き寄せて座った。
「本当に昔からああだったの? 何か馬鹿やったこととかあるでしょ、普通」
「いやー……馬鹿やってたのは主に俺。あいつも一緒になってふざけたことはあるけど、自分からやらかすことはなかったな。もしかして、堅物兄貴の恥ずかしい過去を暴露して弱みを握ろうってか? そういうことなら、是非とも協力したいところなんだけどな」
うーむ、と腕組みして、しばし考え込む。次第にその眉間が険しくなっていく様子からして、どうやら本気で悩んでいるらしい。兄弟同然に育った年下の仲間の恥ずかしい逸話など、そこまで考え込まずとも普通はぽろぽろ出てくるものであろうに。
ネリスが呆れていると、タズはとうとう両手を挙げて降参した。
「改めて考えると、なんっっにも出て来ねえなー。発端は俺で、あいつが事態をでかくしたことならあるけど」
「何それ」
「いや、俺達よく街の連中と喧嘩もしたけどさ、俺がいっぺん囲まれてボコボコにされた後で、仕返ししてやろうと、別の日に待ち伏せしたことがあるんだ。誓って言うが、俺は普通に、いたってフツーに、一発殴り返して逃げるつもりだったんだぞ。それをあいつ、なまぬるいとか言って……何やったんだっけな。石鹸水流して滑らせて、ぶん殴って逃げて追いかけさせた上、誰ん家だったかのロバとか牛とかを放して、奴らに向かって突進させたんだ」
「うわぁ……そこまでやる……」
「なんか合間にもっと色々やってた気もする。それともあれは別の時だったかな。まあそんな感じで、当然めちゃくちゃ怒られたけど、あいつはしれっとしてやがったなー。で、なぜか首謀者は俺ってことになってた」
「間違ってはいないよね」
「だから腹立つんだっての」
タズはむっとして、ネリスがテーブルに広げた炒り豆を勝手につまみ食いした。咎める視線を無視して、彼はぼんやり宙を見上げる。
「……そーいや、いっぺんだけあいつが一人で家出したことがあったな」
「え、何それ。夜遊びしてたとか? それとも、何かやらかして帰れなかったとか」
ネリスは即座に身を乗り出した。タズはその食いつきっぷりに苦笑し、残念ながら、と首を振った。
「どこにいたのか、何してたのか、俺も知らないんだ。一晩帰って来なくて、そんなこと今まで一度もなかったから、先生達もすげえ心配してた」
「へえー……意外。お兄でもそんなことするんだ」
ネリスは炒り豆の殻を剥きながらつぶやいた。タズは椅子の上で体を無意味に揺らしながら、内心をごまかすように、軽い口調で言った。
「まあ、あいつも色々思うところはあったんだろうさ。俺もそうだけど、あいつも里親がなかなか決まらなかったからな。俺は何度も出戻りして、一時期ちょっと荒れてたことがあったし。あいつがそうならなかったのは不思議だよ」
「そういえば、お兄がうちに来たのも遅かったよね。十三だもん」
「大概はもっと早くに……七、八歳ぐらいまでに決まるからな。でも、あいつの場合は院長先生が里子に出したがらなかったみたいだけど」
「そうなの? なんでだろう」
「さあ。院長先生が養子にしたかったのかもな。あいつは小さいのの面倒もよく見てて、半分職員みたいなもんだったし。家出したのは、確か院を出る一年前ぐらいだったかな。さすがにあいつも、誰も自分を望んでないのか、って捨て鉢になったんだろ。ってか、それは俺なんだけど」
「お兄が捨て鉢ねぇ。ヤケ酒でも飲みに行ったのかな」
ネリスがわざと冗談にすり替えると、タズもにやにやして調子を合わせた。
「酒場で管巻いてぐでんぐでんになってたりしてな。泣きながら、どうせ俺は嫌われ者なんだー、とか言って」
ありそうにない光景を想像し、ネリスは思わず本気で笑ってしまった。
「うわあ、それは恥ずかしいよー! そう言えばお兄が酔っ払ったとこ、見たことないや。その思い出が格好悪すぎて飲めないとか」
二人が勝手に盛り上がってげらげら笑っていると、そこへ、
「何の話だ?」
噂の当人が帰ってきて不審げに問うた。この二人が自分を話題にするなんて、ろくなことではあるまいと警戒する口ぶりだ。ネリスはにやりとして兄を見上げた。
「お兄の恥ずかしい過去をタズから聞いてたの。家出したんだって?」
「家出?」
「ほらおまえ、いっぺん帰ってこなかったことがあったろ。一人で行方をくらましてさ」
タズに補足説明され、怪訝な顔だったフィンは、ああ、とあっさりうなずいた。ネリスは拍子抜けして「なんだ、つまんない」と肩を落とす。が、すぐに彼女は気を取り直して言った。
「まぁいいけど。よく考えたら、お兄が恥ずかしがっても気色悪いだけだよね」
あんまりな言い様にフィンが渋面になり、タズが大笑いする。ネリスは笑いが収まるのを待って、「それで」と続けた。
「どこ行ってたの、その時。酒場にでも行ってみた?」
「いいや」
フィンは諦めた風情で首を振り、ネリスの横に腰を下ろした。
「街の中で子供が夜にうろうろしてたら、すぐに大人に見付かって、どこの誰だと騒がれてしまうだろう。だから、外に出たんだ」
「野宿したってこと!?」
「おま、ちょっ……意外に無謀な奴だな!」
ネリスとタズは揃ってあんぐり口を開けた。いくら昔は闇の獣がいなかったとは言え、城壁の外は子供が一人で野宿できるほど安全ではない。盗賊が出没するし、蛇やムカデといった小さな敵もうようよいる。
二人の呆れた視線を受けて、フィンは流石に少しばつが悪そうに、ちょっと頬を掻いた。
「危険は気にしていなかったからな。外套だけ着こんで、火も焚かずに墓の間で寝転がってた。このまま死んだらどうなるんだろう、とか、馬鹿なことを考えながら。よくある悩みさ。何のために生きているのか、自分に何の価値があるのか、必要とされているのか、だとしてもそれが何だというのか……そんな感じのことをぐるぐる考えながら、星を見上げていたのを覚えてるよ」
「くっ……暗い……っ」
ネリスがうめいた。フィンは自覚があるのか、苦笑しただけで反論はしない。タズは呆れたのを通り越していっそ尊敬のまじる顔で言った。
「おまえ、本っ当にどうしようもなく堅物だな。でも一晩で帰って来たってことは、何か結論が出たのか?」
「いや。夜が明ける頃には寒くて腹が減って、どうでも良くなってた」
これまたあっさりフィンが答える。ネリスは思わずテーブルに突っ伏した。フィンはちょっと笑って妹の頭をぽんと撫で、続けて言った。
「でも、帰ったら院長先生が『よく無事で帰って来た』って迎えてくれて、それで気が付いたんだ。俺はこの人の大きな手に守られている、ちっぽけな存在なんだな、って。だからまあ、それからも時々馬鹿なことは考えたが、行動に移すのはやめたんだ」
「あー」タズが珍しく、気恥ずかしそうに咳払いした。「そうだな。あの先生、誰かが遅くまで帰ってこなかったり、勝手に飛び出してったりしても、帰って来るなり叱りつけるようなこと、絶対しなかったもんな」
「ああ。帰って来たってことをまず褒めてくれる人だった」
懐かしい思い出に二人がしんみりしているので、ネリスは口を挟めずに、黙って豆を剥き続けた。
しばしの沈黙の後、ネリスは頃合かと口を開いた。
「要するに、やっぱりお兄はつまんないってことだよね」
「結局そうなるのか」
毎度の結論に、フィンはもはや諦観した風情である。タズはやれやれと頭を振った。
「まあ、広い世の中どこかには、そういうおまえだからこそ好きだって女もいるさ。多分」
彼にしては、おざなりな慰めのつもりだった。かなり真実に近いところを言い当てたとは知る由もない。もちろん、自分の台詞に友人が内心とてつもなく恥ずかしい思いをしているなどとは、夢にも思わなかった。
(終)




