3-4. 闇の狼
その夜は、ウィネアの丘の影を見ながら野宿をすることになった。
皆、疲れ切っていたが、フィンは何も言わず見張りについた。雲が切れて所々に星が覗いていたが、月は出ていないようで、辺りは暗い。アウディアの角灯だけが頼りだった。遮るものひとつない緩やかな丘の斜面に、身を寄せ合って眠る一行の影が這う。
のろのろと過ぎゆく時間の中、いつまで待ってもレーナは現れなかった。
(当然か)
ふ、とため息をつくと、フィンは野営地を見回した。オアンドゥスは傷が痛んでよく眠れないらしく、始終ごそごそと動いては、噛み殺し損ねた苦痛の呻きをこぼしている。ネリスは静かだったが、そっと寝顔を覗き込むと、汚れた頬に涙の跡が幾筋も見て取れた。子供たちからも、ぐすっ、ひっく、と密かな嗚咽が聞こえる。
フィン自身も、心身に相当な打撃を受けた自覚があった。体はあちこちが痛んだし、見張りの交代相手を確かめようとしてイグロスがいないことに愕然としたり、脳裏に戦闘の光景が閃いて身震いしたりもした。
(あと少し頑張らないと。ここまで来ればウィネアは目と鼻の先だ。もう何も……)
――だいたい、州都の目と鼻の先だぞ――
自分の思考が昼間のイグロスの台詞をなぞっていると気付き、フィンはまたぎくりとした。そのはずみに、頭がかくんと膝の間に落ちる。半分眠りかかっていたのだ。
危ない、とフィンは目をこすり、うんと伸びをした。体が冷えた粘土の塊になったようで、ますます気が滅入った。
(レーナ)
青黒い夜空を切り取る丘の影を睨みながら、フィンは少女のことを思った。会いたくて堪らなかった。あの手で触れられて、綿雲のような温かく心地よい眠りに包まれたい。しかし。
(……レーナには、苦痛なんだろうな。今の俺みたいな、疲れきって荒んだ人間に接するのは)
ふう、とため息。
力が欲しいなんて思わない、ただ安心してゆっくり休みたいだけなんだ――と、言い訳のように考えた時、視界の端でジジッと何かが瞬いた。
びくっ、と身を竦ませて、反射的にそちらを見やる。ナナイスで当直の夜に覚えた、明かりが消えることへの恐怖が、寝ぼけた頭に冷水を浴びせた。
「――!」
息を呑み、腰を浮かせる。アウディアの角灯が、弱々しく瞬いていた。
(馬鹿な)
簡単に消えてしまう炎ではない。油が切れかけなのかと思ったが、振ってみると充分に入っていた。それなのに、光が弱まり、ただの灯火と変わらないほどになりかけている。
それが意味することに気付き、フィンは衝撃に見舞われた。
(フィアネラ様に何かあったんだ)
祝福されたこの角灯に宿るのは、祭司フィアネラが授かっている加護の、いわば移り香のようなものだ。本人の身に異変があれば、それはここにも現れる。
(まさか)
暗い想像が浮かびかけた刹那、フィンは耳に馴染んだ物音を聞きつけて、さっと振り返った。その手は反射的に剣を握っている。
空には再び暗く雲が垂れ込め、丘の麓には闇が凝っていた。
黒い水のようにたゆたう闇の中に、ぽつ、ぽつ、と青い燐光が灯る。キシッ、と爪の音がして、一対の光がゆらりと動いた。
フィンは素早く周囲を見回した。ほかには……いないようだ。が、逃げるのは却って危険だろう。角灯の光が届かないところに、まだ獣が潜んでいるかもしれない。光のまわりに集まって身を守るのが賢明だ。
起きろ、とフィンは叫ぼうとした。
だがその寸前、吸い込んだ空気が喉を凍りつかせた。あまりの冷たさに息が詰まり、危うく剣を落としそうになる。
(駄目だ、こんな所で……ここまで来て、全滅だなんて)
カチカチ鳴る歯を無理やり食いしばり、剣を構える。
シュゥッ、と冷気が闇から噴き出した。その見えない指先に触れられた瞬間、フィンは絶望に力を奪われて膝をつく。自分の背後で仲間達が氷に覆われていくのが見えるようだった。
(嫌だ)
ネリス、おじさん、おばさん、マック――そうだ、それにファーネイン。絶対に守ると、イグロスに誓ったのに。
闇がゆっくりと目の前に迫ってくる。ふうっと息遣いが聞こえた。フィンは、勝手に諦めてあの世行きの準備をしている自分の魂を引っつかんで連れ戻し、どんどん冷えていく命の炉に、なけなしの意地と戦意をくべて炎をかき立てた。
シャリ、シャリ……
霜柱を踏むような音を立てて、闇の獣がやってくる。
フィンは涙目になりながらも、両手で剣を握って待ち構えた。恐らく、食われる前に出来る反撃は、ただ一振り。それで鳴き声でも物音でも立てさせられたなら、誰かが目を覚ます筈だ。
まつげに霜がつく。自分は呪われている、底知れぬ憎しみに囲まれて逃げられない、踏みにじられ引きちぎられて死ぬのだ――そんな考えが勝手に頭を支配していく。
それでもフィンは、動かなかった。目をそらさず、青い光を睨みつける。
(狼だ)
ぼんやりと、輪郭が見えた気がした。闇の中のわずかな濃淡、青い眼光によってできる仄かな陰影が、そのものの姿をおぼろげに見せる。
フウ……ッ
冷たい息が顔にかかった。青い目には瞳がなく、牙の間から闇がぽたりと滴り落ちて、地面に染みを作る。
(今だ、やれ、早く!)
フィンは剣を振ろうとしたが、意志の力は腕にさえ届かなかった。肩から先はもう石になってしまったように、感覚さえない。
フッ、フ……ッ
獣はフィンの匂いを嗅いでいるようだった。まるでそこにいる人間が見えていないかのように、ふんふんと鼻をうごめかし、直に触れる事なく嗅ぎまわる。だが見えていない筈はなかった。せめてもの抵抗とばかり力を込めたフィンの目と、青いガラス玉のような獣の目とが、確かに合ったからだ。
――と、かすかに獣が目を細めたように見えた。
次の瞬間、苦悶の呻きと共に、フィンの真横に棍棒が振り下ろされた。獣がさっと飛び退き、冷気がすっと薄れる。我に返ったフィンは、限界まで引いた弦から放たれた矢のように、不恰好に獣めがけて飛びかかる。もちろん、無謀な突撃をするつもりはなかった。ただ、体が勝手に反応したのだ。
大きく一振りされた剣は、虚しく地面に突き刺さった。獣は既に充分な距離を空け、闇に隠れてこちらを窺っている。
フッ……フフフッ……
「――!?」
確かに笑い声を聞いたと思った。フィンが愕然と目を見開くと同時に、青い光点は瞬き、ふっつりと消えた。
何が起こったのか理解できず、これが現実なのかも分からず、フィンは呆然と立ち尽くす。じきに力が抜け、彼はへなへなと座り込んだ。
「フィニアス……無事か?」
オアンドゥスの声で、なんとかのろのろと振り返る。アウディアの角灯は元通り明るく燃えており、その光に照らされて、オアンドゥスがうずくまっているのが見えた。他の者はよほど疲れ切っているのか、それともあの獣の冷気に力を奪われたのか、起き出す様子がない。
「おじさん!」
慌ててフィンは駆け戻った。オアンドゥスは「大丈夫だ」と呻いたが、右手を抱くようにして胸に押し当てていた。包帯代わりにした布に、また新しい染みが広がっている。それでも彼はひきつった笑みを浮かべて見せた。
「ちょっと傷が、痛むだけだ……あいつにやられたわけじゃない。死にはせんさ。おまえの方こそ、よっぽど神々の仲間入りをしそうな顔だぞ」
「そんな」冗談を言っている場合ではない、とフィンは首を振る。「俺はどこもやられてません。大丈夫ですから、おじさんこそ……」
手当てが必要だ。分かってはいるが、この状況ではどうすることも出来ない。フィンは歯痒そうにもたもたと手を動かし、それから結局、諦めてオアンドゥスのかたわらに座った。周囲で子供たちが身じろぎする。フィンは声を低めてささやいた。
「とにかく、休んで下さい。もうしばらく俺が番をしてます。途中でマックか誰か起こしますから」
「フィニアス。前におまえは、どうせ痛みで眠れないからと見張りを引き受けたろう。今度は俺の番だ。……冗談でなく、本当に酷い顔だぞ。あの世を覗き込んで、片足を突っ込んで、ぎりぎり戻ってきたような顔だ。さもなきゃ、うちの碾き臼で一日ごりごりすり潰されたような、ってところだな」
「おじさん……」
「そら、少し眠れ」
オアンドゥスは無事な方の手で、ぽんとフィンの背中を叩いた。それはかつて、子供達を寝床へ追いやる時に彼がした仕草だった。変わらぬ手の温もりに、フィンはうっかり涙ぐみそうになって、慌ててこくりとうなずくとその場に寝転がった。
「ここで寝ます。そしたら、何かあった時にすぐ分かりますから」
「ああ。頼りにしているぞ」
オアンドゥスは穏やかに応じたが、実際にはぎりぎりまでフィンを起こしはしないだろう。そしてそれは、二人ともが分かっていることだった。
横たわって目を閉じたまま、フィンは眠りの縁でゆらゆらと揺れていた。
(どうしてあいつは俺を食わなかったんだろう)
斥候としてあくまで見回っているだけ、なのだろうか。そんな役割分担があるとは思えない。今までに出会った闇の獣たちは、ともかくいきなり襲いかかってくる、それだけの存在だった。あんな風に、じっくり時間をかけて様子を探ったりなどしなかった。
しかも結局、何もせずに逃げて行ったのだ。あの冷たい息吹のせいで、一日ごりごり碾き臼にかけられたような状態になってしまいはしたが。
(もしかして……俺、からかわれたのか?)
ぐらり。意識がよろめいて、眠りの沼にずぶっとはまる。
(……連中に、そんな……感情が、ある……)
瞬く間に、暗い泥水に頭まで浸かる。完全に呑まれてしまう直前、一対の青い光が現れて――片方だけ、ぱちりと瞬いた。まるで悪夢の前兆のように。
じきにフィンは静かな寝息を立て始めたが、その眉間には深い皺が刻まれていた。




