1-2.我が家を後に
「もう限界だな。仕方がない」
壊れた風車小屋の中で、かつてその主だった男がため息をついた。妻も慰めるように肩に手を置き、丸いふくよかな顔に諦めと疲労をにじませてうなずく。
「これ以上悪くなる前に行くしかないわね。どのみち、私達にはもう何の財産もないもの……荷造りは楽にすみそうだわ」
無理に微笑んだ妻に、男も苦い笑みを返す。彼らの娘はまだ若く、辛気臭い空気に耐えられなくなって声を上げた。
「そうと決まったら急がなくちゃ! また夜になったらあいつらが来るよ。ちゃっちゃと使える物をかき集めて出発しよう。フィン兄!」
金髪のお下げを勢い良く振るようにして体の向きを変え、小屋の隅にいる黒髪の少年を呼ぶ。壊れた木箱や割れた壺の破片を片付けていた少年は、顔を上げて穏やかに応じた。
「ああ、もう始めてるよ。ネリスはおばさんと一緒に家の方を見てくれ」
フィン兄、という呼び方からも分かる通り、彼は少女ネリスよりも三歳ばかり年長だった。とは言え、実の兄ではない。養子だ。まだ十代なのは見た目にも明らかだが、歳の割に落ち着いた雰囲気をまとっているのは生来の気質か、それとも養父オアンドゥスの気質が伝染したものか。
オアンドゥスも落ち込んでばかりはいられないと心を決め、袖まくりしてフィンと一緒に作業にかかった。昨夜とうとうここまで入り込んだ獣たちによって築かれた瓦礫の山を片付け、その中からまだ使えそうなもの、役立ちそうなものを拾い集めるのだ。そこから更に、持って行けそうなものだけを選ぶ。
「フィニアス、手袋をはめたほうがいいぞ」
「大丈夫です、気をつけてますから」
フィンは歯切れ良く答えたが、実際のところ、はめようにも無事な手袋はひとつも残っていないのだった。
男二人が力仕事をしている間に、ネリスと母ファウナは家の方で荷造りを始めた。衣服、鍋、火打石と火口、砥石に裁縫道具。あれもこれもとかき集めると、到底運ぶことの出来ない量になってしまう。選別には思いのほか手間取った。
捨てて行くには惜しいものも数多かったが、それらひとつひとつを手にとってしんみりしている時間はなかった。日が暮れたらまた、奴らがやって来る。青く光る目と鋭い牙を持つ、闇の獣たちが。
やがて空がほんのり黄金色を帯びる頃、一家は荷車に一切合財を積んで、住み慣れた風車小屋を後にした。ナナイスの町外れ、小高い丘に建つ風車はオアンドゥスの曾祖父の代から一家のもので、誇りでもあったのだが、今はもうどれだけ風が吹いても、ぎしぎし唸るだけでわずかも回ることのない姿に成り果てていた。西日を背にした巨大な影はまるで墓標のようで、一家の心にも暗がりを落とした。
「……まぁ、とにかく」ネリスが咳払いした。「町に行けばなんとかなるよ。ね? 壁もあるし、兵隊も……最近は性質が悪いみたいだけど、それでも一応、武器を使えるのがいるんだし。うまくいけばフィン兄、雇ってもらえるかもよ」
「どうかな。確かに、いずれ軍団に志願するつもりだったが」
フィンは苦笑し、行く手を見やった。
元々彼は孤児院育ちで、たまたまオアンドゥスに引き取られたのだが、その跡を継いで粉屋になるほど図々しくはなかった。風車小屋はネリスのものだ。彼はそう決めていた。もっとも、ただの廃墟になってしまったが……。
「今はそれどころじゃない気がする。ともかく、皆がちゃんと落ち着けるまでは、邪魔にならない限り一緒にいるよ」
「この期に及んでまだ妙な遠慮をするんじゃない」
オアンドゥスが呆れ、怒り顔を作って唸った。
「いい加減に俺の口も酸っぱくなってかなわんが、おまえはもう家族なんだぞ。まあ、今が厄介な時期だというのは否定せんがな」
「ほんとにねぇ」ファウナがやんわりと口を挟む。「市長さんがあたしたちの面倒を見てくれるっていうのは高望みにしても、せめて市壁の内側に寝泊りできたらいいわね」
「うむ……無事かどうかもわからんからな」
オアンドゥスは顔を曇らせた。山賊化した軍隊や暴徒化した市民と衝突していなければ、まだアティラ市長が町の日常を取り仕切っている筈だ。彼ならば、家を失った近隣住民につらく当たることはないだろう。だが、もしも――。
再び一家を支配しかけた不安に、ネリスが大声で対抗した。
「全能の神デイア様は何してるのかしら! 何かよそ事で忙しいのかもしれないけど、だったらネーナ様でもフェリニム様でもオルグ様でも、誰でもいいからちょっと力を貸して下さったらいいのに!」
「きっと神々は神々で、大変なんだろうさ。もしかしたら天界は、地上よりずっと大変なことになっているのかも知れないぞ」
フィンは半ば苦笑し、半ば真剣に、そんなことを言った。ネリスは口を尖らせ、ぷうっと膨れる。
「お兄ってば、ホント、物事を退屈にしちゃう天才だよね」
「そりゃ悪かった」
たいして悪びれた風もなく応じ、フィンは小さく笑った。
ナナイスの町は一家が覚えている姿から、かなり様変わりしていた。
むろん彼らとて町には下りる。日常生活の用を足すために、あるいは挽いた粉を届けてくれと頼まれた時に。だがここしばらくは町から出て風車小屋まで粉挽きを頼みに来る者もおらず、一家もうかうか家から離れられなかったため、様子が分からなくなっていた。
「しかし、これほどとは」
オアンドゥスが低く唸った。
市壁の外側一帯は完全に荒地になっていた。街道の石畳だけはしっかりしているものの、その両側にあった静かな墓地は跡形もない。墓石は倒され砕かれ、あるいは持ち去られ、愛らしい花を咲かせる低木の植え込みは根こそぎ掘り返されていた。
荒涼としたなかに点在するのは、獣避けの篝火を焚く台だ。闇の獣たちは、光の中には滅多に出てこない。ために、姿をまともに見た者もおらず、それらがどのような体を持ち、どれほどの種類存在するのか、それすらも分かっていない。ただ、狼や猪のような普通の獣と区別するために『闇の獣』とだけ呼ばれている。
そこいらに転がる燃え殻にまじって、骨の欠片も見て取れた。人間のものかどうかは判らないが、フィンはそれが目に入らないふりを装い、辺りを見回して言った。
「出来るだけ陰を作らないようにしてあるんですね」
いかにも、身の丈ほどもある墓石が並んでいたのでは、篝火の明かりなどすぐに遮られ、壁の際まで闇のものらが押し寄せるだろう。
「てことは、一応ここの軍団兵は町を守ってくれちゃいるわけだ」
ネリスがほっとした様子でつぶやいた。そうね、と母親が相槌を打ったが、フィンはあえて何とも言わずにおいた。
彼ら兵士とて、頼れる壁がなくては獣たちを防ぎきれない。自分達が生き延びるために必要だから、策を講じているだけかもしれないのだ。市民を守るという本来の使命を覚えているとしたら、全能なるデイアに九拝礼してもいい。
こぼれかけたため息をかろうじて堪え、彼は行く手を見やった。市門はかたく閉ざされている。
(全知全能のデイアよ、どうかお導き下さい。慈しみの女神ネーナよ、我らに慈悲を。そして秘めたる力のオルグよ、我らにご加護を)
フィンは三柱の神に祈りながら、オアンドゥスと並んで門を叩いた。
ごとり、と音がして覗き窓が開く。鋭く荒んだ目がぎろりと動き、一家を品定めした。
「避難民か」
「風車小屋のオアンドゥスだ。闇の獣に小屋をやられた。もうあそこに住み続けるのは無理だ。中に入れてくれないか。俺と女房と、息子と娘の四人いる」
「家畜は?」
「皆やられた」オアンドゥスは首を振った。家鴨一羽も残ってない」
昨夜とうとう、最後までなんとか守ろうとしていたロバもやられたのだ。でなければ荷車を引いているのはオアンドゥスではなく、ロバだったろう。
冷たい青い目は、黙ったままじろじろと一家を眺めていた。荷台に積まれたものを一瞥した後、一人一人を頭から爪先まで舐めるように見て、どうやら入れてやった方が得になると計算したらしい。バシンと覗き窓が乱暴に閉まり、次いで通用門が開いた。
「入れ。急いだ、急いだ」
手招きされ、一家は不安にちらと目を見交わしたものの、命令に従ってそそくさと中に入った。外で野宿するなど論外だった。明日の朝には骨だけになっているだろう。
壁の中には、見慣れた町並みが一応は残っていた。
北辺の農村に多い、網代に泥塗りの壁と茅葺屋根を持つ家々とは違い、ナナイスは漆喰壁に瓦屋根の建物が多い。晴天の日は白堊の輝きが紺碧の海と好対照を成し、ここが紛れもなく“街”であるという安心感と、浮き立つ楽しい気分とを与えてくれたものだ。しかし今は、たとえ陽が射しても到底それを望めそうにはなかった。
道端でも広場でも、空いた場所には粗末なテントが張られ、薄汚れたなりの人々がうずくまっていた。雨露をしのぐものもないまま、戸板や毛皮一枚の上に横たわる者もいる。以前にはなかった悪臭が、所構わず立ち込めていた。
「……なんてざまだ」
無意識にフィンは唸っていた。状況が状況だけに、以前と同じ清潔さや秩序を求められるものではないと頭では分かっていても、眼前の光景には胸が悪くなった。
ナナイスには小さくとも公会堂や浴場といった公共施設がある。宿屋の数も多くはないが数軒はあるし、ともかくそうした建物を皆で使えば、ここまで路傍に人があふれ出すことはないだろうに。
嫌悪に顔をしかめている一家に、門番は尊大な姿勢で「さて」と切り出した。
「中には入れてやった。あとは、知り合いを頼るなり、そこいらの連中の仲間入りをするなり、勝手にしろ。この荷車は徴収する」
さも当然とばかりに言われたので、一家が反応するまでに間が空いた。
「なんだって?」
オアンドゥスが気色ばむ。だがその時には、門番の両脇に仲間の兵士がにやにや笑って並んでいた。新入りと聞いて、獲物にありつこうと寄ってきたものらしい。
不穏な気配に怯え、ネリスがフィンの腕にしがみつく。だが縋られても、フィンにも太刀打ちする術はなかった。武器など棒きれ一本持たないし、相手は剣を帯びた兵士だ。
「当然だろう?」
門番が意地の悪い喜びを隠そうともせず言った。
「この非常時に、まさか自分達だけいい目を見られると思っちゃいないだろうな。これは全て没収する。闇の獣から町を守るために使うのだからな!」
「鍋も?」
ネリスは馬鹿にした声を漏らし、次の瞬間、後悔して息を呑む。門番が目つきを険しくし、仲間の兵たちは残忍な笑いを一層広げた。
「何か言ったかね、お嬢ちゃん。よく聞こえなかったな」
「…………」
ネリスは黙って小さく首を振ることしか出来なかった。悔しさに唇を噛み、関節が白くなるほど拳を握り締めて。
門番は満足げににんまりし、仲間達に合図した。持って行け、と。彼らが荷車に手をかけたと同時に、オアンドゥスが我に返って口を開いた。
「頼む、せめて……」
が、言い終えることすら出来なかった。いきなり横面を殴られ、のけぞって数歩よろける。その背を別の兵が槍の石突で突き倒し、オアンドゥスはあっけなく地面に這いつくばった。ファウナが夫に駆け寄り、それ以上の暴行から守ろうとする。門番は鼻を鳴らしただけだった。
そのまま彼らが立ち去ろうとした時、フィンがぎゅっと拳を握り締め、決意を込めて呼び止めた。
「待ってくれ」
兵たちは返事をせず、なんだおまえも殴られたいのか、と言いたげな顔で振り向いた。傲慢で慈悲のかけらもない連中に、フィンは腹の底から怒りを覚えたが、それをぐっと抑えて言った。
「俺は元々、軍団に志願するつもりだったんだ。だから……俺も、あんた達のところで働きたい。その代わり、この人達にせめて最低限の物だけでも、残してくれないか」
「ほう? 自分の命で、鍋だの上着だのを購おうってのか。いい度胸だ」
門番は面白そうにゆっくり戻ってくると、家畜の値踏みでもするようにフィンを眺め回した。
「使えそうだと思っちゃいたが……どれ、」
「――っ!」
いきなり拳を腹に叩き込まれ、フィンは体を折った。が、半歩後ずさっただけでなんとか持ちこたえる。続けて背中や脚や脇腹にも殴る蹴るの暴行を受けたが、身構えていたおかげでどうにか膝をつかずに済んだ。
フィンが痛みを堪えて歯を食いしばっていると、門番は鼻を鳴らし、「良かろう」とうなずいた。
「小僧、名前は」
「……フィニアス」
なんとか答え、それから門番がまだ何かを待っている風情なのに気付いて「です」と付け足す。閣下、とでも呼べばなお良かったのかもしれないが、生憎フィンはそこまで軍団内部の肩書きや尊称について詳しくなかった。
「貴様の度胸に免じて、荷車は置いて行ってやろう。来い」
それだけ言うと、彼は顎でフィンを呼びつけ、さっさと歩き出す。
ネリスがためらいがちにフィンの腕に触れたが、別れを惜しむ猶予は与えてもらえそうになかった。フィンは口の端になんとか笑みを浮かべ、無理やり姿勢を正して歩きだす。
後から兵の数人が続き、残りの兵はまた門番小屋に戻ろうと背を向けた。と、その内の一人がふと足を止め、ネリスを見て冷ややかに笑った。
「まあせいぜい頑張ってこのがらくたを守るんだな。でないとあの小僧も浮かばれまいよ。せめて明日の朝ぐらいまではもたせんことにはな!」
ほとんど心底楽しげに、彼はからから笑って立ち去る。残された三人は呆然とし、それからやっと、自分達を囲む不吉な気配に気付いた。
薄汚れた宿無したちが注目している。飢えた目、物欲しそうな半開きの口、こそこそとなにやら集合しつつある男達。
ネリスがごくりと固唾を飲み、オアンドゥスは痛みに顔をしかめながら、周囲を見回した。
「……ともかく、ここから離れよう。アティラ様は無理でも、誰かまだ良心の残っている知り合いを捜さなければ」
「ええ、そうしましょう。クナドの奥さんなら、何とかしてくれるかも知れないわ」
ファウナがうなずき、毅然として荷車の脇に立った。ネリスもそれにならい、反対の脇に立って、これは渡さない、と睨みをきかせる。オアンドゥスは歯を食いしばり、荷車を引いて歩き出した。