闇の腕
青霧がまだ人間だったころの話。
残酷描写はありませんが、死にネタで暗い内容です。
女の名は、夕風といった。
薄暮の優しい藤色の空から吹いてくる、柔らかな風を思わせる物腰の女だった。
幸運にも夫となった青霧は、彼女の微笑がとても好きだった。毎日、魚や野兎を獲る罠を仕掛けるのも、煮炊きの薪を集めるのも、その微笑を見るためだと思えば苦にならない。元々手先が器用な方だったから、作業のついでに色々な細工物をこしらえた。
銀色の髪をゆっくりと滑る櫛。編んだ髪に挿す簪。子供の成長を願って、神々の小さな像を彫ったりもした。
「こんなに沢山の細工物を持っているのは、村で私だけよ」
おかげで移動の時は荷造りが大変、と夕風は笑ったが、その実ちっとも困っている様子はなかった。彼女も、夫の手から生み出される数々の作品が大好きだったから。毎日の家事の合間に、彼女がそれらをひとつひとつ手に取って慈しんでいるのを、青霧は知っていた。
そんな夕風は、どちらかと言うと控え目で大人しい性質だったが、体は丈夫だった。三人の子供を無事に産んだし、ちょっと体調を崩しはしても、寝込むことなどついぞなかった。木の実を探して丸一日休みなく歩き回っても、けろりとしているほど健脚でもあった。
――だから、過信した。
その春は珍しく長雨が続いて、村では病が蔓延していた。多くは老人と幼子で、下痢と発熱に苦しめられ、青霧と夕風の子供達も、何日も床から出られずにいた。
薬草の使い方に習熟した癒し手は何人もいるのだが、彼らがどれほど力を尽くしても、新しく誰かが寝込み、あるいはまたぶり返してしまう。保存してある薬草はどんどん減って、とうとう底を突いた。
ようやっと雨が止んで日が射した時、ここぞとばかり、健康な者が総出で食糧や薬草を集めに出ることになった。
「いいか皆、言うまでもないが足元に気を付けるんだぞ。これだけ長く雨が続いたのは記憶にない。いつもの道が、いつも通りだと思うな。それから、絶対に二人以上で、お互いに目を離さず行け」
長の注意を受けて、二、三人ずつまとまってそれぞれ心当たりの場所へと歩き出す。
土はぬかるみ、濡れた草が足を滑らせる。しっかりした石があると思って足をかけると、その石が周囲の土ごと崩れ落ちる。歩き慣れた道は姿を消していた。
雨こそ止んでいたが、木々の間には薄い靄が漂っていた。視界は白っぽく煙り、歩いているだけで髪が濡れて雫が落ちるほど。
青霧は夕風と共に、数人でまとまって歩いていた。先導しているのは、日頃から薬草のありかをよく調べている癒し手の一人だ。しかしその彼も、長雨のせいで草木の生長が例年と違うため、目当ての薬草を見付けるのに苦労していた。
「あっ、あそこに」
夕風が声を上げ、指差した。青霧もそちらを見やり、確かにそうだと認める。しかし生えている場所までは、羊歯や低木が生い茂って足元が見えない。
「危ないな。俺が採ってくるから、ここで見ていてくれ」
「気をつけてね」
夕風は従順にうなずく。青霧はぐるりを見回して、ほかの仲間も近くにいることを確かめると、道を外れて森の中へ踏み込んで行った。
何度か滑りそうになりながらも、無事に目当ての場所まで辿り着く。欲しかった薬草がまとまって茂っていた。
「沢山あるぞ、これはすごい」
青霧は喜びの声を上げ、お手柄だな、と夕風を振り返る。道に残った彼女も、嬉しそうに手を叩いた。
「良かった。私もそっちに行っていい?」
「どうかな……いや、ちょっと無理だ。二人一緒に立てそうな場所がない」
辺りを確かめてから、青霧は首を振った。自分一人なら安全に立っていられる場所が空いているが、すぐ近くで土がえぐれて、下には水が溜まっている。
「摘み終わってそっちに戻る時に、途中まで受け取りに来てくれ」
「分かったわ」
夕風が微笑んでうなずく。青霧も口元をほころばせ、軽く手を振ってから、採取にとりかかった。
病人は大勢いるから、採れるだけ採って帰りたい。そう思って、彼はせっせと手を動かし続ける。ふと妙な静けさに気付いて顔を上げ、腰を伸ばすと、ぎしっと軋んだ。思ったより時間がかかってしまったようだ。
道の方を振り返ると、人影がなかった。
「……夕風?」
呼んでみても返事がない。近くにいた仲間達の姿も、見えなくなっていた。
「皆、そこにいるのか? おおい!」
声を張り上げる。と、微かに「青霧か?」と聞き返す声が届いた。彼はホッとして、薬草をまとめて抱えると、来た道を戻った。両手が塞がっているので、斜面を歩くと体がぐらつく。
「わっ!」
ずるっ、と足が滑った。薬草を落とすまいとしたせいで堪えきれず、横ざまに倒れる。幸い滑落は免れたが、全身まともに藪の中へ突っ込んでしまった。
「おい、大丈夫か!?」
気付いた仲間が慌てて助けに来てくれたので、青霧は薬草を半分渡し、どうにか道まで戻ることができた。
「あー、派手に汚したな」
助けてくれた男が苦笑する。青霧はべったり泥のついた半身を見下ろし、情けなさそうにため息をついた。そして、改めて周囲を見る。
「夕風を見なかったか? 皆は先に行ってしまったのか」
「うん? いや、俺は見てないな。なに、皆この辺にいるだろう。それよりお前、村に帰った方が良くないか」
男は青霧を見て、眉をひそめた。その視線を追った青霧自身も、しまった、と顔をしかめる。尖った枝か、何かの棘でひっかけたらしい。袖が大きく裂けて、泥まみれの腕に血が流れていた。洗いたくても、この近くには川も湧き水もない。
「こんな時に……」
舌打ちし、青霧は不安を抑えきれず、またきょろきょろする。男も一緒に仲間の姿を探してから、軽く青霧の肩を叩いた。
「夕風には俺から言っとくよ。とにかく一度村に戻って、手当てをして来い。それが済んでまた出られるようなら、多分俺達はまだこの近くにいるから」
「そうだな。すまん、頼む」
「なに、ついでにこれも持って帰ってくれ」
男の分の収穫も渡され、青霧は苦笑しながらまとめて籠に詰め込む。無事な方の手でそれを持つと、青霧は振り返り振り返り、村へ戻って行った。
結局そのまま、青霧は村から出られなかった。腕の傷は思ったより深かったし、足首も少し痛めていたのだ。普通には歩けても、ぬかるむ危険な斜面を上り下りするのは無理だった。
彼はじりじりしながら、皆が帰ってくるのを待った。
薄雲に隠された太陽が真上から西へと動くにつれ、次第にまた雲が厚くなってきた。それに追い立てられるように、三々五々、村人達が帰ってくる。
灰色の空から小雨がぱらつき始めてしばらく後、ようやっと、青霧が一緒だった集団が戻ってきた。
――そこにいるべき、一人を除いて。
「夕風は」
青ざめて問うた青霧に、彼らは顔を見合わせ、鎮痛な表情で首を振った。
「やっぱり戻ってなかったか……」
「誰も見てないんだ」
「すまん、青霧」
言葉少なに告げられた内容を、青霧は理解できなかった。
「馬鹿な」
唇が震えた。そんな馬鹿な。見ていてくれと言った俺に、夕風は笑ってうなずいたではないか。何も言わずに、勝手にどこかへ行ってしまうはずがない。
「――っっ」
何を考えることもなく、彼は走り出していた。今朝、二人で辿った道を目指して。
「止せ、青霧! 戻れ!」
「じきに雨がひどくなる、お前まで遭難するぞ!」
仲間達が口々に怒鳴り、引き止めようと手を伸ばす。青霧はそれを振り払って駆けた。
「すぐ戻る!!」
そうだ、すぐに戻る。
青霧は心の中で繰り返した。
夕風のことだから、待っている間に何か採れるものはないか、あの近くを探したのだろう。それできっと、自分のように時間を忘れてしまったのに違いない。
今頃、皆がいないことに気付いて、慌てて帰ってきているはずだ。雨が降り出したし、両手にいっぱいあれこれ抱えて、心細くなっているだろう。迎えに行ってやらなくては。
「夕風! 夕風!! 聞こえるか、おおい!!」
次第に強まる雨音に負けじと、青霧は声を張り上げた。
「夕風ぇー!!」
ゴオッ、と、木々が騒いで叫びをかき消す。遠雷が鈍く唸り、大粒の雨が地面を穿つように叩きつける。
「……夕風」
雨で前が見えない。すべてが灰色に塗りつぶされていく――。
次に雨が止んだ時、村人達は手分けして夕風を探したが、彼女は見付からなかった。雨ですべての痕跡が洗い流され、手がかりさえつかめない。
「闇に呑まれちまったのかもな」
「山に還ったんだよ」
可哀想だが仕方がない。村人達はそうささやき交わしたが、しかし、青霧は断固としてそれを認めなかった。
「俺は諦めないぞ! あの夕風が簡単に死ぬもんか!」
いさめる声を無視して、彼は一人、夕風を捜し続けた。
最初は毎日きちんと村に帰って来たが、一日で往復できる範囲を捜し尽くすと、次第に帰らなくなった。三人の子供の世話は村の皆に任せ、むろん狩りなどにも加わらず。彼がかつて仕掛けた数々の罠は、獲物がかかったものさえそのまま放置され、朽ちていった。
天候はいつの間にか例年通りになり、陽射しは日々眩しくなって、木々の緑が濃くなってゆく。だが青霧の住まいは、相反するかのように影を負い、かつて慈しまれた細工物は埃にまみれ汚れるままにされた。
「いい加減におし!」
とうとう、子供の世話をしていた女が、青霧をつかまえて叱りつけた。
「あんたが夕風の思い出に囚われている間も、子供たちは腹を空かせてるんだよ! あんたがちゃんと食べさせてやらなきゃ駄目じゃないの! 悲しいのはあんただけじゃない、あの子達だって隠れて泣いてるのよ。あんた、父親でしょう! しっかりおしよ!」
「思い出?」
青霧は剣呑な声で問い返した。まともに食べていないせいで痩せこけた顔の中、落ち窪んだ目が異様な光を宿している。
「勝手に夕風を過去のことにしないでくれ。俺はまだ諦めてない。望みを捨てていないんだ。子供達だって、夕風が帰ってくるのが一番いいに決まってるだろう!」
「青霧、あんた……」
「邪魔をしないでくれ!!」
吼えるように叫び、青霧は女を押しのけて、また山へと出て行った。
まだ生きている、きっと生きている。
だってそうだろう、亡骸は見付かっていないのだし、彼女がいた痕跡を示すものさえ何もない。この山のどこかで、彼女は俺を待っているんだ……帰り道が分からなくなって、途方に暮れているんだ。俺が迎えに行ってやらなきゃ……
彼は自分でも気付かぬまま、うわごとのようにつぶやき続けていた。
「大丈夫だ、きっと見付かる、みんな元に戻る」
以前のように、家族が揃って笑い合えるようになる。村に帰ったら夕風がいて、いつものあの微笑で迎えてくれる。
「大丈夫だ……」
諦めさえしなければ。きっと、必ず、かつての喜びが戻ってくる。
望みを捨ててはいけない――
いつしか、季節は真夏になっていた。強い陽光の下に、真っ黒な影が落ちている。
どこをどう歩いていたのか、ある日ふと青霧は、見覚えのある場所に立っていることに気付いた。
「ここは……」
夕風がいなくなった、あの場所だ。いつの間にこんな、村の近くまで戻ってきたのだろう。
彼は茫然と辺りを見回し、それから、何を見つけたわけでもなく、足の向くままに森の中へ分け入った。
少し歩いたところで、彼はいきなり竦んだ。一歩先で地面が唐突になくなり、急な斜面がずっと下まで続いている。底には恐らく、細いせせらぎがあるのだろう。草が生い茂って見えないが、微かな音と水の匂いがした。
何かにささやかれたように、彼はゆっくりと、足元に目を落とした。
黒く濡れた土を覆って、青々と茂る草の葉。密かに盛り上がった木の根が、彼の仕掛ける罠のように隠れている。
その、隙間に。
「……っっ!」
草とも土とも違う色彩が、ほんのわずか、覗いていた。
青霧の口から、激しく乱れた息が漏れた。彼はその場にしゃがみこみ、両手で土をかきわけ、それを掘り出す。
現れたのは、片方だけの、靴。
「――――」
声もなく、青霧はそれを手の中に包み込んだまま、虚ろな目で谷底を見つめた。
見えるはずのないものが、見えた気がした。夕風が背後から草を摘みながら歩いてきて、彼の目の前で木の根につまずき、宙を舞って落ちてゆく。
ドサッ、と重い音が聞こえた気がしたのは、幻覚の続きか、それとも望みが絶たれる音だったろうか。あるいは、彼の胸でようやっと、現実が位置を定めて落ち着いた音か。
「……は……」
息がこぼれる。視界が晴れ、彼は唐突に理解した。
望みなど、とうになかったのだ。
元の生活には、二度と戻れない。あの笑顔が戻ってくることなど、決して、決して、ありはしない。
己に残されていたのは、絶望だけだったのだ、――と。
ゆるゆると、彼は手の中の靴に目を落とした。途端に熱いものが込み上げ、涙がとめどなく溢れだす。
(夕風、……夕風、)
嗚咽を漏らしながら、彼は何度も心で愛しい名を呼んだ。続いて自然に湧き起こったのは、悔悟の念だった。
(すまない、ずっと……おまえを、一人にして)
彼女はずっと、ここにいたのだ。青霧が、ありもしない希望を追ってあてどなく捜し続ける間も、ここでずっと待っていた。なのに彼はそれに気付きもせず、彼女のために泣くことさえしていなかった。
生きていると信じていたから。思い込もうとしていたから。
泣けば絶望を認めることになり、自分が彼女を殺してしまうと――逆に言えば、そうしない限り彼女は生きているのだと、無理やり信じていたから。
(許してくれ、夕風)
彼は体をふたつに折り、地に伏すようにして慟哭した。
涙が乾くまでに、長い時間がかかった。しかし、これまで費やしてきた日々に比べたら、わずかなものだろう。
とうとう涙が尽き、声が嗄れると、青霧は座り込んだままゆっくり木々の梢を見上げた。深い緑の葉を透して、眩しい光が降ってくる。彼はしばし目を瞑ってそれを顔に受けた。もう満足だと思えるまで、充分に。
それから彼は立ち上がり、慎重に斜面を降りて行った。
自分がどこへ向かおうとしているのか、彼は無意識で諒解しながらも、意識してはいなかった。
亡骸を見つけたいとか、自分も共に眠りにつきたいとか、何かを望んだわけではない。この数ヶ月、彼を支配し駆り立ててきた希望が失われた今、彼の中にはひとつとして“望み”は残っていなかった。
彼はただ、よろめきながら斜面を降りる途中で、己がずいぶん酷いざまだと気付いて、微かに苦笑しただけだった。体は死に際の老人さながら痩せ細り、手にも足にも力がない。この斜面をもう一度這い上がることは出来ないだろう、という考えが脳裏をかすめたが、感情は一切湧いてこなかった。
草を踏み分け、谷底へと向かう。せせらぎの上に張り出した岩棚の縁を回ってその陰に入ると、ひときわ濃い暗闇が凝っていた。
見えない手に導かれるように、彼は迷いなくその中へ踏み込む。闇の両腕にすっぽりと包み込まれるのが感じられた。
(ああ――)
彼は深く息をついた。安堵が胸を満たし、精神が弛緩してゆくのが分かる。こんなに落ち着いたのは、あの日以来、初めてだ。
頭の中で、声がささやいた。薄暮の空に吹く風のように、穏やかに。
〈すべての望みを失いし者よ、我を受け容れるか〉
(受け容れよう)
彼は無言でうなずいた。
受け容れよう、すべてを。絶望も、生も死も、諦めも。あるがままの、残酷な現実も。
〈我と共に生きるか〉
「生きよう」
声に出して答えると、深い闇が己の内に浸潤するのが感じられた。それは仄かに憂いを帯びていたが、痛みも苦しみもない、穏やかな力だった。
生きよう。絶望の闇を胸に抱いて。
「命ある限り、共に……」
そう言った青霧は、微かに笑みを浮かべていた。
長い歳月の間に、彼は、竜侯となる前の記憶を薄れさせていった。
(それを今頃になって、思い出すとはな)
苦笑を浮かべ、彼は傍らに立つ青年を眺める。明るく澄んで美しい光をまとった、若き天竜侯、フィニアスを。
視線に気付いたフィニアスが振り返り、何か、と問うように小首を傾げる。青霧は軽く揶揄する口調で言った。
「おまえの光は眩しいな」
「すみません」
慌ててフィニアスが謝り、天竜の力に意識の覆いをする。青霧は小さく首を振って気にするなと示し、木立に目を転じた。
今この天竜の輝きを前にすると、かつて自分がすがりついた“希望”は、歪み変質したものだったのだと分かる。
だが己が間違えたのだとは思わない。村で知らせを受けたあの時、あの瞬間に抱いたのは、儚く憐れなものではあったが、確かに純粋な希望だったのだから。
結局その希望は何の役にも立たず、彼を惑わせ、一切を見失わせただけだった。暗闇の中に入ってやっと、彼は己を取り戻すことが出来たのだ。
たとえ天竜のもたらす純粋な力であっても、やはり希望の光はまばゆく、人の目を眩ませるだろう。
青霧は木々の間を見つめたまま、ささやくように言った。
「光に惑わされない人間は、多くはない。気をつけてやれ」
「はい」
返事は短く、意志の力がこもっている。青霧は失笑を堪えた。恐らくこの若者は、今の忠告の意味を本当には理解していまい。そして恐らくこの先、知らぬままで生きてゆくのだろう。竜の目で人の心を見て、そういうものかと思うことはあっても、彼自身が絶望の本質を知ることはない。彼は、天竜侯だから。
(ならばせいぜい、俺が見ていてやろう)
光の中を飛んでゆく天竜と竜侯に、闇の存在を思い出させよう。まばゆい光を苦痛に思う人々には、闇の腕を差し伸べよう。
人は、どんなことがあっても絶望せずに生きてゆけるほど、強くはないのだから。
そして、闇にあってこそ光はその位置を確かなものとして、示すことが出来るのだから。
青霧の穏やかな瞳の奥で、闇がそっと翼を広げた。どこまでも静かに、遠く深く、優しく世界を包み込むように。
(終)




