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灰と王国  作者: 風羽洸海
その他閑話
198/209

経緯と結果

完結から7~8年後、青葉の一人称語り。ほんのり大人向け。



 時が経つのは早いものだ。

 そんな風に考えること自体が、歳を取った証拠なのかも知れない。けれど、時々そう思わずにはいられない。

 山の暮らしは昔から同じことの繰り返しに見えて、ふと振り返った時にはあまりの変化に驚かされる。

 たとえば、あたしが小さい頃は、下界の人間は迷惑な存在でしかなかった。でも今は、細々とではあっても、大事な商売相手だ。彼らの方も、少しずつ山での作法を学んでいる。

 そのせいかどうか、荒んでいた闇の眷属も、静かになった。それは、あたしの親やそれ以前の世代に言わせれば、昔に戻った、ということらしいけど。

 あたし自身も……だいぶん、変わった。

 嫌だ嫌だと思っていたのに、気付けば結局、黒駒と夫婦になって。男と女がどういうものかを知り、子供を産んで、歳を取った。

 今でもあたしを熱っぽく見つめる男はいるけれど、昔のように、苦しいほど切ない、思いつめた瞳を向けられることは、もうなくなった。そんな視線は、もっと若い子たちの間だけのものだ。

 水面に映る自分の顔に、時たま、ぎょっとする。しなやかな張りが失せた自分の体を見下ろして、ため息をつく。ふと我に返り、もう長いこと、子供と黒駒のことしか考えていなかったと気付くこともある。もちろんそれは、昔のあたしが青霧のことで頭をいっぱいにしていたのとは、まったく別だ。

 食事はどうしよう。翠羽は昨夜もどしたけど、食べられるかしら。黒駒の上着を繕わなきゃ。ああそうだ、そろそろ白雪に織機の使い方を教え始めないと。あれもして、これもして。

 毎日が、そうした細かい出来事で埋め尽くされ、いつの間にか後ろへ流れ去っていく。あたし自身も、きっとその流れに呑まれているんだろう。自分では見えないけれど、……あの人の目には、そう見えているに違いない。

 あの人――あたしの曽祖父。闇竜侯、青霧。

 変わらないものがあるとしたら、彼だけだろう。あたしが物心ついた頃から、彼は少しも歳を取っていない。

 いつも同じ。静かで、穏やかで。村の皆に何かを教えてくれることもあるけれど、時々ふっといなくなっていることもあって。

 この頃あたしは思うのだ。いつの日か彼は、誰にも知られず夜の闇に溶け、そのまま帰ってこないのじゃなかろうか、と。

 そんな青霧だけれど、少しだけ、あたし達の近くに戻ってくるように感じられることもある。

 同じ竜侯と一緒にいる時がそうだ。今も、あたしの視線の先で、二人が何かを話している。銀髪の青霧と向かい合っているのは、黒髪の若い男。天竜侯フィニアス。

 なんとなく、ため息がこぼれた。

 初めて見た時は、本当に普通の男の子だったのだ。村にいる連中とたいして変わらない、頼りなくて、あたしの足に見とれて、あたしが何か言うたびにうろたえる、ただの男の子。

 なのに、今その彼が、あたしがどんなに努力しても手に入れられなかったものを、あんなに惜しげもなく与えられている。

 青霧は、決してあたしにあんな笑みを見せてはくれなかった。小さな子供に対するまなざし以上のものを、向けてはくれなかった。最初はフィンだって、そんな風にしか見られていないようだったのに。いつの間にか、二人は仲間になっている。闇と光、相反するもの同士であるにもかかわらず。

 気の置けない挨拶を交わして、二人は話を終えた。フィンがこっちにやって来る。あたしが声をかけるより先に、彼は気付いて、ほんのわずか微笑んだ。こんな笑い方をするようになるなんて、昔は想像もしなかった。

「久しぶりね」

 声をかけて、わざと真正面から青い双眸を見つめる。彼は「ああ」と小さく答えて、そっと目を伏せた。気を悪くさせないようにさりげなく、挑戦をかわしたのだ。余裕があるからこその撤退。小憎らしい。

「どうして目をそらすのかしら、竜侯様? 今のあたしは見るに堪えないとでも?」

 意地悪く追及しながら、強引に相手の目を覗き込む。と、今度はちゃんとあたしの視線を受け止めて、少し困ったように苦笑した。

「まさか。逆だよ、俺が君に見つめられたくないんだ」

「あら、どうして。今さら、ときめくお年頃でもないでしょ」

 昔の姿を思い出して、からかってやる。彼は恥ずかしそうに目をそらした。ちょっと、あなた幾つよ。そういうところは変わらないんだから。

 あたしが黙って見つめていると、彼はこほんと咳払いして答えた。

「竜の目は、人の心を見透かす力がある」

「知ってるわ」

「ああ。だから大抵の人は、俺がまともに見つめると、あんまりいい顔をしない。君みたいに、知っていて構わずに真正面から見つめてくる人は……自分が見透かされることはどうでもよくて、俺がどんな反応をするかを見ようとしてる。だから逆に俺の方が見透かされてしまうんだよ。どうしたらいいか分からなくなるから、あんまり見つめないでくれないか」

 そう告白して微苦笑したのは、昔と同じ、正直で照れ屋の男の子だった。思わずあたしはふきだしてしまう。

「あなたって、本当、おかしな人」

「そうか?」

「楽しいって意味じゃないわよ、馬鹿」

「…………」

 とうとう、困惑顔で黙ってしまう。それでもどこか表情にゆとりがあるのは、やっぱり彼も大人になったということなんだろう。あたしが歳を取ったというのより、ずっと広い意味で、彼は大きく変化した。

 しばらくお互い、黙っていた。言葉に出来ない思いが、なんとなく漂っているように感じる。

 無言のささやきが風に運ばれて消えると、彼が小首を傾げて言った。

「ご家族は皆、元気かい」

「ええ、おかげさまでね」

 答える時、無意識に苦笑いになった。いつの間にかあたしは、“ご家族の皆さん”と切り離せない立場になっていたわけだ。青葉というひとりの小娘じゃなく、黒駒の連れ合いで、二人の子供の母親である女。

 あたしの反応に、彼は少し怪訝そうな顔をした。心が見えるとは言っても、あたしの――女の、こういう気持ちは理解できないだろう。

 あたしは一歩進み出て、彼の間近に寄った。体温が感じられるぐらい、近くに。

「黒駒は男衆と一緒に、鹿の群れを追って狩りに出てるわ」

 ささやきながら、ゆっくり彼の顔に視線を這わせる。頬の白い傷跡、顎の線、唇……彼があたしを意識するのが分かった。軽く爪先立って、唇がほとんど触れそうなほど顔を寄せる。

「今なら、家に来ても平気よ?」

 すぐには返事がなかった。一呼吸、二呼吸。それから、そっと腕を掴まれた。ごく優しく、力が感じられないほどのやり方で、引き離される。

「ありがとう。でも、遠慮しておくよ」

「…………」

 やっぱりね。予想はしていたけど、盛大なため息をついてしまった。そんなあたしを見て、彼が苦笑する。憎らしいったら。

「そうよね、今さらあたしに魅力なんて感じないわよね。若くもないし、所帯じみちゃってるし」

 ま、いいけど。

 投げやりにそう言って彼に背を向け、なんとなく両腕を伸ばす。口に出してみると、案外本当に、どうでもいいような気分がした。そう、もう今さらだ。どうあがいたって歳を取るのだから、諦めるしかない。

「そんなことはない」

 考えを読んだみたいに言われて、あたしはたじろいだ。振り向くと、彼は言葉を探して考え込んでいるようだった。

「君は、その……今でもきれいだと思うし、いや、むしろ昔より……魅力的だと思う。正直、黒駒が羨ましいよ」

 所々でつっかえたり早口になったりしながら、彼はそこまで言って顔を上げた。そして、

「でも、俺はもう、人間の伴侶は必要ないんだ」

 ――とても痛い一言を、静かに穏やかに、竜侯の顔で告げてくれた。

 ああもう、これだから。

「最悪。本当、竜侯なんて最低、大っ嫌い」

 唸って頭を振ったあたしに、彼は目をしばたいた。ちょこんと首を傾げる仕草が犬みたいだって、気付いてるのかしらこの男は。

 彼はそのまま、無言でじっと見つめている。言うべきか言わざるべきか、迷っているように。ええ、分かってる、もちろん承知してる。

「言われなくても、ちゃんと覚えてるわよ。同じようなことを昔も言ったわ」

「あの時は青霧のことだったよな」

「そ・う・よ! ああ、嫌になるわ。どうして、絶対に自分になびかないって分かってる男ばっかり、好きになるのかしら。失恋して当然なのに」

 しかも、昔はてんで相手にならないと思って見下げていた相手に、今さらこんな思いをさせられるなんて。あたしは馬鹿じゃなかろうか。

 自分が腹立たしくて、小娘に戻ったように恥ずかしくて、あたしはそっぽを向いていた。じきに予想通り、小さな笑い声が耳に届く。優しくて温かくて、……決して手の届かない場所から向けられる思いやりのこもった、笑い声が。

 じろっと睨んでやると、彼は表情を取り繕うのに苦労しながら、ごまかすように言った。

「うん、いや、光栄だよ。まさか青霧と同列に並べて貰える日が来るとは思わなかった」

「違うわよ、厚かましい! 同列なわけないでしょ! あなたなんて、青霧の足元にも及ばないわよ。昔よりちょっとましになったからって、調子に乗らないで」

「ああ、失言だった。今のは取り消す」

 彼は降参の仕草をしてから、懐かしむような笑みを浮かべた。

「俺も昔、君に振られた時は結構、堪えたよ。だからこれでおあいこってことかな」

「あらそうだったの? あたし、振った覚えはないけど。相手にしなかっただけで」

「…………」

 あたしの負け惜しみにも、彼は反撃しない。それさえも慈しむように、微苦笑で受け止めるだけ。いつの間にこんな、懐の大きな人になったんだろう。悔しいったらない。

 まあ、でも。

「惜しいことしたわ。こんないい男になるって分かってたら、もうちょっと考えたんだけど」

 言いながら、ひょいと右手を伸ばして相手の鼻をつまんでやる。彼は困った顔をして、どうにも出来ずに固まってしまった。あたしはにっこり笑って、右手を離すと同時に左手で彼の胸倉をつかみ、ぐいと引き寄せる。

 無理やりの割には悪くない口づけをたっぷりしてやってから、手を離すと、さしもの竜侯様も赤い顔でうろたえていた。

 うん。やっぱり、おかしな人だわ。

 自然と頬が緩む。フィンの肩越しに、遠くから青霧が呆れてこっちを見ているのが分かった。近くに居合わせた村の女衆や子供も、目を丸くしている。

「次に村に来る時は、黒駒に気をつけなさいよ」

 あたしは笑って、彼の胸を小突いてやると、さっさとその場を後にした。せいぜい困惑するといいわ。あたしの心を乱したんだから、そのぐらい当然の報いよね?

 すっかり気分が良くなったところで、不意にすとんと納得した。

 ああ、ずっと『今さら』と思っていたけど、そうじゃないんだわ。

 ――今だから。

 こんな思いをするのも、あんなやりとりが出来るのも、こんな風に接することが出来るのも、全部。

 これまでの歳月を生きてきた上での、今、だから。

 足を止めて振り返ると、彼がまだあたしを見ていた。そして、なんだか複雑な苦笑を浮かべて、ちょっと手を振る。あたしは黙ってうなずきを返した。

 彼に対する気持ちも、あたし自身に対する気持ちも、それとは別の家族への思いも。今ならすべて、受け入れられる。

 だとしたら、歳を取るのも、そう悪くない。



(終)

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