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灰と王国  作者: 風羽洸海
その他閑話
196/209

見送る時には

本編完結から30年後、オアンドゥスの死にまつわる出来事。ちょっと暗め注意。

 その時が来るのはわかっていたはずだった。

 黒かった髪も灰色になり、日に焼けた顔に深い皺が増えてゆくのを見ていたから、いずれはと覚悟していたはずだった。

 それでも、胸の奥にいくつもあるつながりのひとつが震えて切れた瞬間、フィンは自分もその場で糸が切れたようにくずおれかけ、よろめいた。

 いきなり血相を変えて議事堂から飛び出した竜侯に、驚きのざわめきが広がる。だがフィンは他の人々のことなど意識していなかった。雪のちらつく灰色の空の下、ただひたすらに、一軒の家を目指して走る。

 まだだ。まだ早い、もう少し、まだ……

 神の足に取りすがるように祈りながら、扉を破るようにして飛び込み、あるじの部屋へ駆け込む。

「父さん!」

 かすれ声で叫んだきり、何も言えなくなった。床に倒れたオアンドゥスにすがってファウナがむせび泣き、その向かいでネリスがまだ必死に父の体をさすっている。

「待って、行かないで」

 小さな声で何度も繰り返しながら、時折脈を確かめ、また胸や手足をこする。

 以前も一度、オアンドゥスは突然倒れたことがあった。その時は幸い一命をとりとめ、医者に養生するようきつく言い渡されて、以来公職を退き自宅で静養していたのだ。

 取り立てて目に見える衰えがなかったから、すっかり良くなったのだと、本人もまわりも安心していたのに。

 フィンは呆然と立ち尽くしていた。命の火は消え、あれほど頼もしく温かかった光がどこにも見えない。決して帰ることのない旅路についたことは明らかだった。

 彼がただ自失している間に、使用人が呼びに行ったのだろう、マックが駆けつけた。

「ネリス! 父さんは」

 玄関から大声で呼んだ彼は、部屋の戸口にいるフィンに気付くと、息を飲んで立ち竦んだ。その顔色から事態を察したのだろう。彼もまた青ざめ、唇を震わせた。

 フィンが端に避けると、マックは無言でそこを通り過ぎ、妻に寄り添って膝をついた。ネリスがしがみつき、声を上げて泣き始める。

 ようやくフィンも息子としてやるべきことを思い出し、のろのろと室内に入った。ファウナの背にそっと手を置く。老いた母は顔を上げ、涙をしきりに拭きながらも言った。

「急に……苦しい、って胸を押さえて、座り込んで。でも、立派だったわよ。ちゃんと、あなた達に、しっかりやれ、って言い残して。私にも、悲しむな、……なんて」

 無理を言う、とファウナは苦笑いをつくった。一人の女としての顔と、母親としての顔が瞬きの度に入れ替わる。しばしの後、彼女は母の立場を選び取った。

「覚悟はしていたけど、やっぱりつらいものね。でも、やるべきことはきちんとしなければ……フィン、マック、ちょっと力仕事をお願い」

 指示されて、二人はオアンドゥスの遺体をひとまず寝台に横たえた。きちんと整え清めるのは葬儀屋を待つにしても、床に置いてはおけない。

 寝台の枕元でネリスがまだ両手に顔を埋めている。マックがその肩を抱いていたが、ファウナがもう実際的な仕事にかかったので、彼もまた呼ばれて妻のそばを離れた。

 ファウナとマックが涙を堪え、打ち合わせを進める。遺言状の在り処、葬儀の段取り、知らせるべき相手。

「確か父さんは前に、……は不要だと……」

「そういえばそうだったわね。それじゃあ……」

 二人はフィンに相談するどころか、呼びもしなかった。自分たちの悲しみと目の前の義務とで、もう心と頭が一杯なのだろう。前々から、もしもの時には自分たちがこれをすべきである、他の者に任せることではない、と決めていたことが、ありありとわかる振る舞いだった。

 喪主は家の跡取りたるマックであり、故人の妻や娘ではなく、そしてまた――竜侯でもない。フィンはそのことに今さら鈍い衝撃を受けた。

 おまえは俺の息子だ。家族だろう、遠慮するな。

 繰り返しそう言ってくれたオアンドゥスの声が脳裏にこだまする。だが法において、慣習において、オアンディウス家を継ぐのは己ではない。

(マックも、いつの間にか『父さん』と呼んでいたんだな)

 おじさん、オアンドゥスさん、と呼んでいたはずが、気付くことさえないまま、自然に父と呼んでいた。オアンドゥスの息子は第一にフィンなのではなく、マックがその地位におさまっていたのだ。

 いずれはそうなる。

 わかっていたはずだった。竜侯となった己はもう、家族と同じ時を刻むことができない。家族の歴史に加わることはできないと。

 オアンドゥスの死は個人の喪失に留まらず、一族すべてをフィンから引き剥がしたように感じられた。唇を噛み、妹に目をやる。

 あまりに深い悲嘆の色が渦巻いて、ほとんど本人の姿が見えないほどだ。フィンは静かに歩み寄ると、そっと肩に手を置いた。そうしようと思う間もなく、柔らかな光を投げかける。

 慰めたかっただけのその行為が、劇的な反応を引き起こした。

「――っ!」

 ネリスは大きくわななき、かつて見たことのない形相で振り向いた。祭司の力で光が遮られ――否、叩き返される。精神に平手打ちを受けてフィンがたじろぐと、彼女は振り絞るように叫んだ。

「こんな時ぐらい人間らしく悲しめないの!?」

 沈黙の鉛が時を圧し潰した。マックとファウナが愕然と目をみはり、次に来る恐怖に身構えながら兄妹を凝視する。フィンは息をすることもできず石になっていたが、緊張が限界に達すると、無言で身を翻して逃げ出した。



 打ち寄せる波が、心までも洗う。何度も、何度も。

 フィンは人気のない磯で岩の陰にうずくまり、足元で揺れる水を見るともなく見ていた。衝撃と悲嘆で凍りついていた心が、波に優しく洗われるうち、すこしずつ解けてくる。それを待って、おずおずとレーナが姿を現した。

 優しい光を降らせる彼女に、フィンはできるだけ穏やかに首を振った。

「ありがとう、でもすまない。今は……独りにしてくれないか」

「駄目よ」

 レーナは泣きそうな顔をして首を振った。

「こんなに悲しい時に、独りになっては駄目」

 死なないで、とかつて懇願した時と同じまなざしでフィンを見つめてくる。そうか、今の俺は死にそうに見えるのか、とフィンは苦笑した。

「大丈夫だ。いや、全然大丈夫じゃないが……必要なんだよ、レーナ。頼む。しばらくの間だけ、人間に戻らせてくれ」

 少しだけでいい。絆を拒みはしないし本当に人間に戻りたいとは言わない、ただ束の間だけ昔の感覚を取り戻したいのだ――と、心で訴える。

 彼は立ち上がり、水平線を眺めやった。夏のような輝く紺碧ではないが、雪雲が切れて薄灰色になっている空に触れる海の端は、鈍い銀色にきらめいている。レーナの光に頼らずともこうして海を見ているだけで悲嘆が和らぐのは、人間だった頃から変わらない。

「ネリスに言われたから、ってだけじゃない。父さんを見送るのに、竜侯としての心を持ったまま、ただ自然の成り行きとして受け入れてしまったら……それこそ、全部失ってしまう。そんな気がするんだ。ただの人間として一緒に過ごしたのは十年にも満たなくて、竜侯になってからの方がずっと長い。それでも、あの人との絆の一番根元は、……」

 不意に視界が揺らぎ、声が詰まった。

 言葉を続けられず、自分がどうなったのかしばし理解できないまま立ち尽くす。熱い雫がいくつもいくつも頬を伝い落ちて、彼はやっと、それが涙だと思い出した。


     ※


 葬儀が済み、弔問客が一通り片付いてようやく暮らしが落ち着いてきた頃。

 マックに誘われ、フィンはオアンドゥスの墓参りに出かけた。いくらか寒さがやわらいで、陽射しがほんのりと暖かい。

 墓参といっても花がない季節柄、香を焚くのがせいぜいだ。

 細い煙がゆっくりと昇っていくのを並んで見上げながら、マックが小さく咳払いして切り出した。

「この前、ネリスと話したんだ」

「うん?」

「父さんが亡くなった日のこと」

「……ああ」

 もう気にするな、と言うように、フィンは曖昧な苦笑で首を振る。だがマックは、改まってフィンに向き合い、続けた。

「大きな悲しみに見舞われた時に、取り乱してとんでもない言動をするのは珍しくない。それは人間なら当たり前で、だから謝らないし、残酷な言葉だったのは分かっているけどやっぱり本心だった……って、言うんだよ」

「……ああ、そうだな」

「ついでに言うと、俺が着くなり早々に葬式の段取り始めたのも、正直蹴り飛ばしたくなったって」

 嘆息まじりに義弟が言うもので、フィンはうっかり失笑してしまった。マックは昔と変わらぬ仕草で肩を竦めると、墓石に刻まれた名をそっと手でなぞった。

「父さんがいたら、支え合わなきゃいけない時に喧嘩してどうする、って叱ってくれそうなんだけど」

 ふっ、と微苦笑が口元をよぎる。束の間の追想と思慕のあらわれは、しかし、一呼吸の間に消えた。

 彼はふたたび真面目な顔つきになって、灰色の目でフィンを見上げた。

「長い時間かけていろいろ話したんだけど、最後には……ごめん兄貴。すごく勝手なところに話が落ち着いた」

「不吉な前置きはやめてくれよ」

「先に言い訳しないと、こんなこと言い出せないよ。……兄貴はこれからもずっと見送る側で、見送られる側になることはない。それに竜侯だから、ただの人間みたいに泣き叫んだり取り乱したりもしない。だから頼む。どうか、見送る時には穏やかに、引き止めることなく送り出してほしいんだ。そうすれば俺達は、後の事は兄貴に任せて大丈夫だって安心できるから」

 予想外のことを求められ、フィンは返答に詰まった。でも、と言いかけた彼の心中を察し、マックが苦笑する。

「ネリスは自分があんなこと言った手前もあるから、『あたしの時はギャーギャー泣いても許すけど』って強がってたけどね。竜侯様の身内の特権みたいで、あまり大っぴらには言えないけどさ。俺達自身はともかく、やっぱり子供のことは心配なんだ。死に際に泣いてすがられたら、おちおち異世に行けやしない。でも兄貴がちゃんと見ててくれるって思えたら、安心だから」

「…………」

「残酷で勝手な願いだってことはわかってる。でもネリスも後悔してるんだ。なんで父さんをきちんと見送れなかったのか、って。痛みに脂汗かいて歯を食いしばりながら、母さんを頼む、しっかりやれ、って言われたのに、とっさに答えられなかった」

 近しい人を失う間際に、己の悲痛を横に置いて、去りゆく者を安心させられるような人間が、果たしているものだろうか。

 フィンは複雑な胸中が落ち着くのを待ちながら、マックを取り巻く色に意識を向けた。昔から消えることなく輝き続ける、小さな澄んだ光。まだフィンのことを家族だと思う一方で、こうして竜侯としての彼に願いを託すことへの罪悪感。

(おまえが詫びることなんかないんだぞ)

 自然と苦笑が浮かぶ。マックの変化は当然のことだ。何しろ見た目からして既に、マックは立派な壮年である。天竜軍総司令官となり、二人の娘を嫁がせ、気付けば四十代も折り返し地点。理知と活力をうかがわせる面差しには経験と思慮深さが加わり、話す内容も私事より公のことが多くなった。

 これでまだ、二十歳の頃から変わっていないように見えるフィンを、家族として人間として考えられるわけがない。変わるまいと決意しているネリスとて、いくらかは変化を免れまい。彼らは人間なのだから。

 フィンはゆっくりひとつ呼吸し、うなずいた。

「わかった、約束する。めそめそ泣かずに送り出すよう努力しよう」

「兄貴……」

 途端にマックが胡乱げな顔をした。フィンはとぼけて真顔を装い、香の煙が薄れて消える先、白っぽい冬空を見上げる。意図せずぽつりと言葉がこぼれた。

「心配しなくても、俺はずっとナナイスにいるよ」

 だから父さん、もうあなたを悼んで悲しみはしない。思い出の痛みを光で和らげることもためらわない。あなたの家族だったことは忘れないけれど、あなたの跡を継ぐ皆を守ってゆくために、竜侯として生きていく。

(すみません、おじさん)

 数十年ぶりにそう呼びかけると、昔の、ずっと若い頃のオアンドゥスがどこかで苦笑したような気がした。

 ――しょうがない奴だな、フィニアス。だが、頼んだぞ。

 見えない手に背を叩かれたように、フィンは小さく身じろぎした。

 香が燃え尽き、最後の煙を風が吹き散らす。フィンはいつもと変わらぬ穏やかな態度で、振り向いて促した。

「帰ろうか」

 短い一言に、マックが安堵したように笑みを広げる。それがかつての面影を想起させ、フィンはうっかり相手の頭に手を伸ばしかけた。刺すような目を向けられ、慌てて両手を背中で組む。

 マックは聞えよがしのため息をついて頭を振ったが、直後、にやりとするなり横からフィンの足を蹴飛ばし、素早く逃げ出した。四十を過ぎた大人のやることとは思えない。フィンは一瞬ぽかんとなったが、すぐに「待て!」と叫ぶなり走りだした。

 街道のずっと先で、レーナに先回りされたマックが大仰な身振りで抗議している。フィンは笑いながら追いつき、久しぶりに弟と肩を組んで町に戻った。



(終)


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