一章 (2)
「何やってんだ、おい」
案の定、呆れ声と同時に背中をどやされた。フィンは平静な顔のまま肩越しに答える。
「見ての通り、洗濯をしてる。意外と早かったな」
「若いのがわざわざ呼びに来やがったんだよ。竜侯様のおなりでございますー、ってな。お待たせしちゃいけねえと慌てて帰ってきたら、どこで何やってんだクソ竜侯様が」
厭味ったらしいヴァルトの言い草にも、もうすっかり慣れたフィンは全く動じない。真面目くさって最後の一枚を広げ、肩を竦めた。
「俺は時間があったし、洗っていた女の人は随分手が荒れて痛そうだったし、赤ん坊も泣いていたんだ。交代してはいけない理由があるか?」
「てめえがそういうことやると、俺がかみさんに怒られるんだよ! ちょっとは見習ってたまには洗濯ぐらいしろっつって!」
「すればいいじゃないか」
「うるせえ!!」
ああもう可愛げのない、とヴァルトが唸る。その喚き声を聞きつけて、建物から先刻の女が慌てて出てきた。フィンは笑みを向け、空になった籠をちょっと持ち上げて見せる。
「終わりましたよ」
「もう全部? 本当にありがとう、助かったわ。ごめんなさいね、あの……」
フィンに感謝しながら女はヴァルトに恐縮そうな目を向ける。自分のせいでこの親切な青年が怒られたと思ったらしい。ヴァルトは苦い顔で、否定のしるしに手を振った。
「気にするな、こいつが好き勝手にやったことだ。いくらでもこき使ってやれ、竜侯様だろうと構やしねえ」
「――え?」
あっさり暴露された正体に、女はぽかんとする。フィンは顔をしかめてヴァルトを目で咎めたが、鼻息一つで退けられた。
「親切な兄ちゃんが何者か、どうせ気になって後で誰かに訊くんだろう。お礼に今度何か付け届けでも、ってな。生憎だが、この坊主は天竜侯様で普段はナナイスにいるから、礼だとか何とかは面倒なだけだ。おらフィニアス、行くぞ」
ヴァルトはフィンと女の両方に向けて言うと、フィンを顎で呼びつけてさっさと歩き出した。フィンは肩を竦め、当惑と混乱で絶句している女に目顔で詫びてから、その場を後にした。
司令官室に向かう道すがら、ヴァルトはぶつくさぼやき続けた。
「ったく、いい加減、竜侯様らしくふんぞり返ってくれりゃ、恭しく高ーい場所に放り出しといてやれるものを、ちょっと目を離した隙に洗濯だと?」
「何がそんなに気に入らないんだ? そもそも『さっさと来い』だとか呼びつけたのはあんただろう。俺が立派な椅子で偉そうにふんぞり返ったら、即座に後ろに回ってひっくり返す気満々のくせに」
「馬鹿野郎、それとこれとは別だ。俺がいない時ぐらい偉そうにしてろ、いつまでも洟垂れ小僧の竜侯様じゃ市民の皆様が安心出来ねえだろうが。しかもよりによって赤ん坊のおむつとか……てめえのガキでもあるまいに」
ヴァルトは唸り、それからふと疑わしげな顔になってフィンを振り向いた。
「まだなんだろ?」
「ああ。だがネリスのところの子を時々世話してるからな。ナナイスでだって、おむつを取り替えたり洗ったりするぞ」
「やめろよ本当にまったく……。しっかし、そうか、あの嬢ちゃんがもう二児の母とはなぁ」
はあ、とヴァルトは大きなため息をついた。その心中を慮り、フィンはただ微苦笑する。
ネリスとマックの間には今、女児と男児が一人ずついる。最初の子を産んだ時、ネリスはフィンとレーナの子はどうなるのかと問うた。
レーナの答えによれば、人と竜の間に生まれた子は地上の生き物たる人に近い存在になるらしい。が、それでも竜と同様、神々の力をその身に宿す為、均衡を崩さないように摂理が働く。今は闇よりも光の力がやや勝っているので、しばらくは地上に子が産まれることはなさそうだ、という。
それを聞いてネリスは、フィンの予想を裏切り、満面の笑顔になった。
(じゃあ、当分は手が空いてるってわけだ。可愛い姪っ子の世話、嫌だとは言わないよね?)
有無を言わさぬ口調に押され、その時はただうなずいたフィンだったが、後から思えばあれは、ネリスなりの温情だったのだろう。竜侯であっても、妹と義弟がいて姪がいて、オアンドゥス家とのつながりは絶たれていないのだ、私達とは家族なのだ、という――。
温かい記憶に心が和み、自然と優しい表情になる。そんな時の彼はいかにも竜侯らしく、一歩離れた場所から人の世を眺めているような風情になるのだが、そのことに当人は気付いていなかった。
横でヴァルトが胡散臭げな顔になって何か言いかけた矢先、
「フィン!」
喜びに弾けるような声と共に、レーナが光をまとって姿を現した。ぎょっとなったヴァルトにはお構いなく、彼女は満面の笑顔でフィンの間近に迫る。
「ヴェーラ、本当に大きくなってたわ! もう歩いてるの! すっごく可愛いの!!」
まるで財宝の山でも見つけたかのようなはしゃぎように、フィンは笑い出しそうになったのを堪えて彼女の頭を撫でた。
「そうか、俺も後で会わせてもらおう」
「ええ!」
ぜひぜひ、とばかりレーナは何度もうなずき、それからやっと、確認を取るようにヴァルトを振り向く。挨拶もすっ飛ばして大っぴらに愛娘を褒められ、ヴァルトは照れ臭いのを隠そうと、とびきり苦い笑みを作った。
「なんだ、もう見てきたのか。まぁお嬢ちゃんならしょうがねえけどよ……。ああ、それよりもな、旦那に言ってやれ。もちょっとピシッと格好つけてる方がサマになるってな」
旦那、のところでフィンを指差しながら大袈裟に唸る。レーナはきょとんとなり、改めてしげしげと伴侶を見つめてから、不思議そうに首を傾げて答えた。
「フィンはこのまんまで、とってもきれいよ?」
「…………」
「…………あァそうだったな……」
当のフィンが片手で顔を覆い、ヴァルトはがっくり肩を落としてうなだれ、頭を振る。男二人を脱力させたレーナは、黄金色の目をしばたたくばかりだった。
「さて、呼び出した件だがな」
司令官室に着くと、ヴァルトは職務的な厳しい顔つきになって、机の上に地図を広げた。旧帝国時代の地図を写したもので、村や町や宿駅は大幅に修正されている。彼は四隅に重石を置いてから現在地ムルキアに指をトンと立て、そこからついと北へ動かした。
丸印の傍に、ズィルス、と小さく綺麗な文字が添えられている。
「この村が野盗の被害に遭った。家畜小屋を襲われたんだ。村周辺の道でもちょくちょく地元の農民や商人が狙われてる。最初の知らせが来たのは先月で、俺はちょうど手が離せなかったから小隊ひとつを派遣したんだ。ところが、賊の根城が見付からなかった」
ヴァルトは言いながら、被害が発生した場所だろう地点を、トントンと順に指で突いていく。
「その後もちょくちょく盗人が出るようになってな。集団で交易商に襲いかかる時もあれば、二、三人程度で農家の納屋に盗みに入る時もあった。どの場合も、きれいに逃げられちまって行方が掴めていない。俺も二回ほど出向いて周辺を探索したんだが、おかしなことにさっぱり手がかりがねえ」
「どういう事だ? 逃げ足が速いにしても、煙のように消えたってわけじゃないだろう」
フィンは眉を寄せて確認する。示された辺りは大小の丘があって見通しがきかない上に、人の手が入っていない森が点在しているので、山賊が逃げ込むにはもってこいだが、それでも足跡や轍や、あるいは野営の跡が残るはずだ。
しかしヴァルトは難しい顔で唸り、首を振った。
「そうとしか思えねえんだよ。どうも何かおかしい。どうにもしょうがねえから、竜侯様の出番ってわけだ。ひとっ飛びして賊の根城を見つけてくれ。場所さえ特定できりゃ、始末はこっちで出来る」
「分かった」
「見つけるだけでいいぞ、昔みたいに一人で飛び込んで壊滅させました、とか余計な武勇談を増やすな。部下どもの経験にならん」
釘を刺され、フィンは苦笑でうなずく。以前一人で乗り込んだのはやむをえない状況だったからだ。その土地ごとに住む人々の自衛能力を鍛えなければならない現在、件の野盗が少数の集団であっても、フィンが一人で片付けてしまっては根本的な問題解決にならない。それに恐らくは、野盗の中には元々近隣で普通に暮らしていた者もまじっているだろう。見分けのつく者が出向いて説得し連れ戻せるなら、その方が良い。
「行って来る。夕方には報告できるだろう」
フィンは気負わない口調で言って、ぞんざいな敬礼をしてから部屋を出た。レーナもすぐ後から、ほとんど足音を立てずについて来る。歩調に合わせて金銀の髪がふわりふわりと波打ち、柔らかな光を振りまいた。その様にフィンは飽きもせず幸せを感じ、微笑する。
一緒に外へと歩きながら、彼はふっと小さく安堵の息をついた。ヴァルトが呼び出すぐらいだからさぞ深刻かと思いきや、簡単に片付きそうだ。
普通の人間なら地上を歩き回って迷子になるだけでも、空に上がればその心配はない。煮炊きの煙が上がっていればすぐ見つけられるし、そうでなくとも竜の視力があれば、どこに人間がまとまっているかは分かる。道理で、てめえ一人で用は足りる、などと言うわけだ。
「やれやれ、便利に使われるもんだよ」
人々の暮らしを守る役に立てるのは嬉しいが、どうにも微妙な気分になるのは否めない。家族の頼みだったら瑣末事でも気にならないのだから、やはりこれはヴァルトに言われたせいか。
横でレーナが嬉しそうに笑い、フィンの腕に抱きついた。
「皆、フィンのこと大好きなのね!」
「……ちょっと違う気がする」
が、まあ、いいか。フィンは苦笑すると、レーナの頭を撫でてから空を仰いだ。
小さな綿雲が浮かんでいるほかは、すっきりとした青空だ。見晴らしも良いし、すぐに片付くだろう。行こうか、と口に出すまでもなく、レーナが白い翼を大きく広げた。
――ところがその日の夕暮れ、フィンは同じ場所にすっかり困惑した顔で降り立つことになった。
「見付からなかった」
司令官室で端的にそう報告したフィンに、ヴァルトが目を剥き、絶句する。その顔があんまり酷いので、フィンはなにやら自分が大失敗をやらかした気分にさせられてしまった。
緊張した長い沈黙の末、ようやくヴァルトが発したのは、
「どういうこった?」
今いったい何語で報告したんだ、と疑うかのような声だった。分からないのはフィンも同様で、途方に暮れて頭を掻く。
「それらしい集団が見えないんだ。あの辺り一帯をかなり広く見て回ったが、見えるのは普通の村ばかりで、森に隠れているような集団もいなかったし……ただ、ちょっと妙な感覚がする場所はあったんだが」
「妙ってえと?」
「分からない。何かそこにひっかかりを感じるんだが、見ようとすると見えなくなるような、変な感じなんだ。ズィルスの北東にある森の奥なんだが」
「どうなってんだ、そりゃ。竜の目でも見えないように、誰かが覆いでもかけてるってのか」
「それが近いかも知れないな。とにかく、空から見ていても駄目だ。一度歩いて森に入ってみるよ」
フィンは言い、傍らで心配そうにしているレーナに対して、安心させるように小さくうなずいた。
「様子を見るだけだが、念のために一人で行って来る。まぁ何かあってもレーナがいるから大丈夫だろう」
「何が大丈夫だ、その天竜様の力でもっても正体が分からねえんだろうが、馬鹿」
ヴァルトがすかさず罵声を投げつけ、腕組みをして忌々しげに唸った。しばし考えてから腕を解き、頭をガシガシ掻いて大きなため息をひとつ。
「しょうがねえ、俺も行くか。森に隠れる連中の手口はよく知ってるからな」
「…………」
フィンは黙って片眉を上げた。敢えて声にしては何も言わない。ヴァルトは机上の紙屑を取り、雄弁な顔めがけて投げつけた。
「やかましい、てめえと連れ立ってお散歩なんざ、俺の方こそ寒気がするわ。他にどうしようもねえんだから文句を言うな!」
「何も言ってないぞ」
「顔が言ってんだよ! いいから宿舎に行って晩飯食って来い、明日にはすぐ出発するぞ!」




