3-3. あと少しの所で
「盗賊かも知れず、難民かも知れず、か。だが仕方ないだろうな、闇の獣とは戦えない」
オアンドゥスが唸り、ファウナとネリスは不安げに顔を見合わせた。イグロスは何か言いたそうだったが、遭遇するのが人間であるなら非難も出来ないようで、黙っている。
フィンは一同を見回し、作戦を説明した。
「おばさんとネリスは子供たちを荷車に乗せて、そばについていて下さい。もし戦うことになったら、子供たちは荷車の下に隠れさせるんです。おじさんとイグロスと俺の三人で守ります」
「俺も戦えるよ」すかさずマックが名乗り出た。「武器はこの棒きれぐらいしかないけど、何もせずに隠れてるよりは役に立てる。ほかにも何人か、石を投げるぐらいは出来るから」
足手まといになりたくない、という必死の思いが窺える。フィンは敢えて無謀だとは言わず、うなずいた。
「ああ、いざとなったら頼む。ただし自分から攻撃をしかけるなよ、荷車を盾にして防戦するんだ。闇の獣と同じだ……追い払えたらそれでいい。倒そうなんて考えるな」
「ご立派」
イグロスが小声で皮肉る。フィンはウッと呻いたが、振り向きもせずに苦笑した。
「俺はそれで一度ひどい目に遭ったんだ。おまえは同じ失敗をするなよ、マック」
「……分かった」
マックはイグロスをじろりと睨みつけてから、フィンに向かって敬礼した。軍団兵の見様見真似だ。
よし、と一同は決意を固めると、緊張した面持ちで出発した。
昨日の雨はもう止んでいたが、空はどんよりと曇り、風は湿って冷たかった。具合の悪そうな子供たちも数人いて、荷台の上で惨めな表情をしながらじっと耐えている。誰の顔にも血の気があまりなかった。
レーナに教わった目印を頼りに、太陽が見えず方角も分からない中、一行は無言で進み続ける。でこぼこした荒れ地のぬかるみに荷車がはまらないよう、ネリスが馬を導いていたが、それでも決して楽な道程ではなかった。
やがて、はるか左前方に丘が現れた。てっぺんに小さく神殿の影が見える。
「ウィネアだ」
イグロスが深い吐息をもらし、ささやいた。丘の南側斜面から、麓を流れるポル川にかけて、州都ウィネアの街が広がっている。北にいる一行からはその様子は見えなかったが、自然の丘にごちゃごちゃとくっついた城壁や神殿の影を目にしただけで、ようやっと人間の領域にやってきたという安堵が湧いてきた。テトナではぬか喜びに終わったが、よもやウィネアも同じということはあるまい。
ウィネアのある丘までは、視界を遮るものはほとんどない。ごく緩やかな小さい丘をいくつか越えるだけだ。
「面倒なのは何にもいねえようだな」
ホッとした様子でイグロスが言い、フィンもふうっと息を吐いた。
「ええ。きっと盗賊ではなく難民で、俺たちより先にウィネアの街に入ったんでしょう」
良かった、とオアンドゥスとファウナが笑みを交わし、マックや子供たちの表情もようやっと少し緩んだ。
――が、しかし。
「ネリス?」
妹の険しい表情に気付き、フィンは眉を寄せた。ネリスは馬の引き綱を持ったまま、不安げに辺りを見回している。
「……いるよ。よく分かんないけど、多分、人がいる。嫌な感じがするの」
「止せよ、ガキどもが怖がるだろうが」
イグロスが即座に否定した。一人先に立って歩きながら、馬鹿馬鹿しい、と両手を広げる。
「何の物音も聞こえねえし、轍や蹄の跡もねえ。だいたい、州都の目と鼻の先だぞ? 軍団兵が見回ってるところに、盗賊なんか出てくるもんか」
「イグロス、待て!」
思わずフィンは命令口調で叫んだ。彼が一人どんどん先に行ってしまうのが、あまりに無用心に思えたのだ。だがその声が、イグロスの機嫌を損ねた。
「あぁ? 俺に命令しようってのか、小僧。いつの間にそんなに偉くなったんだ? ナナイスじゃ獣にびびって小便漏らしてやがったくせに、外に出た途端に司令官気取りかよ、笑わせるぜ。ここまで来られたのだって、おまえの力じゃねえんだからな。勘違いするなよ」
「そんな事は分かってる!」フィンはカッとなって言い返した。「あんたこそ分かってないんだ、ネリスの感覚を信じた方がいい!」
「うるせえ、おまえらご家族にいつまでも付き合ってられるか!」
イグロスは後ろを向いてフィンに怒鳴りながら、憤然と斜面を登っていく。その体が稜線の上に出た直後、
「うあッ!?」
叫びと共にのけ反り、斜面を転がり落ちてきた。
「イグロス!」
反射的にフィンが駆け寄る。同時に、丘の向こうからわあっと荒々しい声が上がった。イグロスは左肩に刺さった矢を引っこ抜き、呪詛と罵声を立て続けに吐き捨てる。マックが子供たちを荷車の下に隠れさせ、オアンドゥスが棍棒を取って身構える。
入り乱れる足音と金属の触れ合う音が、丘を越えて来た。続いてその実体が現れる。十数人の男たちが、斧や棒や剣を振り回し、雪崩を打って攻め寄せた。
フィンとイグロスは剣を抜き、荷車のところまで駆け戻る。
「おじさんはマックと後ろ側を!」
フィンの指示に、オアンドゥスは一瞬顔をしかめたものの、無言で従った。前面にはフィンとイグロスが立ち、荒くれ者たちに向かい合って剣を構える。交渉だのなんだのと言っていられる余地などなかった。
振り下ろされた斧を避け、フィンは素早く剣を突き出した。手応えを感じるとほとんど同時に捻って引き抜き、横から突き出された棒を払う。馬が恐怖にいななき、子供たちの悲鳴と泣き声が、刃の音に重なる。フィンは後ろが気になったが、目を向けることは出来なかった。
(斬るのではなく、突け)
兵営で剣術を教えてくれた男の声が、脳裏で静かにささやく。
(振りかぶるな、動作は無駄なく小さく、素早く)
また一人、突き刺して引き抜く。足元に死体が折り重なって、動きにくい。
(獣が相手の時は逆だ。なぎ払い、弾き返せ。だが敵が人間なら――)
斬りつけてきた剣を受け止め、その力を逸らして流し、敵の動作を支配する。目の前に迫った男の顔に、フィンは思い切り頭突きをくらわした。歯が折れる音。呻いて男がよろけた隙に、素早く一突き。
三人倒したところで、急に視界がすっきりした。早々と逃げ出した背中が見える。一瞬そちらに気を取られたせいで、足元の死体につまずいた。
「あっ!」
倒れかかったフィンに、好機とばかり新手が襲いかかる。が、その脇腹に横から飛んできた剣が刺さった。
どうっと横ざまに男が倒れる。フィンはかろうじて体勢を立て直し、命を救ってくれた剣を引き抜いた。
「イグロス!」
隣にいるはずの彼に返そうと、剣を差し出す。だが、そこにイグロスの姿はなかった。ぎょっと目を剥いた瞬間、槍の穂先が迫る。危ういところで避けたが、左頬が少し裂けて血が噴き出した。
無意識にフィンは叫び、激しい怒りをこめて、二本の剣で槍の持ち主を攻めた。槍使いはたじろぎ、後ずさりながら弱い突きを繰り出す。その柄を、フィンは力任せに叩き折った。木っ端が飛び散り、男は武器を手放して逃げようとする。だがその喉元にフィンの剣が喰らいついた。
ごぼっ、と妙な音を立て、男は最後の呼吸をして、くずおれる。
フィンはそれを見届けもせず、男の体を蹴り飛ばして周囲を見渡した。
――戦闘はそれで終わりだった。
予想外の反撃に慌てた盗賊は、既にあらかた逃げてしまっていた。荷車のまわりには死体が転がっていたが、全部で十人いるかいないかだ。フィンが殺したのは四人。
「イグロス……?」
肩で息をつきながら、フィンは呆然と呼んだ。ようやく興奮が引き、痺れていた感情と理性が戻ってくる。
「イグロス! ネリス、おじさん、皆! 生きてるなら返事をしてくれ!」
叫びに応じて、弱々しい声がいくつも上がった。
「あたしはここ」ネリスの手が、倒れた馬のそばで上がった。「無事だよ」
続いてオアンドゥスとファウナ、子供たちが荷車の陰から姿を現す。
「俺はここだ」
最後にイグロスのか細い声が、フィンの足元で聞こえた。フィンは慌ててしゃがみ、盗賊の死体を乱暴にひっくり返す。下から、土気色になったイグロスの顔が現れた。
「イグロス! ああ、くそっ」
罵り、フィンは剣をその場に放り出して、イグロスの体をあらためた。服が盗賊の血を吸ってぐっしょりと黒く染まっていたので、本人の傷がどこなのかは、脱がせなければ分からなかったのだ。
胸当てを外して上着をはだけた瞬間、フィンの顔が歪んだ。イグロスは既にそれを見てもいない。灰色の空に虚ろな目を向けたまま、彼はかすれ声を漏らした。
「ファーネイン……頼む……」
「しっかりしろ、あんたはこんな所で死ぬような奴じゃないだろう! くそっ……、助けないって言ったくせに、なんで……!」
「うるせえ……成り行きだ、馬鹿」
毒づく声が、もうほとんど聞き取れない。唇がもう一度、姪の名を呼ぶように動いたが、それっきりだった。
光の消えた目に、フィンはそっと瞼を下ろしてやる。悔し涙が溢れたが、彼は強引にそれを拭って立ち上がった。
沈痛な面持ちの一同を見回し、フィンは必要な言葉をなんとか押し出した。
「何が出来るか分からないが、怪我の手当てをしよう。無傷の者はいるか?」
見回すと、ネリスが手を挙げた。編んでいた髪がほどけてぐしゃぐしゃになり、上着の袖が裂けているが、こわばった顔にはまだ気力が残っている。続いて数人、子供が手を挙げた。
「よし、おまえたちは使えるものを探してくれ。こいつらが水筒を持っていたら、中身が水でも酒でもいい、傷口を洗うんだ。ネリス、頼む」
フィンの指示に従い、ネリスが子供たちを連れて仕事にかかった。まずは自分達が持ってきた水で無事だったものを使い、重傷の者から手当てする。筆頭はオアンドゥスだった。右手の指を落とされてしまったのだ。
フィンは死体を検分し、役に立つものはないか探した。追い剥ぎから盗むことに、一瞬だけ皮肉な思いを抱いたが、それが笑みの形になって浮かぶ事はなかった。
馬は一頭が奪われ、一頭が殺されていた。むろん盗賊も、殺すつもりはなかったのだろう。だが混乱の中で槍が刺さり、そのまま息絶えていた。子供の数も、よく見ると足りない。ただ幸いなことに、ファーネインは無事だった。
マックは腕や肩に切り傷をいくつか負っていたが、どれも浅手だった。壊れた荷車に腰を下ろし、青白い顔で茫然としている。
「何人、連れて行かれた?」
フィンが問うと、マックの目からぽろりと涙がこぼれた。
「分からない。でも、いないのはノーテとスタウと……」
一人一人の名前を挙げ、マックは指折り数える。五人まで数えたところで、彼はその手を拳に握り締めた。子供の死体はなかったので、全員、逃げたか連れ去られたかだろう。奴隷としてこき使われるか、慰みものにされるか、売り飛ばされるか――彼らの運命を思い、フィンは瞑目した。
「……フィン兄のせいじゃないよ」
しばしの沈黙の後、マックが言った。不意を突かれてフィンはその意味がすぐには分からず、目をしばたたく。それから、少年の思いやりに気付いて、力なく微苦笑した。
「気を遣わなくていい。俺は俺に出来る限りの事をした。だがそれでも、イグロスや五人の子供たちに対して責任がないわけじゃない」
「フィン兄……」
「おまえも結構やられたな」
フィンはマックの前髪をかきあげ、額にできた痣をそっと手で覆った。ふと、レーナの手のように、この手にも傷を癒す力があればいいのに、と考える。
「お兄だって結構ひどいざまだよ」
と、いきなりネリスに声をかけられ、フィンは驚いて振り返った。ネリスが水筒と布きれを手に、仁王立ちしていた。
「あーあぁ、もう、ただでさえ墓石みたいな顔なのに、こんなとこに傷こしらえちゃってさ。知らないよ、本当にもう……」
ぶつくさ言いながら、ネリスは濡らした布でフィンの左頬を拭く。乾きかけていた傷をこすられて、フィンはその時になって初めて痛みに怯んだ。
「ほかに怪我してない?」
「ああ、多分……ない。大丈夫だ」
答えながらフィンは改めて自分の体を眺め、腕や肩を回して支障ないことを確かめた。返り血で衣服は汚れたが、自分が負ったのは頬の傷だけだ。
「強いんだね、フィン兄」
マックが惚れ惚れと感心したもので、フィンはばつが悪くなって身じろぎした。
「運が良かっただけさ。イグロスがいなかったら……きっと死んでいた」
「…………」
マックとネリスは黙り込み、置き去りにされているイグロスの遺体をちらと見やった。
「それでもさ」ネリスが気を取り直して励ます。「思ったより善戦したじゃない。お兄がこんなにまともに戦えるなんて、知らなかったよ。ちょっと見直した」
「そうだな。自分でも少し……驚いた」
フィンは苦笑し、自分の手に目を落とした。
最後に男を倒した時、あそこまでしなくても良かったはずだという思いが、今更ながらじわりと苦く沁みてくる。あの槍の男がイグロスを殺したのかどうか、判らない。殺したのだとしたら、敵討ちという言い訳も立つが、どちらにせよ最後の瞬間、相手は逃げようとしていたのだ。武器を折られ、もはや戦意をなくして。
とどめを刺さなくても逃げただろう。ましてや、遺体を足蹴にして剣を引き抜く必要などなかった。盗賊相手に哀れみなど感じはしないが、やりすぎた、という後悔は残る。荒々しい本能的な怒りに身を任せてしまった。
「フィン兄?」
心配そうな二人の声に、フィンは顔を上げ、なんでもないというふりで笑みを作った。
「大丈夫だ。あと少しだからな。手当てが済んで休憩したら……イグロスの遺体ぐらいはちゃんとしてやろう。それから出発だ」
フィンは立ち上がり、がらくたと化した荷車を軽く叩いた。
(気をつけなければ)
命がかかっているとはいえ、心が荒むに任せては、兵営での二の舞だ。ただの荒くれ者と同じに成り下がってしまったら、ネリスやマックたちを守って行けない。
フィンは深く息を吸い、空を仰いで目を瞑った。顔に光を感じるのは、雲で隠されていても、太陽が確かにそこに在るからだ。忘れてはいけない。
(いつかは雲が晴れる。たとえ晴れなくても……大切なことは消えてなくならない)
昨夜のレーナの声が聞こえるような気がした。同時に、雲の切れ間からまばゆい光が降り注ぐ。子供たちが、わあ、と感激の声を上げた。
ほんの短い間ではあったが、その光は皆に希望を与えてくれたようだった。