序・一章 (1)
本編中で出す機会のなかった“黄昏の生き物”について、3万字程度の短めの話。
蛇足的な内容ですので、本編がすっきり終わっているから余計な付け足しは要らないと感じられる方は、外伝は捨て置いて下さいませ。
時期は本編完結から5年後です。
ゆっくりと陽が沈む。
畑も森も、泥壁の家も、すべてが黄金に染まり、紫根の濃淡が影をつくっている。野良仕事で一日中うつむいてばかりいた顔をも上げさせ、世界の美しさを思い出させる、束の間の奇跡。
だがその只中に佇む少年の心には、何も響かなかった。
森の彼方、連なる丘の稜線が成す地平線に光の円盤が接し、潤んで熔けるのも。
そよぐ風にどこからか仄かな花の香がまじり、甘い優しさで頬をくすぐるのも。
家々から聞こえる夕餉の支度をする物音、飢えを満たしてくれる麦粥の匂いも。
――疲れた。
少年の口から、長く深い息がこぼれる。村外れ、森と畑地の境に立ったまま、彼は両手をだらりと落とした。一日かかって集めた柴の束が地面でほどけ、貧相な小枝が散らばる。
――いつまでこんな事をしなけりゃならないんだろう。
畑を耕し水をやり、後から後からわいてくる虫を取っては潰し、アヒルや牛に餌をやって。ようやく手に入れた実りは、あっという間に皆の腹に消えていく。
それでも毎日せっせと働いている両親を見ていると、怠けてはいられないと思う。
思うが、しかし、こんな夕暮れにはふと虚しくなってしまうのだ。こうして蟻のように地を這いながらあくせく生きて、自分達にはその先、何があるのだろう、と。
――父さんも母さんも、きっと今のまま死ぬのに。
何も変わらず、変える事もなく。面白い事や胸躍る出来事に関りもせず。ただ無為に生きて、死ぬ。
少年のまだ若い瞳でも、長い人生の先まですっかり見通せるような気がした。灰色の道を歩んでいく己の姿までを見てしまい、失望に気が遠くなりかける。
(もういっそ、出て行こうか)
不意に、そんな考えが頭の中で明瞭に形作られた。
少し北の方に近頃また、野盗が現れたらしい。彼は覚えていないが、自分がまだうんと幼い頃、この辺りにはいくつもの盗賊集団がはびこっており、少しでも畑に何かが実ればすぐさま奪い取られていたのだという。
こんな毎日をただ繰り返すぐらいなら、いっそ奪う側になれば、楽に生きられるのではないか。わくわくする刺激的な日々を送れるのではないのか。
村に、家族に、畑に縛られて這いずっている惨めな自分には、もううんざりだ。
(ああ、何もかも嫌になる……)
疲労と悲嘆に顔を覆い、重いため息を吐き出した、その時。
「いらないの?」
舌足らずな幼子の声が、どこからともなく聞こえた。
少年がぎょっとなって顔を上げた瞬間、
「いらないなら、ちょうだい」
甘い痺れを伴って、一切の感覚が途切れた。
一章
天竜侯の自宅に東部司令官ヴァルトからの横柄な呼び出しが届いたのは、エルファレニア共和国が建国を宣言してから五年目、公用暦一〇九五年の春だった。
「相変わらず汚い字だな……」
内容よりもまずそのことに顔をしかめ、フィンは明るい場所に移動しつつ手紙を広げた。
彼がかつて山賊集団を駆逐した一帯から街道を南東へ進むと、帝国時代の州都ムルキアに達する。ヴァルト率いる東部軍は、荒れ放題だった都を少しずつ再建し、そこに腰を据えて、丘陵や草原から隙を窺うドルファエ人部族に睨みを利かせていた。
とは言え実際には、まだマズラ地方全体が貧しく、ドルファエ人が略奪したくなるほどの富はない。もっぱら東部軍の仕事は、領内の治安回復と土木工事である。
そんなわけであるから、呼び出しの内容もやはり、その関係であった。
「盗賊か」
のたくって逃げ出しそうな文字を追いかけて読み解き、フィンは難しそうにつぶやいた。
最近また領内の一部で野盗が活発化しているという。その討伐に来い、という要求だ。どうやら兵士だけでは手が足りないらしい。
ナナイスも決して人口が多いわけではないから、部隊をもうひとつ寄越せ、という内容でなかったのは幸いだ。ヴァルトもその辺りは心得ているらしい。それにしても、仮にも竜侯に向かって『てめえ一人で用は足りるからすぐ飛んで来い』はないだろう。
まったくもって、人にものを頼む態度ではない。
でもヴァルトだから仕方がないな、とフィンは微苦笑しつつ手紙を畳む。しばらくナナイスを離れられるかどうか頭の中で予定を調整していると、レーナが嬉しそうな声をかけてきた。
〈ヴァルトさんに会いに行くのね?〉
ああ、と心の中で短く肯定し、フィンは口元をほころばせた。彼女が何を喜んでいるのかが分かったからだ。
〈ヴェーラも大きくなってるだろうな〉
〈うふふ、楽しみね!〉
ヴァルトの愛娘の名を出したフィンに、レーナも声を弾ませる。以前一度だけ妻子連れでナナイスに来た時には、ほんの赤ん坊だったが、きっともうよちよち歩いているだろう。
フィンは懐かしさと期待を抱いたが、すぐに冷静さを取り戻して表情を改めた。
〈それにしても、ヴァルトがてこずるなんて、随分厄介そうだな〉
軍団兵としてテトナにいた頃のヴァルトは、先の妻子の仇討ちのため野盗狩りに人生すべてを捧げる勢いで駆け回っていたという。そんな熟練者である彼が応援を要するとは、何があったのだろうか。
まあ、彼もそろそろ五十歳、流石に少々衰えてもいるのだろう。
――などと、本人に聞かれたら確実に全力の拳骨を頂戴する失敬な憶測が浮かんだが、だとしてもやはり心配ではある。本人が出ずとも、経験を基に指揮を執って若手を働かせれば良いのだから、体力が落ちていてもあまり関係は無いはずだ。
フィンは無意識に手紙を指で軽く弾きながら、関連各所に東行を告げるため歩き出した。
湿った生温い風に土と新芽の匂いが満ち、その上に家畜小屋や食べ物やあれこれの匂いが重なる。人の住む土地が近いしるしだ。
フィンはムルキアの郊外に降りると、普通の旅人のように徒歩で町へ向かった。肩には使い込んだ背嚢がひとつ。直接兵営に降りなかったのは、目立ちたくなかっただけでなく、周辺の様子をしっかり見ておきたかったからだ。
通常の視界に竜の視力を重ね、道を歩きながら一帯を見渡す。ヴァルトが頑張っているおかげで、北部の東西を結ぶ幹線道路は補修が進み、交易商人も少数ながら活動を再開している。
〈盗賊が出るなら街道沿いだと思うんだが……この辺りには見当たらないな〉
〈そうね。町の人達も落ち着いているみたいだし、特に危ない様子はないけれど。ヴァルトさん、フィンに会いたくなっただけかしら?〉
〈まさか〉
思わずふきだしかけ、フィンは慌てて口を引き結ぶ。やや気を楽にしつつも、怠りなく注意を配りながら、古い市門をくぐった。衛兵は二人いたが、どちらも大して警戒している様子はなく、フィンが門の脇の木箱に通行税の小銭を落とすと軽くうなずいて通してくれた。
ちなみに通行税はごくわずかで、市の住民であることを証明する札を持参していれば無料だ。城壁補修などの財源は必要だが、まずは産業振興、人集め優先、というわけである。
その甲斐あってか、市内はなかなか賑わっていた。露店が並び、商品を満載した荷車がガタゴト行き交い、あちこちで工事の物音が響く。疲れた顔、明るい笑顔、値段をめぐって丁々発止の駆け引きをする真剣な顔。様々あるが、不安と恐怖に怯える顔だけはない。
ただ、町並み自体はナナイス以上に鄙びた雰囲気だった。大通りのほかは舗装があちこち剥げたままで、古く傷んだ建物と、集会所など新しくしっかりした建物、それに泥壁の粗末な民家が入りまじり、身を寄せ合っている。
しばらく歩いて兵営に着くと、フィンはそこらにいた若い兵士をつかまえ、ヴァルトに取次ぎを頼んだ。最初はきょとんとした兵士が、天竜侯フィニアスの名を聞いて飛び上がらんばかりに驚いた。
「わっ……し、失礼しました、閣下!」
背中に棒を投げ込まれたように姿勢を正して敬礼し、勢い余って倒れかける。フィンは苦笑しながら敬礼を返した。どうやらこの兵士はフィンの姿を近くで見たことがなかったらしい。目立つ神剣にも今は覆いをかけているので、判らなくても無理はない。
「こちらこそ、予め知らせずに失礼しました。司令官はどちらに?」
「あ、その、えっと! きょ、本日はっ、午前中、北側の巡察部隊を指揮していま、いられ、ます!」
青年は敬礼した手を下ろさぬまま、顔を上気させて答える。フィンは笑いを堪えてややこしい顔になった。
「そうですか、戻るのはまだしばらく先ですね。では適当に兵営内で時間を潰していますから、私が来ている旨、司令官室に言付けて貰えますか」
「はっ、はいっっ! あの、よ、良ければ俺、いえ私が、ご案内しますが!」
「お構いなく。連絡だけ済ませたら仕事に戻ってください」
やんわりながらもはっきり断られ、青年兵士は見るからにしょげてしまった。しおしおと建物に入っていく後ろ姿を見送り、フィンはやれやれと息をつく。
竜侯である彼は、軍人の位は持たない。政治権力と同様、兵権もまた放棄したのだ。にも関らず、共和国天竜軍は暗黙のうちに彼を頂点に君臨する存在とみなしている。もしも追い詰められた状況でフィンがちょっとでも口を出そうものなら、全ての兵が上官を無視してフィンに従うだろう。
(イスレヴ殿に模擬戦でこてんぱんにやられていたのに、冗談じゃないな)
流石にこのままではまずいという自覚があるので、フィンは暇を見つけて少しずつ軍事についても勉強しているが、自分が軍を動かせるとは思っていなかった。
人間のままであったなら、軍団に入り、上官に従い、いずれ少しは昇進して一部隊を指揮するぐらいにはなったかも知れない。だが今はそれさえも望まなかった。命や人生に対する感覚が、以前とは違ってしまっているのだ。
だから、本当はあまり兵営に近付きたくはなかった。剣の技を磨くことは今でも好きだが、それとは全く別の問題だ。
彼は小さく頭を振ると、当て所なく歩き出した。建物には入らず、教練場も避けて、ゆっくり庭の縁を回っていく。
兵営の敷地内には兵舎や武器庫といった軍事に直結する施設だけでなく、医務室や娯楽室、食堂や厨房、また膨大な量の洗濯物を毎日処理する洗い場など、生活に必要な施設が揃っている。そこでは、兵士以外の人間が大勢働いていた。
住み込み従業員のための宿舎から、小さな子供の声も聞こえてくる。パンパン、と布を振り広げる音が聞こえてそちらに目をやると、張り巡らされた紐にずらりと干された衣服の向こうで、当番らしき兵士数人が最後の一枚をかけるところだった。
やれやれ終わった、と談笑しながら、兵士達が空になった籠を手に去っていく。フィンはちょっと微笑み、それからふと視線をずらして、まだ洗い場に屈みこんでいる人影を見つけた。
どうやら女らしい。自分達の汚れ物を片付けているのだろう。フィンは何の気なしにそちらへ歩いて行った。ざぶざぶと桶の中で濯がれる何枚もの布に加え、まだ手付かずの汚れ物が詰まった籠が三つばかり。
(赤ん坊のおむつか。一人分だけじゃなさそうだな)
フィンが納得したのと同時に、建物の中からむずかる泣き声がして、女が疲れた顔を上げた。そして初めてフィンに気付き、ぎょっとする。
「どちらさん?」
警戒すべきか、愛想よくすべきか、女は曖昧な態度で問いかける。その手はあかぎれで真っ赤になり、あちこち血がにじんでいた。フィンは背嚢を滑らせて地面に下ろし、袖まくりをしながら洗い場に近付く。
「代わりましょう。洗って、そこに干しておいたらいいんですね?」
「え? あの、ちょっと」
「司令官が帰るまで待たされているんですよ。暇なので、手伝わせて貰えませんか」
「でも……」
「泣いてますよ、行ってあげて下さい。あなたも少し休んで」
赤ん坊の声が次第に大きくなる。フィンが苦笑しつつ視線で建物を示すと、女は困惑顔のままだったが、それじゃあ、とうなずいた。
「悪いけど、お願いね。洗濯板の使い方、分かる?」
「慣れてます」
フィンは応じて石鹸を取り、洗い桶の前で戦闘配置についた。手つきに迷いがないのを見て女も納得したらしく、ほっと笑みをこぼし、小走りに赤ん坊のもとへと急ぐ。
汚れ物の籠と一緒に残されたフィンは、その量と手の中の石鹸を見比べた。
「足りるかな……。まあ、出来るだけ片付けるか。よし」
気合を入れて無心に洗い続けているうち、泣き声はいつの間にか小さくなっていた。代わって窓からこぼれてくるのは、微かな子守唄。優しい声に、フィンのみならずレーナも彼の意識を通じ、幸せそうに耳を傾ける。
しばらくかかっておむつや産着を全て洗い終えた時には、石鹸はずいぶんちびていたが、なんとか生き残っていた。
きれいになった洗濯物を一枚一枚広げて干していくと、気分まですっきりする。
フィンが機嫌良く作業を続けていると、背後から足音が近付いてきた。誰かはすぐに分かったが、先に片付けてしまおうと、彼は振り向かずに手を動かし続けた。




