企画SS2編
『石像』と同じく、辞書からお題を拾って内容や人物の指定を頂いて書いたSS。短いので1頁にまとめました。
『血染め』(人物指定なし)と『透き通る』(指定:フィン&竜侯)の2編です。
【血染め】
ウィネアの兵営に入るのは、随分久しぶりのことだ。
フィンは何度か訪れたことのある司令官室を、初めて見るかのような感覚でゆっくりと眺め回した。ディルギウスに怒鳴られ、アンシウスに再会した同じ部屋。だがもう今は、それを思い出させるものは少なくなっている。
帝国が北部を絶縁した後しばらくして、第八軍団はウィネア軍と名を変えた。内実はほぼ帝国時代のままではあるが、都市がひとつの独立国家となった以上、組織の目的や存在意義はもちろん命令系統なども微妙に変化し、装備品の類もすべてが刷新された。
士官の階級をあらわす兜やマントも、軍団旗も司令官杖も、すべて帝国のしるしは取り除かれた。北部に伝わる古い英雄譚が息を吹き返し、新しい軍団旗では狼が吼えている。
「待たせたな」
続き部屋から司令官が戻ったことに気付き、フィンは姿勢を正して向き直った。アンシウスだ。すっかり髪が白くなり、表情も穏やかに落ち着いている。
「すまないが、ヴィトスが来るまでもうしばらくかかりそうだ。呼びにやったが、まだ兵士連中とじゃれているらしい。掛けてくれ」
椅子を示されて、フィンは会釈してから腰を下ろしたものの、気分は妙に落ち着かないままだった。身じろぎしながら曖昧な表情で話しかける。
「本当に退官されるんですか」
「冗談で竜侯閣下を煩わせたりはせんよ。私ももう歳だ、軍団の訓練に最後まで付き合っていられん程に衰えた。認めたくはないがな。まぁ、そうは言ってもまだ当分は政治に首を突っ込んで、うるさい年寄りの役目を果たすつもりでいるが。ヴィトスがここに座るのも、もうじきだ」
アンシウスは微苦笑し、司令官の椅子を叩いてから、慣れた動きで座った。
都市国家ウィネアを動かすのは、かつての帝国の流儀と同じく議会である。司令官の地位も議員らによる選出だ。とはいえこの十年余りは、当然のようにアンシウスが任じられてきた。悪名高い前任者ディルギウスが死んでからずっと。
あの司令官は怒鳴っているところしか見なかった、とフィンは思い出しながら、室内の一点に視線を向けた。アンシウスもそれを追い、ああ、と微かに嘆息する。
横手の壁際に設えられた棚に安置されているのは、旧い軍団旗と司令官杖。
旗も杖も汚れ、破損し、そして――黒茶けた色に染まっている。知らなければただ汚いだけの、血の染みだ。
「……ヴィトスが、あれもきちんと引き継いでくれたら良いのだがな」
ぽつりとアンシウスがつぶやいた。フィンは応じる言葉もなく沈黙する。
暗く深く憎悪に満ちた闇に囲まれ、吹雪の山中で大勢が死んだ。すべては司令官の愚かしい暴挙のゆえに。
「あの場にいた兵の一部はまだ現役だが、あと五年もすれば大半が入れ替わってしまうだろう。司令官の専横を許し暴挙を諌めなければどうなるか、教訓を忘れずにいてもらいたいものだ。幸いにしてヴィトスは、私が何度同じ話をしても、またかという顔はせずに傾聴してくれるがな」
アンシウスは自分で言って肩を竦め、ふとうつむいた。しばしの沈黙の後、彼はフィンに視線を戻して唐突な言葉を口にした。
「すまなかった」
「……?」
いったい何についての謝罪か分からず、フィンは戸惑い顔になる。アンシウスはそこに昔の面影を見出そうとするように、すこし目を細めた。
「君が初めてこの兵営に来た日の事を、今でも時々思い出すよ。急に時が戻ったように、全身ぼろぼろの汚い格好をした青年が目の前にいる気がするのだ」
アンシウスの告白に、フィンは驚きを禁じえなかった。あの日のことなど、アンシウスはもう忘れたろうと思っていたのだ。会ったという事実は覚えていても、フィンがどれほど追い詰められていたか、汚れ、疲れ果て、救いを求めて縋りつき振り払われて絶望したか、そんな事などアンシウスの方では気にも留めていないだろうと。
正直にその思いを顔に出したフィンに、アンシウスは苦い笑みを浮かべた。
「そうだな、あの日の私の対応からして、私がまったく何の痛痒も感じることなく君を追い払ったのだと思われても、致し方あるまいな。実際私も、最初から君を助ける気などなかった。同情して話を聞いて、ちょっと慰めて帰らせてしまえと、それだけだった。だが……」
そこで彼は一旦言葉を切り、唾を飲んだ。もう随分と昔の出来事であるにも関らず、いまだ胸につかえているかのように。
「君は、笑ったな。またナナイスまで帰るかと私が問うた時、その浅はかさを、無知と偽善を、痛烈に笑った。いや、君に侮辱の意図があったと言うのではないよ。だがあの時、君に笑われたことで私は理不尽にも怒りと屈辱を感じた。皮肉な話だが、だからこそ今でも鮮やかに覚えているのだろう。……何度も、詮無いことと知りながら考えてしまうのだ。あの日、君の話を真面目に受け止め、どうしようもないと最初から投げてしまわず、ディルギウスをどうにかしていたら」
悔恨の痛みに声が震えたのを隠すように、彼は口をつぐみ、フィンから目を逸らして血染めの軍団旗を見つめた。
もしもあの時、違った行動を選んでいたならば。
今頃あそこにあんな物が置かれることもなく、大勢の兵士が命を永らえていただろうに――。
深い自責と後悔の海に沈んだアンシウスに、フィンは静かに言った。
「私もそれは何度も考えました。あなたがもっと早くディルギウスを蹴落としてくれていたら、と。ですが、あの時点でディルギウスを失脚させようとしたらウィネアがひっくり返るような騒ぎになったでしょうから、やはり多くの人が巻き込まれて亡くなったでしょう。どちらがましだったか、試してみることが出来ないのだから比較のしようもありません。一度通り過ぎた選択は、二度とやり直せない。だから……せめてああして教訓を残し、後の人が同じ失敗をしないように祈るだけです」
迷いなく言い切ったフィンに、アンシウスは少し寂しげな微苦笑を見せてうなずいた。
ああするしかなかった、仕方がなかった、と容認するのではなく、もうそれは取り返しがつかない、と突き放す。冷たくも聞こえるその割り切り方は、しかし、過去ではなく未来を見ているがゆえなのだろう。
「そうだな」
ほとんど声にならないつぶやきに、廊下をやってくる快活な足音が重なる。アンシウスは無意識に目元を和らげ、扉を見やってもう一度、今度は深くうなずいた。
あの足音も、同じく未来へと向かっていく。己はこれから道を譲り、その背中を見守ることになるのだ。ならば――
「司令官、ヴィトス=ナシアス参りました」
「入れ」
応じた声の力強さに、フィンが首を傾げて目をしばたたく。アンシウスはにやりと意地の悪い笑みを浮かべ、小声でささやいた。
「前任者の責務として、最後にうんと長い記録的な説教を聞かせてやるとしよう。フィニアス、もちろん君も付き合うのだぞ」
(終)
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【透き通る】
緑の梢を通して降り注ぐ柔らかな光が、水の匂いを包み込む。
空気だけで心身のすべてが満たされていくようで、フィンは深く息を吸って瞑目した。大森林の中でもさらにこの結界内にある巨樹は一本一本がどっしりとした佇まいで、意識や知性が宿っているようにさえ感じられるが、それも不思議ではなかった。
じっと目を瞑ったまま立っていると、己までがそうした樹木の一本に変化していくような気がしてくる。土に根を下ろし、この濃密な空気をただひたすら静かに呼吸し続ける、その幸福な誘惑に魂を奪われそうになる。
フィンは目を開き、己の想像に苦笑した。人が木に変わるなんて、御伽噺だ。――が、しかし、オルグの竜侯が支配するこの領域でなら、それもあるかも知れない。
「フィン兄さん、お待たせ」
若い娘の声に呼ばれて気を取り直し、フィンは振り向いた。ファーネインだ。小さな麻袋をいくつも載せた笊を持っている。フィンが歩み寄ると、彼女はそれを一旦手近な岩の上に置いた。
「さっき言ってたような場所なら、これとこれ辺りが良いんじゃないかしら」
言いながら麻袋の口を少し開いて中身を見せる。草木の種子がザラリと音を立てた。ファーネインはひとつずつ、何と何の種が入っているのか、どれを先に蒔けば良いかを説明していく。
フィンは麻袋の口を縛って自分の背嚢に移しながら、ファーネインに礼を言った。
「色々気を遣って貰ってすまないな。皆も感謝してるよ、オルグの巫女様」
おどけて大仰な呼称を使ったフィンに、ファーネインは苦笑で首を振った。
「感謝しているのは私の方もよ。フィン兄さんのおかげで、フィダエ族やエイファネスの知恵と技をこうしてディアティウスのあちこちで役立ててもらえるんだもの。こんなにまめな竜侯様がいなかったら、私だけじゃ皆も協力はしてくれなかったわ」
荒廃した大地を癒す為に、ファーネインは大森林と外界の橋渡し役となって様々な種子や苗を用意し、フィンがそれを各地に届けているのだ。時にはファーネイン自身が出向いて作業を行うこともあり、ウティアから授けられたささやかな力を用いて芽吹きや根付きを早めたりもした。
知識と力に加えて、常人とは異なる歳月の過ごし方をしたファーネインは捉えどころのない雰囲気を纏っており、いつしか人々から『オルグの巫女様』として敬われるようになっていた。
とは言っても、フィンの知っている幼い少女の面影が完全に消えたわけではない。フィンが昔の癖のまま軽く頭を撫でると、くすぐったそうに含羞の笑みを見せる。
フィンは彼女のそんな様子を確かめてから荷物をまとめ、ふと木立の間に視線を向けた。
「ウティア様がいらっしゃるみたいだな。お礼を言ってくるよ」
普段は結界の奥深くに引っ込んだきりの竜侯だが、たまに集落の方にも姿を現す。竜の知覚でそれを察したフィンは、あまりない機会だからと直接謝意を伝えに向かった。
しっとりと柔らかい苔を踏み、巨樹の根をまたいで、緑の神殿の奥へと進む。空気がより濃くなり、樹々の意識が圧しかかるほどに強まる。
ややあって、淡い緑の光がフィンの感覚を覆い尽くすように拡がってきた。我知らずフィンは息を止め、目を細めて行く手を眺めやる。
一本――否、一柱と数えるに相応しい巨樹の根元に、小さな人影があった。
その身体を包む緑の光が、巨樹を取り巻いて昇り、梢を伝って森の天蓋へ溶け込んでいる。巨大な竜の姿はもう、輪郭など捉えられない。
どこまでも透き通った光だけが、時の狭間にあるがごとく微かに揺らめいている。
その力と存在の大きさに圧倒されていたフィンは、反らせた首を下ろして竜侯その人の姿を目にした瞬間、我に返った。
透けていく。黒髪も、模様織の衣服も、緑に染まって――
「ウティア様!」
叫びが口をついた。
声は石となり、時の水面に映る影を乱す。光が揺れて消え、ウティアがゆっくり振り向いた。
「……ああ、天竜侯か」
オルグの竜侯は何事もなかったように、柔らかく穏やかに微笑む。フィンは曖昧な表情で目礼した。
助力に礼を述べ、どうかこれからもお願いします、と頭を下げて。
別れ際、振り向くとやはりウティアは大樹の根元にいて、同じように微笑んでいた。もう消えてしまいそうには見えなかったが、しかし、竜の気配がうっすらと大気に漂いながらその時を待っているのが感じられて、フィンは胸奥のざわつきから逃げるように早足になった。
竜が本来は地上の生き物ではないように、竜侯もまた、いずれあのようにして地上を去るのかもしれない。すっかり透き通って、影さえも残さず。
(いつかは)
そんな言葉が脳裏に浮かび、彼は立ち止まって頭を振った。
まだだ。まだ、ずっともっと先のことだ。
強いて否定しながら、彼は同時にほろ苦い笑みが浮かぶのを禁じえなかった。
出来るだけ長く人間でいたいと願いながら、しかし、“その時”の誘惑はただひたすらに甘美で幸福で、哀惜の欠片も感じられない。
(やっぱり、俺はもう竜侯なんだな)
この地上からいつか去る事を思っても胸が痛まないのは、そういうことなのだろう。今はまだ変わってしまった己を自覚することが出来ても、いずれそれすら分からなくなる。そうして、先ほどのウティアのように消えてゆくのだ。
フィンは木立の奥を振り返ってから、深く長く息を吐き出した。この森で吸い込んだ一切を、そこへ捨てていこうとするように。
息を吐ききってなおしばし、うつむいたまま立ち尽くす。それから彼は決然と踵を返し、外の世界へと戻って行った。
(終)




