家訓
オアンディウス家には妙な家訓がある。
家訓があること自体は不思議ではない。なにしろ、ナナイス復興の立役者の血筋であり、今も市の様々な要職に就く一族である。住民全てが死に絶えた旧いナナイスの、たった一家族だけの生き残りという箔もある。
であるから、一族が集まると必ず、闇の眷属によって北部が壊滅に追い込まれた頃の話が始まるのだ。その恐怖を体験した人間はもう誰も生きていないが、だからこそオアンディウス家はその教訓を忘れまいと語り継ぐ。――正直、耳タコであっても。
闇の本質、共存していくための心得、平穏と安全の得難い価値について。
物心つくころから、子供達は何度も何度も繰り返し聞かされる。
そして、それら古びて黴臭い話の最後に、必ず家訓がついてくるのだ。今となってはいささか意味不明な、奇妙な言いつけが。
「あ、フィンにーさま!」
オアンディウス家最年少のナイアは、つい先日、はじめて一族昔語りの洗礼を受けたばかりだ。
そこで“大人”の仲間入りを果たした彼女は、いやに張り切った顔で、遠い遠い親戚でもある天竜侯を見つけて突進した。
「おっ」
どす、と足に体当たりされ、フィンがわずかによろめく。
「どうした? えーっと……ナイア?」
いささか自信なさげに名を呼ぶ。と、榛色の丸い双眸が、くりっと瞬いて彼を見上げた。
「どうもしないの。フィンにーさまは、どこ行くの?」
「ん、ちょっとそこまで」
小さな丸い頭を優しく撫でて、フィンは穏やかに微笑む。
「ナイアも行く!」
「来ても退屈だぞ? 水道管の点検に行くだけだから」
「いっしょに行くの!!」
むきになって言い張る少女に、フィンは蒼い目をしばたいた。そして、ああ、と思い当たって苦笑する。そういえば、例の話が出る時期だったか。
「心配しなくても、ちゃんと帰って来る。大丈夫だ」
なだめる口調になった彼に、ナイアは子供扱いされた悔しさから一層強く足にしがみついた。
「ひとりはだめなのー!」
「分かった、分かった。一人で行かないから、ナイアは家に帰りなさい」
言いながらフィンは、小さな手をそっと引き剥がす。それから、しゃがんで目線をあわせ、頭を撫でながら微笑んだ。
「ありがとう」
感謝はされても言い分が通らなかったもので、ナイアは照れながら口を尖らせて膨れる。その顔が懐かしい面影を呼び起こし、フィンの笑みに微かな哀惜が混じった。
今では市民のみならず北部一帯で『竜侯様』と呼ばれ、彼がどこへ行き何をしようとも誰も咎めはしない、そんな存在になっている青年に対して、オアンディウス一族の年少者だけは、『フィン兄様』あるいは『フィン兄さん』などと呼びかけ、遠慮なく付きまとう。
それは、かつてナナイスの神殿祭司長を務めた女性が、三人の子供に何度も言い聞かせ、最期のときにあって尚さらに念を押した言葉が、家訓として語り継がれているゆえだった。
――フィン兄を、決して一人にしないこと。肩書きではなく名前を呼んで、もしも勝手にどこかへ行こうとしたら必ず引き止めること――
最後の最後まで、彼を家族として扱い、人間であることを忘れさせまいとした妹の意志は、数世代を経てもいまだフィンを留める強靭なもやい綱となっている。言いつけを引き継いだ子孫らは、本来の意味や願いはもう分からなくなっているのだろうが、それでも。
「敵わないな」
小さく独りごち、フィンは屈めていた腰を伸ばした。その声音に含まれるものを察し、ナイアがぱっと顔を輝かせる。フィンはうなずきを返した。
「それじゃあ、一緒に行こうか」
「わーい!」
ぴょん、とナイアは万歳して飛び跳ねる。幼い少女に手を差し伸べながら、フィンはもう一度、声に出さずささやいた。
(ありがとう)
その存在はもう地上にはなくとも、愛情だけは、弱まるどころか年毎に強まってゆく。
指をぎゅっと握る小さな手を通じ、過去からの声が届いたような気がして、フィンはまた感謝の思いを新たにするのだった。
「そうだ、フィンにーさま」
「うん?」
「にーさまが墓石って、どーゆーいみ?」
「……どういう意味だろうな」
余計なことまで伝えてくれて、ちょっぴり抗議したい気持ちもなくはなかったが……。
(終)




