面影
本編の3~4年後、ヴァルトとフィン。
なんてこった。これがあのクソ坊主だってのか。
数年ぶりにナナイスを訪れたヴァルトは、呆然として目の前の光景を見つめていた。
黒髪の青年が蒼い瞳に優しさを湛え、幼子を抱いている。見知らぬ他人に当惑する幼子に、彼は慈愛に満ちた微笑を浮かべて、静かに何かをささやいた。
(まるっきり、領主様じゃねえか)
ヴァルトは衝撃から立ち直れないまま、そんなことを思う。外見は自分の息子ぐらいの年齢なのに、そこにいるのは明らかに目上、格上の存在だった。人とは異なる力を宿した何かが、柔らかく儚い小さな命を慈しんでいる、そんな情景。
彼の凝視に気付いた青年が振り返り、からかうように眉をちょっと上げた。
「目と口元が、あんたにそっくりだな」
その声も、話し方も、よく知っているはずなのに。どうしても、記憶の中の“フィニアス”とは結びつかなかった。
むろん、この数年、一度も会わなかったわけではない。
東部司令官としてナナイスから離れていたヴァルトだが、フィニアスは時折、伝令代わりに竜の翼で兵営を訪れていた。あんたの汚い字がのたくってる書状が届くのを待つより、直接見聞きする方が早い、などと小憎らしい理由をつけて。
だが常にそれは、職務としての訪問だった。議会の決定を伝え、あちこち見て回り、人々の声に耳を傾け、そしてまたすぐに帰って行く。ヴァルトもフィニアスも忙しかったし、久々に会ったからとて家に招いて食事を共にするような間柄でもない。
今回ようやく、妻のしつこいお願い攻勢に負けたヴァルトが、家族連れでナナイスの街を訪ねることになったのだ。
だから、フィニアスのこんな顔を見るのは、ヴァルトにとって初めてのことだった。
(あんなクソガキだったのが、いつの間に)
ウィネアの郊外で、明らかに不慣れな手つきで槍を握っていた少年の姿を、苦労して思い出す。詰所に現れた彼を見た時の、えも言われぬ衝撃をも。
――だが、どうにか記憶から引っ張り出した感覚は、途端に脆くも崩れ去った。
決して忘れられないと信じていた憎悪が、数十年の間にこれほど風化していたとは、彼自身まったく気付いていなかった。記憶に伴う感情は、いつしか抜け落ちるものだと初めて知った。
(なんで、俺は)
瞬きもせず見つめる視線の先で、フィニアスの蒼い瞳が気遣いの気配を浮かべる。と、腕に抱いた幼子の小さな手が頬に触れ、彼は微笑をこぼした。
(いったい……どうすれば、“これ”が、あいつと同じに見えたんだ?)
幼子をあやす優しい横顔。そこに、かつて重ねた面影は微塵もなかった。
不覚にも目頭が熱くなり、慌ててヴァルトは顔を背ける。
「ヴァルト?」
名前を呼ぶ声が、温かく胸に沁みてくる。ヴァルトはぎゅっと目を瞑り、こみ上げる想いをおしとどめた。そして。
「うるせえ、いい加減に返せこのクソガキ。俺の娘だぞ。誘惑するな変態め!」
罵りながらつかつか詰め寄り、我が子を奪い返す。そばにいた妻が目を剥いた。
「あなた! いくらなんでも、竜侯様に何てこと言うのよ!」
「はッ、こいつが何様だろうと知ったことか。俺は認めねえぞ!」
「あなたッ!!」
眦を吊り上げた細君を、罵られた当の竜侯が「構いませんよ」と苦笑でなだめる。それから彼は、一時昔に戻ったように、皮肉な表情を見せた。
「上品で礼儀正しいヴァルトなんて、俺も認めたくありませんからね」
「……ッ、上等だこんガキャァ!!」
思わず怒鳴ったヴァルトの腕で、娘が竦んで泣き出した。即座に妻が奪い取り、凍てつく怒りのまなざしで夫を一刺しして、敵から守るように遠ざかる。立場のなくなったヴァルトがごまかすように頭を掻くと、わざとらしくフィニアスが咳払いした。
「くそったれが……」
唸ってぎろりと睨みつけたが、相手は拳で口元を隠したまま笑いを堪えている。余裕たっぷりだ。ヴァルトは半ば本気で舌打ちした。
「表へ出ろ、稽古をつけてやる!」
「ああ、望むところだ」
フィニアスは受けて立ち、先に歩き出す。ヴァルトは顔をしかめた。昔のフィニアスならば、何だかんだ言い逃れていただろう。弱いから、怖いからではなく、ヴァルトには理解できない妙な遠慮の精神ゆえに。
(今はそれだけ、腕にも心にも余裕があるってことか。ああムカつく!)
認めねえぞ。絶対に認めるものか!
ヴァルトは自分に対して無意識に繰り返しながら、荒っぽい足取りでフィニアスを追いかけた。
「待てこら、勝手にさっさと行くな!」
怒鳴った声が少しだけ、楽しそうに響いてしまったことに、彼は気付いていなかった。
(終)




