7-8. 夜明け
寝静まった世界に、潮騒だけがさざめく。
ひんやりした夜風が傷痕のある頬を撫でた。フィンは月のない空を仰ぎ、星の光に目を細める。
ナナイスの夜は穏やかだ。もはや不寝番の必要もほとんどなく、新月の頃だけ用心の為に二人組で巡回する。今はフィン一人だった。正確には、フィンとレーナの二人、だが。
町外れ、小さな焚き火のそばで膝を抱え、彼は様々なことを思い出していた。
帝国が北部を一方的に“離縁”した後、ナナイスでは結局、議会による共和制が選ばれた。当面は引き続きオアンドゥスが議長だが、オルシーナやクヴェリスらと相談して以前の帝国法を手直しし、体制そのものについても調整を進めている。
フィンはマックやプラストと一緒に、各地からの移住者への対応に追われていた。新しい住居を建てる場所、資材の調達から農地の分配まで、とにかく目の前のことを片付けていくだけで精一杯だ。
ふと東に目をやると、星空を切り取る黒い影が見えた。風車小屋の残骸だ。ナナイスの人口も増えて、流石にそろそろ粉屋がないと不便だということで、少しずつ再建が進んでいる。近郊を流れるフェーレ川にも水車が建てられた。
フィンは懐かしい目で風車の影を見つめた。
粉屋の仕事は、決して楽ではなかった。忙しい時期は連日徹夜で臼を回したし、細かい籾殻が髪の中にまで入ってチクチクして、しょっちゅう目が痒くなった。粉挽きの仕事がない時期は、畑を耕したり海へ潜ったり、細々したことで日々の糧を得なければならず、安定した生活とは言えなかった。それでもやはり、昔が恋しい。
(分かっている)
フィンは目を瞑り、自分に言い聞かせる。
いつまでも懐古の情にとらわれていてはいけない。過ぎ去ったものを、そのまま取り戻せることは決してないのだ。平凡な人間の生活も、国が滅びるなど誰一人思わなかった信頼の時代も。恋しがるほどに美化され、ますます遠ざかるだけだ。
(今だって、俺もそれなりに普通の生活をしてるじゃないか。ナナイスは落ち着いているし、今日を生き延びるのが精一杯の状況じゃない)
忙しい家族の為に手臼で小麦を挽くこともあるし、気晴らしに海で泳ぐこともある。必要がなければ空を飛ばずに二本の足で歩くし、最近はようやくプラストに教わって漆喰の塗り方を覚えた。
街の人々は闇の獣や人間の暴力に怯えることなく、明日は何をしようか、三日後は、来月は……と、計画を立て、未来を見据えた生活を送っている。
すべてが失われたわけではないのだ。
灰になったナナイスの中から、少しは救い出せたものもある。
〈……静かだな〉
フィンはふと息をつき、ごろんと草の上にひっくり返った。
〈夜がこんなに落ち着くなんて、思いもしなかったよ〉
感慨を込めてつぶやく。レーナの意識が柔らかく同意した。半分眠っているのか、言葉はない。離れた所をうろついている闇の獣も、もはや彼女を警戒させはしなかった。
物陰に見え隠れする青い光点。かつてはそれに慄き、恐怖と絶望に追い立てられるようにして剣を振るったというのに、今は何も感じない。いたって平穏、のどかなものだ。
――と、不意に底冷えする気配が流れてきた。
フィンは跳ね起きて身構え、暗闇に目を凝らす。霜柱を踏むような足音が、シャリシャリと近付いて来た。闇がいっそう濃く凝り、その中心に、ぽうっと蒼い光が灯る。
〈久シイナ〉
冷たい声が精神に届いた。フィンは警戒を解き、しかしまだ緊張しながら、それと相対する。
「あなたは、南へ引き寄せられなかったんですね」
フィンの返事に、青い光が細まる。フッ、と笑いに似た息遣いが聞こえた。
〈我ラハ ズイブン 減ッタ〉
「確かに」
フィンはうなずき、一帯を見回す。夜が静かなのは、闇の眷属の敵意がすっかり薄れた為ばかりでもない。彼らの数そのものが減ったからだ。“飢え”に引き寄せられて、少しずつ少しずつ喰われて。
「でも、俺たちも随分、減りました」
闇の眷属に襲われ、互いに殺し合い、果ては飢餓に飲み込まれて。ディアティウス全土が、すっかり閑散としてしまった。
〈コレデ 少シハ 住ミヤスクナル〉
微かに皮肉の気配。フィンは答えられなかった。確かに人も闇の眷族も激減し、お互いがある程度、好きな場所を選んで暮らせるようになった。縄張り争いで角突き合わせることはない。だがそれも、いつまで続くことか。
フィンの内心を読み取ったように、闇の狼はまた少し、笑いを漏らした。
〈忘レハセヌ。人ヘノ敵意ト警戒ヲ〉
「……俺達も、忘れられないでしょう」
フィンは答え、初めて当直についた夜の記憶を噛みしめた。
「決して忘れません。もう二度と、あれと同じ夜を迎えることがないように」
〈ソウ願イタイモノダナ〉
冷ややかな敵意と軽侮を残し、狼の姿が薄れてゆく。
濃い闇の気配が消えた後も、フィンはじっとそこを見つめていた。
やがて、暗い地上にうっすらと白い筋が浮かび上がる。街道の石畳が、深い眠りの底から目を覚ましたかのように。
星々が瞬き、小さくなって息を潜めると、世界が薄明かりの中に立ち上がり、鳥がさえずり始めた。
〈気がついてる?〉
不意にレーナの声がささやいた。フィンは目をしばたき、寝言かな、と小首を傾げる。まどろみの中にあるような、小さな声だ。
〈初めてフィンを見付けた時、すごくきれいだったけど。今は、もっときれいなの〉
〈…………〉
寝言だ、絶対に。
フィンはそう考えて、脱力しかかったのを堪える。そのまま答えずにいようかと思ったが、無意識に彼は微苦笑を浮かべていた。
〈自分では分からないよ。でも、君の言う通りなんだとしたら……それは、皆がいてくれたからだ。君や、父さん母さん、ネリス、マック……皆が〉
守りたいと思える人、帰りたい場所があって、皆がいろいろなやり方で支えてくれた。だからここまで、希望を失わずにやって来られた。自分ひとりの意志だけではない。
フィンが感謝の気持ちを抱くと、その上に、ぽかりと泡のような問いかけが浮かんだ。
〈皆と一緒にいたかった?〉
答えを知っている問いだった。ごめんなさい、と詫びる代わりに、思慕と寂しさを分かち合うための。
〈ああ〉フィンは正直に肯定した。〈だが今でも、すっかり別のものになってしまったわけじゃないさ。少なくとも、もうしばらくは……〉
皆が生きている間ぐらいは。昔のフィンを知る人々が老いて死ぬまでは。
〈このままでいられると思う。それに、変わってしまうのだって、そう悲観したものじゃない。ずっと君が一緒にいてくれるんだから〉
彼は言って、唇を引き結んだ。
陳腐な愛の台詞のようだが、そこに込められた思いは違う。何があっても、どうなるとしても、命と力を分かち合う絆がある限り、決して一人にはならない。そしてその伴侶が天竜である限り、絶望に屈することはないのだ。
彼の意志に応えるように、精神と外界の両方で、同時に、光が翼を広げた。
――夜明けだ。
緋色に染まった東の空から、黄金の矢がいっせいに放たれる。輝く天蓋の彼方から歌うような調べが届くと、フィンの手元で、ディアイオンが共鳴した。
「おはよう、フィン」
傍らに、ふわりと光が渦を巻き、レーナが姿を現す。フィンはうなずき、おはよう、と微笑んだ。また新しい一日が始まる、そのことに安堵と喜びを感じながら。
ひとつの国が滅んだ。
いつ、と断言できる日付があるわけではない。
多くの者は、一〇九〇年九月の北部放棄をもって帝国の終焉とする。だがある者は、さらに後代、帝国の名が地図から消えた時をもって滅亡とし、また別な者は、より早く、一〇八七年五月、新生ナナイスの誕生をもって、既に帝国は瓦解したものとみなす。
いずれにしても、その時代に生きた人々にとっては、ただひとつの事実があるだけだ。
自分達を守ってくれていた何か大きなものが、失われてしまったという事実。
多くの街や村が灰燼に帰した。
文化も芸術も見捨てられ、受け継がれてきた有形無形のものが塵と消えた。
死と滅亡、喪失。だが同時にそれは、新しい星々を育む素となり、多くの国を生み出した。
いくつもの小さな王国が、秩序と安定からは程遠い揺籃期を経て成熟を迎えるまで、今しばらくの時を要することを、それを越えた後に再び明るい光に満ちた時代が来ることを、
――まだ、彼らは知らない。
[ 完 ]




