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灰と王国  作者: 風羽洸海
第四部 忘れえぬもの
177/209

7-6. 別れ


 森から出た時、フィンは一人だった。

 オルジンはもはや帰りの旅には耐えられぬからと、森に留まることを選んだのだ。ウティアは再び結界の奥に戻り、青霧も静かに姿を消した。エレシアはいまだヴァリスと話し合う準備は出来ていないからと、海の上を飛んで東へ帰った。

 人気のない森の外れに立ち、フィンは周囲を見回した。木立の際まで飢えが侵蝕した跡が見て取れる。朽ちた枝葉が、いかにも痛々しい。一歩踏み出すと既に、足元の土はサラサラに乾いて白っぽくなっていた。

 これからまた、長い時間がかかるだろう――ウティアはそう言った。

 飢えに喰われた大地に再び命を宿すには、まず一度、草木を根付かせなければならない。人間が畑や牧として利用出来るのはさらに後だ。大森林の拡張部分に避難した人々は、まだ当分の間、森の中で暮らさざるを得ない。

 フィンは空を仰ぐと、意識の中で翼を広げた。同時にレーナが実体化し、フィンを乗せて舞い上がる。今までのように、名を呼び、どこかに掴まって、背に乗る――そんな手順は、もう必要なかった。

 視界が広い。フィンはちらと北に目をやり、かつてクォノスや皇都があった辺りを見た。

〈あの“飢え”は完全になくなったな〉

〈そうね。これでもう、安心〉

 二人は同時にほっと安堵する。眼下の大地はあまりにも静まりかえって、命の気配は全く感じられないが、いずれは甦ると分かっている。今は寂しいが、もう恐れることはない。

 フィンは行く手に目を転じ、馴染んだ気配を探した。小さな光の宿る、大事な家族の気配を。

 やがて見付けた光の下へ、フィンは真っすぐに飛んで行った。オルドスの街、市庁舎のある広場だ。二人だけの飛翔は速く、帰路に時間はかからなかった。

 目指す広場は市民でごった返していたが、竜の羽ばたきが聞こえると皆が天を仰ぎ、歓声を上げながら場所を空けてくれた。移民手続きを行っていたマックとネリスが、手伝いの役人にその場を任せて駆けつける。

「フィン兄!」

「無事で――」

 二人は口々に言いながら、翼を畳んだレーナと、降り立ったフィンに駆け寄った。

 が、あと少しというところで、二人ともいきなり見えない手綱を引かれたように、ぎょっとして足を止めた。

 フィンには二人の驚愕が、その表情以上にはっきりと見て取れた。ネリスがほとんど恐怖に近い感情を抱いたことも、その理由も分かる。

(どんな風に見えているんだろう)

 竜と融け合った意識の表層は既に分離していたが、しかし、完全に元通りではない。すっかり人間の意識に戻ることは、二度とないだろう。

(きっともう、『なんか光るものがぐねぐねしてる』どころじゃないんだろうな)

 懐かしい記憶を寂しく思い出しながら、彼は微笑んだ。

「ただいま」

 穏やかに、次に来るものを覚悟した声で言う。おまえは誰だ、と言われたとしても、驚きはしないだろう。あるいは二人が共に深々と頭を下げて、他人の礼をとったとしても。

 実際、あと少しでそうなりそうな雰囲気だった。ネリスの顔は畏怖のゆえにこわばり、蒼白になっている。フィンは彼女の心中を察し、自分から切り出そうと口を開きかけた。

 その、直後。

「……っ馬鹿!!!」

 超弩級の怒声と共に、なんと拳が鳩尾に叩き込まれた。

 構え損なったフィンはまともにくらい、よろけるだけでは済まず、石畳に倒れてしまう。女とは言え、ネリスはお嬢様ではない。力仕事もこなす祭司なのだからして、拳の威力も侮れないのだ。

「うっ、ごほ……っっ、おまえ、何を」

 周囲の市民が度肝を抜かれて騒然とする中、ネリスは構わずフィンを怒鳴りつけた。

「何を、はこっちの台詞よ! どれだけ心配したと思ってんの!? それを何なの、しれっと普っっ通の顔して『ただいま』って! 他に何かやり方も言うこともあるでしょうが、馬鹿!!」

 顔は紅潮し、目には涙が浮かんでいる。たかぶった感情が、痛いほど透明に澄んだ光と共に溢れ出す。

(決めたんだから、お兄が何でもあたしは変わらないって。極悪人の子でも何でも、それを知っても知らなくても変わらないこと、見せてやるって)

(分かってる、もう同じじゃない、お兄もあたしも、皆、もう昔と同じじゃない。でも変わらない、変えやしない、絶対!)

 ネリスは両手で服の裾をぎゅっと握り締め、安堵と激情でくずおれそうな膝を叱咤して、フィンを睨みつけたまま仁王立ちしている。その健気さに、変わるまいとする意志の強さに、フィンは内心感服した。

 ……そうか、そうだな。変えずにいることも出来るのなら、変わらなくてもいいじゃないか。

 自然と笑みが浮かび、昔の感覚が戻ってくる。彼は腹を押さえ、大袈裟な渋面を見せて立ち上がった。

「どうしろって言うんだ? 泣きながら両手を広げて抱きついたらいいのか?」

「そんなわけないでしょ、気色悪いッ!!!」

「……裏口からこっそり帰って来れば良かったな」

 罵られてフィンが情けない顔をすると、ようやくマックも、いつもの笑顔になった。

「気付くのがちょっと遅かったね、兄貴。お帰り」

「ああ」

 フィンは小さくうなずくと、二人の頭をそれぞれくしゃりと軽く撫でた。途端に二人は揃ってげんなりする。

「公然とそれをするのは止めてくれよ……」

「あたし達、いくつだと思ってんの」

 抗議の二重唱には、もう、強がりもわざとらしさもない。おっと、とフィンは手を引っ込め、そのまま降参の仕草をした。

「すまない、つい。あー……ええと、とりあえず皇帝陛下に報告しに行くから、二人とも、手が離せるようになったら来てくれるか」

「了解」

「はいはい」

 まったく、しょうがないね――そんな風情の答え。フィンは二人の肩を軽く叩いて、

「ありがとう」

 思いを込めた礼を言ってから、背を向けて歩き出した。緊張の切れたネリスがマックに寄りかかるのが、振り返らなくても分かった。

 市庁舎のどこに皇帝と小セナトがいるのか、フィンには既に見えていたのだが、取次ぎなしでいきなり訪ねるのは礼儀にもとる。フィンは大人しく案内を頼み、召使の後から付いて行った。

「フィニアス殿! ご無事で!」

 先に喜びの声を上げたのはセナトだった。フィンは口元をほころばせ、一礼する。大セナトの記憶にあった小さな孫と、その子への愛情が思い出されたのだ。それが顔に出ていたのか、フィンを迎えたセナトはやや当惑した面持ちで、言葉を続けられずに立ち尽くした。代わってヴァリスがフィンに歩み寄る。

「急に雰囲気が変わったな。……成功したのだな?」

「はい。皇都の“飢え”は自らを喰らい尽くして滅びました。もうこれ以上は、逃げなくても大丈夫です」

 フィンの答えに、皇帝とその養子は揃ってほっと安堵の息をついた。

「では、少しずつでも北に戻れるか」

「ええ。ですが時間がかかるでしょう。飢えの本体は皇都で足止めされましたが、逃れたものもあって、かなりの土地がやられました。作物を植えられる状態ではないので……まずは痩せた土にも強い草木を荒地の縁に植えて、そこから少しずつ回復させていくしかありません。その仕事は、小人族が手伝ってくれるそうです」

「ふむ?」

「ウティア様はフィダエ族と共に大森林の奥地に戻られましたが、彼らの知識と技は小人族にも受け継がれています。小人族はフィダエ族と違って、外の世界とも交流があるので……大戦以来自分達を無視してきた人間に好意は持てないが、ネーナ女神が嘆くだろうから大地を癒すのに手を貸してやる、と」

 フィンは苦笑気味にエイファネスの言い分を伝え、セナトを振り返った。

「ファーネインも一緒ですよ、殿下。西部と行き来することになりますが、こちらに来る際はまたお目にかかりたいと言っていました」

「そうですか」

 セナトの返事は短かったが、平静を取り繕おうとするあまり、かえって妙な声音になっていた。フィンはそれには気付かなかったふりで、再びヴァリスに向き直る。

「エレシア様からは日を改めて、使者を遣わすとのことです。正式に国境を定め、領内にまだ残っている軍団兵の引き渡しなども、その時に」

「……そうか。そうだな、本国がこうなった今、ノルニコムには自力でやって行って貰う方が良かろう。いずれにせよ、我々にはもう交渉するだけの力もないのが事実だ」

 ヴァリスは淡々と言い、フィンが来る前まで向かっていた書台から、一枚の羊皮紙を取り上げた。

「そなたはこの後、北へ戻るのだろうな」

「はい。コムリスやウィネアに寄って、本国から移住する人が増えるだろうから準備を整えるように伝えて、その後ナナイスに戻ります」

「そうか。ならば丁度良い、この知らせを、それぞれの市長と軍団長に届けてくれ。評議会の決定だ」

「……?」

 フィンは差し出された紙を受け取り、目を走らせ――絶句した。

 愕然とし、ただ何度も何度も、同じ文言を読み返す。

『ディアティウス帝国は、ピュルマ山脈より北の土地について、一切の権利と義務を放棄する』

 皇帝の署名と印章、その下にずらりと並ぶ評議員らの署名。

 悪い夢でも見ているようだった。

 実際問題として、既に四年前から北部は半独立状態だった。だがしかし、ウィネアまでは軍団兵の給料も届いていたし、ナナイスの復興を支えてきたのも本国の資金だ。

 それが。

「……では、陛下、軍団兵は……? 市民の権利は、ナナイスは」

「自分達で何とかしろ、と言うしかあるまいな」

 ヴァリスは素っ気なく応じ、疲れたように顔をこすった。

「今の本国は傷を癒すだけで精一杯だ。評議員の数も半減した。この先は市民の流出に歯止めがかからぬだろう。税を徴収するどころではなくなる。軍団兵に支払う給料はおろか、街道や水道の保守に回す資金もない。早い話が、破産した、ということだ」

「…………」

「だからこそ、今度は北部から得られるものを得るべきだという意見も、むろん出たがな。コムリスとウィネアの第十・第八軍団に背かれたら、抑える術はない。これ以上の痛手を被る前に手放した方が、逆に情けをかけて貰えるかも知れぬ分、ましというものだ」

 ふん、とヴァリスは自虐的に鼻を鳴らす。思わずフィンは彼に詰め寄った。

「ですが俺達は帝国市民です! 今でも、これからも! 本国が大変な時期だからこそ、助けるのは当然です!」

「嬉しいことを言ってくれる。だがそなた、四年前に助けを求めて命からがらウィネアに辿り着き、結局誰もナナイスに手を差し伸べなかったというあの時にも、同じ事が言えたか?」

「――! それは……」

「もはや民の多くは帝国を見限っている。よそへ行けぬから、ほかにどうすべきか思いつかぬから、形骸化した帝国と議会にぶら下がっている者も少なくないが……ともかく今となっては、本国という存在は概念だけのものに成り果てた。現実の力は持たぬ。そなたも目を覚まして、自らを守る手立てを考えるのだな。この知らせが届けば……あるいは届かずとも、やがて北部は変わるだろう。ウィネアの軍団がナナイスを欲しがるやも知れぬぞ。そなたを傀儡皇帝に祭り上げて、な」

 そうなっても、我々は介入できない。見て見ぬふりをするだろう。

 ヴァリスは感情のこもらぬ声で他人事のように言った。だが顔を上げてフィンをまっすぐ見た時、その面には温かな優しさが浮かんでいた。

「そなたは充分、帝国の為に尽くしてくれた。竜侯という特殊な立場を横に置いても、そなたのような市民を生み出したその一点だけで、私は帝国を誇りに思える。腐敗し、滅ぶべくして滅んだ国ではないと思える。……ありがとう」

「陛下……」

「さあ、もうそなたの故郷に帰れ。そして叶うなら、そなたの体現する“善き帝国市民”の精神を、絶やすことなく受け継がせてくれ。南部ではその希望は、限りなく小さいのだから」

 悟ったようなヴァリスの言葉に、フィンは首を振り、強い口調で応じた。

「いいえ。ここにも希望は確かにあります。グラウス将軍もイスレヴ殿も陛下を支えて下さるし、セナト様が陛下の意志を次の世につないでゆかれるでしょう。諦めないで下さい、陛下。俺は……いえ、私は、これからも陛下の友人でありたいと願っています」

 迷いなくまっすぐに告げられて、ヴァリスは面食らい、目をしばたたく。束の間、彼は沈黙し……それから、ふっと笑みをこぼした。

「ならば、いちいち『私』と言い直すのは、もうやめるのだな。竜侯フィニアス、そなたは恐らく今後、本国の皇帝とも対等な立場になろう。そなたが友人でいてくれると言うなら、私も、私の後継者にとっても、喜ばしい限りだ」

 言って、手を差し出す。フィンはそれをしっかりと握った。

 どちらからともなく手を離した後、フィンははたと気付いて「そうだ」と困惑顔になった。

「申し訳ありません、陛下。フェーレンダインをお返し出来なくなりました」

「? そう言えば、違う剣を佩いているな。折れたのか」

「いえ、この剣に生まれ変わったんです。デイア様が授けて下さったのですが、前の剣は……なくなってしまった、としか」

「ふむ、そのような事もあるのか。構わぬ、元をただせば竜侯のものを皇帝が代々預かってきたに過ぎぬのだ。返せと言える筋もあるまいよ」

「畏れ入ります」

 フィンが低頭した丁度その時、召使がマックとネリスの来室を知らせた。

 二人は既に評議会の決定を知らされており、フィンが文書を見せても、驚きはしなかった。ただ、これからは本当に自力だけが恃みと、覚悟を固めただけだった。

 本国から北部へ移住する者への対応、今後の物資流通の問題などを少し話し合ってから、彼らは別れた。

 市庁舎の外に出て、ネリスが深いため息をつく。フィンは口から出かっていた嘆息を、慌てて飲み込んだ。揃って気落ちしている場合ではない。帝国の落日を慨嘆するよりも、今は前に進まなければ。

 ――と、思ったのだが。

「はぁぁ……これで当分、皇帝陛下のお顔も見られないよねぇ……」

 ネリスの名残がどこにあるかを聞いて、がくりと膝が抜けそうになる。

「広場の銅像をひとつ持って帰るか?」

 皮肉を言ってやったが、

「銅像かぁ。頼むから、ナナイスに竜侯様の像を建てさせるのだけは止めてよね」

 我が身に跳ね返ってきただけだった。

「俺がそんな事、させる性質じゃないことぐらい分かってるだろう……」

「わかんないよ? お兄の知らないところで勝手に作られてたりして」

「その時は、熔かしてもっと役立つものに作り変えるさ」

 やれやれ。うなだれたフィンの背中を、マックが慰めるようにぽんと叩いた。


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