7-5. 希望の調べ
飢えが、すべてを呑み込み始めた。
力が欲しい、皇都の奴らが憎い、玉座を手に入れたい……その執念で方向付けられまとまっていた飢えが、枷を失い、手当たり次第に触れるものを喰らってゆく。
〈逃げろ!〉
誰の声か、意識する間もない。竜と竜侯は、すがりつく飢餓の手を振り切って、全力で翔る。結界の網目が、待っていたように緩んだ。その隙間を潜り抜けた、直後。
メコッ……
空間が大きくへこみ、たわんだ。
実際には音などしていないのに、そうと感じられる。
ベコン、ボコッ、メキメキ……
あまりにも凄まじい勢いで、飢えはありとあらゆるものに喰らいつき、すすり、呑み込んでゆく。それが己自身であろうとも、まるで頓着せず。
ミシミシ軋みながら、飢餓それ自体が崩れてゆく。皇都の大地が揺れ、抉り取られ、ぐしゃりと潰れた。
あとには――何も、残らなかった。
「う……」
こぼれた呻きが自分の声だと、すぐには分からなかった。フィンは重い瞼を無理やりこじ開け、指先に力を入れて動かそうと試みる。
「フィン?」
心配そうな声が聞こえた。暖かい光が瞼越しに見える。血の流れに乗って光が体を巡り、触れる端から小さな火を灯してゆく。その感覚はまるで、冷たい粘土で作った人形に命が吹き込まれてゆくかのようで、
「もしかして、俺……死んでたのか?」
嫌な想像をしながら、フィンはゆっくり目を開けた。
「まあ、そんなようなものだな」
しらっと怖いことを肯定してくれたのは、青霧だった。フィンは恨めしげに彼を見上げ、のろのろと身を起こす。レーナが手を添えて支えてくれた。
なんとなく横を見ると、エレシアが同じぐらい半死人の態で頭を抱えていた。彼女はフィンの視線に気付いてか、ふと顔を上げて振り向くと、この上なく深々とため息をついた。
「疲れたわ……」
「しばらく死んでたようなもの、らしいですから」
「体のことではなくて」炎色の頭が揺れる。「あんな……あんな記憶に付き合って、あんなひねくれた男の感情を、いちいちすべて正当化してやらなければならないなんて……こんな状況でもなければ」
「背中を蹴り飛ばして、勝手にいじけていろ、と見捨てるところですか」
フィンが苦笑すると、ゲンシャスの笑う気配が伝わってきた。
〈おまえも我が伴侶のことが分かってきたようだ〉
「シャス、本当に口に塩を詰めて縫い合わせるわよ」
〈それ、この通りだ〉
やれやれと肩を竦めるような気配を残して、炎竜が遠ざかる。彼の方は久方ぶりに竜として暴れられたのが嬉しいらしく、げんなりしているエレシアとは対照的に元気だ。フィンは小さく笑いをこぼして、うんと伸びをした。まだ少し重たいが、ほとんど元通りに動かせそうだ。
「フィン……もう、大丈夫?」
レーナがおずおずと声をかける。苔の上にちょこんと正座している姿が、あの荒々しい竜でもあるとは、自分の目で見ていてもなかなか信じられない。フィンは手を伸ばして、うっすら光を帯びている柔らかな頬を撫でてやった。
「おかげさまで、すっかり回復したよ。君の方は平気かい」
レーナはフィンの手に自分の手を添えると、こっくりうなずいた。そして、にこにこ嬉しそうに、フィンの手に頬ずりする。
「…………」
流石にフィンは赤面したが、レーナの方はお構いなしだ。そのままフィンにすり寄ると、無邪気にふわりと抱きついた。
「そういえば」笑いを堪えかねる風情で青霧が口を挟む。「おまえ達は結婚したんだったな。忘れていた」
「え、いや、あの」
何をどう答えたものかとフィンは焦り、意味不明のことを口走る。エレシアが驚きもあらわに彼を見つめた。
「結婚? まさか、その竜と?」
「あ……、はい」
否とは言えない。フィンはレーナにくっつかれたまま、途方に暮れた顔で答える。エレシアは驚き、次いで呆れ、最後には首を振ってため息をついた。言葉はない。ないだけに、余計にいたたまれない。
〈レーナ、その、少し……〉
今は勘弁してくれないかな、と遠慮がちに話しかける。と、それを待たず、レーナは身を離して座り直した。フィンに言われたから、というのでもないらしい。おやとフィンが目をしばたくと、レーナはにこにこしたまま、おもむろに言った。
「見て。デイア様の贈り物」
指差したのは、フィンが身につけたままの剣だった。
「……?」
はてな、とフィンは訝りつつ自分の腰を見下ろした。何か付け加わったとか、変わったところは見当たらない。それでも、レーナが待っているので、彼はフェーレンダインを剣帯から外した。
「これが何か……、っ!」
言いかけた瞬間、手を通して強烈な力が剣に流れ込んだ。
意識の中で振るった閃光の剣が、腕の中で脈動し、てのひらから物質の剣に移ってゆく。その眩さは、激痛をともなってフィンを圧倒した。
――キザメ 我ガ名ヲ
峻厳な意識が伝わる。言葉にならない、だが明確な意志。これが神によって与えられた剣であり、決して己の力ではないことを、銘記し忘れるな、と。
人と竜をつなぐ絆に、烙印のごとくひとつの名が記される。
〈……ディア……イオン〉
フィンが認識すると同時に、眩い光がふっとかき消えた。直後、ずしりと手の中の剣が重くなる。フィンは頭をはっきりさせようと数回瞬きしてから、恐る恐る剣を見下ろした。
既に、見慣れた白い剣は影も形もなかった。
真夏の晴天、あるいは夜明けの空のように深く澄んだ群青色の鞘に、幾筋か金の光条が走っている。柄は白かったが、以前の落ち着いた穏やかな白ではなく、真冬の陽射しを思わせる輝きを帯びていた。
しばし言葉もなく、フィンはただ見入っていた。今までのフェーレンダインに不満など微塵もなかったが、しかし、これはまったく桁違いのものだ。いかに力のある特別な武具であっても、借り物を使い込んで馴染んできた程度のものとは違う。
最初から、天竜侯と天竜の為に、その神デイアが与えてくれたもの。
それだけに、質量以上の重さがあった。単に竜侯となるだけならば、竜との絆だけですむ。むろん、それ『だけ』でも充分、人間の身にとっては大事だ。だが神が絆を認め、必要なものを与えてくれたとなれば……
〈うわ……俺、今、とんでもない立場になったんじゃないのか?〉
あまりのことに、剣を抜いてみようという考えはおろか、剣帯に吊るすことも思いつかない。両手で捧げ持ったまま、どうしようかとおろおろするばかりだ。
だがフィンのおののきを、レーナは軽やかに笑っていなした。
〈どうして? もともと私達はみんな、神様の子供みたいなものでしょう。フィンもそうよ。今は私と一緒だから、ほかの人間よりちょっと……うーん、そうね、年上のきょうだい、かしら、そんな立場になったわけだけれど〉
〈…………〉
そりゃあ、竜から見たら神様もそんなに遠い存在じゃないんだろうし、理屈としてはその通りなんだろうが、人間は竜のいる所よりずっとずっとずっと下の方にいるわけで、だからそんないっぺんに高い所に引っ張り上げられたらどうしていいんだか。
フィンは改めて自分のちっぽけさを実感し、本当にどうして俺が竜侯なんだろう、などと今更しみじみ考えてしまった。
だがそうこうする内に、新しい剣の感触が早くも手に馴染み、圧倒的な存在感も鳴りをひそめていた。フィンはほっと息をつき、そろそろと持ち直してみた。もう、あまり畏怖は感じない。代わりに剣が、彼を求めていると分かった。
「ディアイオン」
小さく名を呼び、柄を握る。てのひらに吸い付くようだ。しかしここで抜く気にはなれず、フィンはそれをそのまま、フェーレンダインの代わりに佩いた。
「良いものを貰ったな。賢く使えよ」
青霧が祝福する。言葉は短いが、言外に、贈り物に付随する意味が示唆されていた。
デイアの剣は単なる武器ではない。それはほかの竜侯の武具も然りだ。その作り手たる神の意に従って使われてこそ、本来の力を発揮する。すなわち神々の贈り物は、神意に沿って生きよという命令でもあるのだ。
「はい」
フィンもまた短く応じ、うなずいた。
軽く鞘の上から手を触れると、微かに歌うような応えがあった。それに耳を傾ける前、ほんの一瞬、
(ああ、遠くまで来てしまったな)
もう帰れない――そんな思いがちらと胸をよぎった。だがそれは、本当に、ほんの刹那のことだった。
希望の調べが、心を満たしてゆく。フィンは黙って身を委ね、降り注ぐ明るい光の下で目を閉じていた。




