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灰と王国  作者: 風羽洸海
第四部 忘れえぬもの
175/209

7-4. 記憶を辿って



 コツ、コツ、コツ。薄暗い廊下に足音が響く。

 前を行く父親、従う少年、二人の足音が重なり、ずれ、また重なる。

 初めて訪れた皇都の議事堂は、重苦しく圧倒的だった。

 少年は不安げに父の背を見る。ここでこの男は、僕を守ってくれるだろうか。それだけの力があるのだろうか。こんな、圧倒的な……権力の殿堂で。

 不安を察したように、父親は振り返り、微笑む。その顔は相変わらず、気弱で頼りない。

 やがて二人は、一室に着く。

 待ち受けていたのは……

「やあ、ようやくのお着きか。ナクテ竜侯」

「竜は屋敷に置いて来られたのかな」

 ははは、と起こった笑いは、ひどく虚ろなものだった。楽しいのではない、軽侮と追従だけの笑い。

 十人足らずの男達は皆、『竜侯』だった。成員の出身地を帝国各地均等にすべく、竜侯家相当とみなされた貴族も含まれている。

 お定まりらしい揶揄に、父親は微笑んで応じた。

「彼女には、この議事堂はなにぶん狭すぎるのでね」

 またどっと笑いが起こる。父親の背後でそれを聞いた少年は、“竜”が母親のことだと気付いて、顔を赤らめた。

 ナクテ竜侯は当主本人より、“竜”の方が強いと噂されているのか。

 ――不甲斐ない。

 皮肉ひとつ言い返せない父親の態度に、自分の方が恥ずかしくなる。笑われている自覚がないのだろうか、それとも所詮婿養子とてアウストラ一門の名誉に無頓着なのか。

「その代わり、本日は皆さんに次期竜侯を紹介しましょう」

 息子の不満にはお構いなく、父親が少年の腕を取って前に立たせる。まともに向き合った途端、少年はぎくりと竦んだ。

 ――なんだ、こいつら。

 これほど無遠慮であからさまな視線を浴びせられたのは、生まれて初めてだった。権力に慣れ、己の体の一部のように着こなしている男達が、他人を道具や“要素”扱いする目で、彼を見つめている。値踏みし、買うかどうか、使い道をどうするか、計算しているのだ。そのことを隠そうともせずに。

 ややあって、一人がにやりと下卑た笑みを浮かべた。

「どうやら、お嬢さんではないようだ。服の下を確認する必要はないかな」

 ふきだす者、にやつく者、しらけた風情で何か他所事を考えている者。いずれにせよ、ナクテ竜侯家の跡取りが軽んじられたことは、明らかだった。

 少年は真っ赤になり、両手を拳に握り締める。

 うつむいて自分の爪先を見つめる少年の肩に、父親が軽く手を置いた。慰めるでも、共に怒るでもなく、堪えろと諭すのでもない、何の意志も感じられない手だった。そして、開いた口から出てきた言葉は。

「セナト=アウストラ=イェルグ、私の息子です。今後国政を学ぶため、様々な場で皆さんのお世話になるでしょう。よろしくお力添えを頂きたい」

 ――腰抜けめ!!

 怒りと羞恥が少年の脳天を焼いた。なぜ一言、無礼を咎めることさえ出来ないのか。

 所詮これが、この男の限界なのだ。館では妻に頭を下げ、皇都では他の貴族達におもねって便宜を図ってもらう、その程度の男だったのだ。それもこれも、四六時中当主の頭を押さえつけている、あの女のせいで……

(そうか? 爪先ばかり見ておらぬで、顔を上げてみよ)

 気高い声がささやいた。少年は不意に、怒り渦巻く心中を誰かに見られた気がして、そのことに羞恥をおぼえた。自尊心につけられたつまらない傷に拘泥している、ちっぽけな己の姿を自覚する。

 だがさりとて、愚弄された悔しさは晴れない。

 恨みがましく父親を見上げた少年は、意外な思いにとらわれた。

 気弱なだけだと思っていた父親の横顔は、こんな状況でも同じ微笑を浮かべていた。愛想笑いでもへつらいでもなく、普段とまったく変わらない微笑を。

 ――平気なのか。

 こんな状況でも、彼は動じていないのか。抗議ひとつしないのは、臆病だからではなく、単に相手にしていないから……?

(よく見ろ)

 促され、少年は改めて竜侯たちを眺める。

 力と権威に満ちた圧倒的強者、それが竜侯のはずだった。だがどうだ、醒めた目でよく見れば、ただの中年男どもに過ぎないではないか。他者に敬意を払わず、噂と偏見に盲従し、先祖から受け継いだだけの地位にふんぞり返る、名ばかりの竜侯。

 ――こんな奴らに侮辱されるなんて。私が何をした?

(そうではない)

 ――そうだ、違う。奴らの目が腐っているせいだ。

 己も、父も母も、恥ずべきことなど何もない。

 気付くと、少年は無意識に背筋を伸ばしていた。冷ややかに、己を侮っている大人達を観察する。

 ――今に見ていろ。私が力を手に入れたら……

(思い知らせてやるのだ。竜侯の名誉に相応しくないのは誰かを)

 後悔させてやる。私を愚弄したことを……父上を軽んじ母上を侮辱し、我が一門の名誉を貶めたことを、必ず後悔させてやる。

(我こそが竜侯たるに相応しいと、身をもって示すことで)

 見ていろ。竜侯とはどうあるべきか、私が教えてやる!


 ……時が、流れてゆく……数々の恥辱と怒り、憎しみを飲み込んで……ひとつずつ、溶かしながら……


 皇都で見初めたアイオナ。この女ならば言いなりになる、母のようにでしゃばりはすまい、女はこの程度で良いのだと思った。

(安心で、くつろげたからだろう?)

 ……張り合わなくて良いのは、ありがたかった。何も要求されず、ただ受け容れられるのが心地良かった……

(うまく表せなかっただけで)

 そうだ、私なりに愛していた。


 子が生まれた。娘だった――失望した。

 なぜ男を産まなかったのだと、思わずなじった。跡取りを産まぬ妻が憎かった。

(恐れたのでしょう? “女”だったから)

 疎ましかった、おぞましい生き物だった!

(本当は)

 本当は……ただ、どうすれば良いのか分からなかった。不安だった。

(愛せたら良かったのに)

 愛せなかった。だから……

 逃げた。顧みないことにして、竜侯の務めに没頭したのだ。

 想っていないわけでは、なかったのに。


 ……枯葉が舞う……人が老い、死んでゆく……


 先代亡き後も実権を握り続けてきたその妻が夫のもとへ旅立ち、ようやく男は名実共にナクテ竜侯となった。彼自身の妻は早くに病魔に屈し、子は娘一人。

 彼を脅かすものはもう、誰もいない。

 葬儀の後、彼は一人で、受け継いだ屋敷を今更のようにさまよっていた。初めて訪う迷宮であるかのように、一部屋一部屋、隅から隅まで。

 彼はもう随分長い年月を館で過ごしていたが、しかし、その部屋の存在を知ったのはその時が初めてだった。

 ひっそりと、人目を避けるように作られた半地下の部屋。そんなものがあるとは、誰も言わなかった。噂話でさえ。

 用心しながら扉を開けると、そこははじめ、無人に見えた。薄暗く、得体の知れないがらくたや書物が積み上げられた、物置部屋。雑然とした、しかし奇妙に魅力的な……価値あるものが眠っていそうな光景だった。

「私に御用ですか、当主様」

 嗄れた声に呼ばれた時、彼はおののくと同時に歓喜した。何かを見つけた、父と母が、妻が、屋敷の者らが、こぞって彼から隠そうとした何かを――そう直感したのだ。

 黒衣の人物が、棚の間から静かに現れた。背中が曲がり、頭巾の下には不均衡な顔が覗いている。

「ここに人がいるとは聞いておらぬな」

「ご存じだったのは、エフェルナ様だけです」

「……で、そなたはここで何をしておる」

 領主の問いに返事があるまで、しばしの間が空いた。

 そして。

「失われた力の探求でございます」

 ――その答えに、歓喜が沸き起こった。

 やっと、出会うべきものに出会ったということか! 母が私に与え渋ったもの、しかし最後には遺してゆかざるを得なかったもの、父が生涯手にすることのなかったものだ!

(それで埋め合わせになると思ったんだな)

 そう、今までの人生で舐めさせられた辛酸と屈辱を、力が償ってくれると喜んだ。

(実際には、求めていたわけではなかったのに)

 それでも慰めにはなると……そう思ったのだ。

 愛もなく幸福もない。名誉さえも、愚かな名ばかり竜侯どもに汚されて。せめて力だけは、竜侯に相応しい姿を見せてやるという遠い日の誓いのためにも、手に入れようと決心した……


 憤怒が燃え上がり、渦を巻く。怒り、恥辱、失望。

 手綱を握る男の手の甲に、血管が浮き出る。

「解散だと……小童が……!!」

 一切の予告なく、議事堂に乱入した皇都守備隊兵士。突然で一方的な解散の通告を突きつけられ、槍と剣で追い立てられた。家畜の群れのように。

 正気の沙汰とは思えなかった。だが、皇帝の意志を確かめに行こうとした一人が、警告もなく背中から刺されたのを見て、悟らざるを得なかった。

 あの青二才の皇帝は、我々竜侯を国政から排除するつもりなのだ、と。

 名門竜侯がわずかな供を連れて、ナクテ街道を西へ戻って行く。まさか自分の代でこんな日が来ようとは。

 彼は来た道を振り返った。もう皇都は見えない。行く手にはクォノス、かつて先祖が闇の獣を駆逐し、ディアティウスを人間の手に与えた誉れの地があるというのに。

 ――その末裔が、青二才に権力を奪われてたまるものか! 皇帝め、儂に恥辱を与えたこと、後悔させてやるぞ! あの若造を玉座から引きずり下ろしてやる……

(任せてはおけない。竜侯家の名誉も重さも理解せず、己の保身しか考えない皇帝には)

 そうだ、彼奴は玉座に在るべきではない。このまま奴が皇帝杖を振るい続けるなら、我らだけでは済まされまい。廃さねばならぬ、あんな……

(やられる前にとばかり、ひとつの竜侯家を粛清するなど)

 いずれ己の影にも怯え、近寄る者を片端から殺し始めるに違いない輩など。

 ならばいっそ、奴の不安を現実にしてやろう。弟を即位させるのだ、あれならば我々の傀儡になる……

(聞く耳はある。ましな皇帝になるだろう)

 ――いや、我々をないがしろにはすまい。その為にはまず、我が一門との結びつきを強めねば。幸いあの弟には子供がいない……孫のセナトを養子に……


 皇都に返り咲く算段を練りながら、男が街道を行く。

 クォノスを通り過ぎ、さらに西へ……

 その後ろ姿が小さくなる頃、大地に小さな亀裂が生じた。

 ボコリ。土が突然、落ち込む。下をモグラが通ったかのように。だが、落ちた土はどこにも着かない。どこまでも暗く深い闇の底へ、パラパラと落ち続ける……


 男が館に帰りつく。

 ひとしきりの慌しさ、そして彼が向かったのは、魔術師の部屋だった。

 ――力を。

 今すぐ使える、役に立つ力を得たい。反撃に出て、あの青二才を蹴落とす……

(追撃に備えなければ、当主として家の皆を守らなければ)

 ――そうだ、あの皇帝がこれで安心して手を引くとも思えない。儂は当主だ、家族と領民を守らねば。

 男は薄暗い廊下を大股に歩いてゆく。人気のない一角、半地下の部屋……その扉に手をかけて、


〈開けては駄目!〉


 レーナの警告が響き、フィンはいきなり自身の意識を取り戻した。

 だが既に遅く、彼が同調していた記憶の中で、セナト侯は魔術師の部屋へ踏み込む。そこで待ち受けていたのは、人ならぬもの、ぞっとするような昏い気配だった。

 かつてセナト侯を絡め取った“飢え”は、何者かの意識を纏うことで自らを人に似せ、魔術師オルジンに成りすましていたのだ。

 過去の記憶のはずなのに、その“飢え”は、フィンを見つけた。直後、


 喰 ワ セ ロ !!


 人の姿を打ち捨てて本性を現し、一瞬で数倍にまで膨れ上がるや、激流のごとく襲いかかってきた。

 闇一色で衣服や武具など見えなかったのに、シャリッと金属のこすれる音がした刹那、影は剣を振りかぶっていた。

〈しまった!〉

 フィンは思わずフェーレンダインを抜こうとした。今の自分は意識だけで、肉体も、それに付随している所持品もないのだと、思い出すよりも早く。

 閃光が走る。

 フィンは意識だけで、手にした何かを振り切っていた。

 まるで実体があるかのように、打ち合った手の痺れる感覚がする。

〈あれは……あの剣は〉

 フィンは自分の手に現れたものよりも、相手の剣に意識を集中していた。かつてエフェルナが我が子に触れさせまいとした、和議の場でセナト侯がフィンに与えようとした、あの剣だ。

 再び影が襲いかかる。遥か昔は精霊だったものの成れの果てが、すすり泣きながら風を切った。フィンは寸前でかわし、精霊への憐みと魔術師への憎しみを込めて、渾身の力で両腕を振り下ろす。

 剣を掲げて防御する影。だがそれを、落雷のごとき光の一閃が、刃もろともまっぷたつに切り裂いた。

 影は黒い霧となって崩れ、それでもなお、執拗に向かってくる。津波さながらに立ち上がり、無数の牙が並ぶ巨大な顎をカッと開いて、一気に攻め寄せる。

 だがその切っ先さえ、フィンに届きはしなかった。

 突如として舞い降りた四体の竜が、いっせいに襲いかかったのだ。あるいは輝きながら、あるいは渦巻き、激しく波打ちながら。既に何らかの形すら留めていない黒い影につかみかかり、引き裂き、細切れにし、踏みにじり噛み砕いてゆく。

 フィンが呆然としていると、傍らでエレシアの気配がささやいた。

〈壮絶な眺めだこと〉

〈…………〉

 言葉が出て来ず、フィンはただ小さくうなずいた。その間にも、昏い影は竜の猛攻を受けて見る見る崩れ去ってゆく。

 緑の光をまとった竜――オルゲナディウスが、最後に逃げようとした闇に追いつき、巻き付いて締め上げ、粉砕した。そのやり方が、まるでひどく人間的な感情が絡んでいるように見えて、フィンは少し当惑する。

〈懐かしいものに出会うたからだ〉

 無言の問いに、ウティアが答えた。

〈あの気配には覚えがある。かつて人間が闇の眷属と戦っていた頃、むしろ逆に闇を我が物とし、利用せんとした、愚かな魔術師がいた。結局、もろともに大地に封じられたのだがね。あの魔術師には、我々も苦しめられたものだよ〉

 淡々とした声はあくまで平静を保っていたが、意識だけの今、彼女とてやはりまだ人間なのだと思い出させる程度には、感情があらわれている。フィンは言葉にせず、かつての犠牲に短い黙祷を捧げた。

 同時に、セナトの記憶が再び動き始めた。今までとは違い、ずっと速やかに、滞りなく。

〈どうやら、もう介入せずにすみそうだ〉

 青霧の声が安堵を滲ませた。

 彼らの前を、記憶が次々に流れ去ってゆく……


 男はもはや、力に飢えてはいなかった。恨みと憎しみに囚われてもおらず、それらの声に(そそのか)されることもなく、ただ不屈の意志でもって竜侯の務めに取り組んでいった。

 ゲナス帝を廃しフェドラス帝と共に帝国再建を目指すも、ヴァリスによって挫かれ……しかしその時も、彼は諦めなかった。孫の安否を心底案じながらも、いかにして竜侯の権威を取り戻し、国政に携わってゆくかを考え続けた。絶望も憎悪も、彼の心を蝕みはしなかった。

 エレシアの反乱には驚き、怒りながらも、ゲナスの犠牲になった竜侯家として同情もした。女だてらにここまでやるかと敬服し、だが皇都を守るべく偽りの協定を結んで。

 孫のセナトが見付かり、北から新たな竜侯が現れて、未来に希望が見えたと思った。

 そして――

 クォノスで、彼は最後まで“飢え”に抗った。

 なぜか気力を失ってゆく部下達、虚ろな顔で座りこむ住民達を、なんとかして動かそうと必死になっていた。

 噴出した飢餓の闇が街に襲いかかる、その瞬間まで……


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