7-4. 記憶を辿って
コツ、コツ、コツ。薄暗い廊下に足音が響く。
前を行く父親、従う少年、二人の足音が重なり、ずれ、また重なる。
初めて訪れた皇都の議事堂は、重苦しく圧倒的だった。
少年は不安げに父の背を見る。ここでこの男は、僕を守ってくれるだろうか。それだけの力があるのだろうか。こんな、圧倒的な……権力の殿堂で。
不安を察したように、父親は振り返り、微笑む。その顔は相変わらず、気弱で頼りない。
やがて二人は、一室に着く。
待ち受けていたのは……
「やあ、ようやくのお着きか。ナクテ竜侯」
「竜は屋敷に置いて来られたのかな」
ははは、と起こった笑いは、ひどく虚ろなものだった。楽しいのではない、軽侮と追従だけの笑い。
十人足らずの男達は皆、『竜侯』だった。成員の出身地を帝国各地均等にすべく、竜侯家相当とみなされた貴族も含まれている。
お定まりらしい揶揄に、父親は微笑んで応じた。
「彼女には、この議事堂はなにぶん狭すぎるのでね」
またどっと笑いが起こる。父親の背後でそれを聞いた少年は、“竜”が母親のことだと気付いて、顔を赤らめた。
ナクテ竜侯は当主本人より、“竜”の方が強いと噂されているのか。
――不甲斐ない。
皮肉ひとつ言い返せない父親の態度に、自分の方が恥ずかしくなる。笑われている自覚がないのだろうか、それとも所詮婿養子とてアウストラ一門の名誉に無頓着なのか。
「その代わり、本日は皆さんに次期竜侯を紹介しましょう」
息子の不満にはお構いなく、父親が少年の腕を取って前に立たせる。まともに向き合った途端、少年はぎくりと竦んだ。
――なんだ、こいつら。
これほど無遠慮であからさまな視線を浴びせられたのは、生まれて初めてだった。権力に慣れ、己の体の一部のように着こなしている男達が、他人を道具や“要素”扱いする目で、彼を見つめている。値踏みし、買うかどうか、使い道をどうするか、計算しているのだ。そのことを隠そうともせずに。
ややあって、一人がにやりと下卑た笑みを浮かべた。
「どうやら、お嬢さんではないようだ。服の下を確認する必要はないかな」
ふきだす者、にやつく者、しらけた風情で何か他所事を考えている者。いずれにせよ、ナクテ竜侯家の跡取りが軽んじられたことは、明らかだった。
少年は真っ赤になり、両手を拳に握り締める。
うつむいて自分の爪先を見つめる少年の肩に、父親が軽く手を置いた。慰めるでも、共に怒るでもなく、堪えろと諭すのでもない、何の意志も感じられない手だった。そして、開いた口から出てきた言葉は。
「セナト=アウストラ=イェルグ、私の息子です。今後国政を学ぶため、様々な場で皆さんのお世話になるでしょう。よろしくお力添えを頂きたい」
――腰抜けめ!!
怒りと羞恥が少年の脳天を焼いた。なぜ一言、無礼を咎めることさえ出来ないのか。
所詮これが、この男の限界なのだ。館では妻に頭を下げ、皇都では他の貴族達におもねって便宜を図ってもらう、その程度の男だったのだ。それもこれも、四六時中当主の頭を押さえつけている、あの女のせいで……
(そうか? 爪先ばかり見ておらぬで、顔を上げてみよ)
気高い声がささやいた。少年は不意に、怒り渦巻く心中を誰かに見られた気がして、そのことに羞恥をおぼえた。自尊心につけられたつまらない傷に拘泥している、ちっぽけな己の姿を自覚する。
だがさりとて、愚弄された悔しさは晴れない。
恨みがましく父親を見上げた少年は、意外な思いにとらわれた。
気弱なだけだと思っていた父親の横顔は、こんな状況でも同じ微笑を浮かべていた。愛想笑いでもへつらいでもなく、普段とまったく変わらない微笑を。
――平気なのか。
こんな状況でも、彼は動じていないのか。抗議ひとつしないのは、臆病だからではなく、単に相手にしていないから……?
(よく見ろ)
促され、少年は改めて竜侯たちを眺める。
力と権威に満ちた圧倒的強者、それが竜侯のはずだった。だがどうだ、醒めた目でよく見れば、ただの中年男どもに過ぎないではないか。他者に敬意を払わず、噂と偏見に盲従し、先祖から受け継いだだけの地位にふんぞり返る、名ばかりの竜侯。
――こんな奴らに侮辱されるなんて。私が何をした?
(そうではない)
――そうだ、違う。奴らの目が腐っているせいだ。
己も、父も母も、恥ずべきことなど何もない。
気付くと、少年は無意識に背筋を伸ばしていた。冷ややかに、己を侮っている大人達を観察する。
――今に見ていろ。私が力を手に入れたら……
(思い知らせてやるのだ。竜侯の名誉に相応しくないのは誰かを)
後悔させてやる。私を愚弄したことを……父上を軽んじ母上を侮辱し、我が一門の名誉を貶めたことを、必ず後悔させてやる。
(我こそが竜侯たるに相応しいと、身をもって示すことで)
見ていろ。竜侯とはどうあるべきか、私が教えてやる!
……時が、流れてゆく……数々の恥辱と怒り、憎しみを飲み込んで……ひとつずつ、溶かしながら……
皇都で見初めたアイオナ。この女ならば言いなりになる、母のようにでしゃばりはすまい、女はこの程度で良いのだと思った。
(安心で、くつろげたからだろう?)
……張り合わなくて良いのは、ありがたかった。何も要求されず、ただ受け容れられるのが心地良かった……
(うまく表せなかっただけで)
そうだ、私なりに愛していた。
子が生まれた。娘だった――失望した。
なぜ男を産まなかったのだと、思わずなじった。跡取りを産まぬ妻が憎かった。
(恐れたのでしょう? “女”だったから)
疎ましかった、おぞましい生き物だった!
(本当は)
本当は……ただ、どうすれば良いのか分からなかった。不安だった。
(愛せたら良かったのに)
愛せなかった。だから……
逃げた。顧みないことにして、竜侯の務めに没頭したのだ。
想っていないわけでは、なかったのに。
……枯葉が舞う……人が老い、死んでゆく……
先代亡き後も実権を握り続けてきたその妻が夫のもとへ旅立ち、ようやく男は名実共にナクテ竜侯となった。彼自身の妻は早くに病魔に屈し、子は娘一人。
彼を脅かすものはもう、誰もいない。
葬儀の後、彼は一人で、受け継いだ屋敷を今更のようにさまよっていた。初めて訪う迷宮であるかのように、一部屋一部屋、隅から隅まで。
彼はもう随分長い年月を館で過ごしていたが、しかし、その部屋の存在を知ったのはその時が初めてだった。
ひっそりと、人目を避けるように作られた半地下の部屋。そんなものがあるとは、誰も言わなかった。噂話でさえ。
用心しながら扉を開けると、そこははじめ、無人に見えた。薄暗く、得体の知れないがらくたや書物が積み上げられた、物置部屋。雑然とした、しかし奇妙に魅力的な……価値あるものが眠っていそうな光景だった。
「私に御用ですか、当主様」
嗄れた声に呼ばれた時、彼はおののくと同時に歓喜した。何かを見つけた、父と母が、妻が、屋敷の者らが、こぞって彼から隠そうとした何かを――そう直感したのだ。
黒衣の人物が、棚の間から静かに現れた。背中が曲がり、頭巾の下には不均衡な顔が覗いている。
「ここに人がいるとは聞いておらぬな」
「ご存じだったのは、エフェルナ様だけです」
「……で、そなたはここで何をしておる」
領主の問いに返事があるまで、しばしの間が空いた。
そして。
「失われた力の探求でございます」
――その答えに、歓喜が沸き起こった。
やっと、出会うべきものに出会ったということか! 母が私に与え渋ったもの、しかし最後には遺してゆかざるを得なかったもの、父が生涯手にすることのなかったものだ!
(それで埋め合わせになると思ったんだな)
そう、今までの人生で舐めさせられた辛酸と屈辱を、力が償ってくれると喜んだ。
(実際には、求めていたわけではなかったのに)
それでも慰めにはなると……そう思ったのだ。
愛もなく幸福もない。名誉さえも、愚かな名ばかり竜侯どもに汚されて。せめて力だけは、竜侯に相応しい姿を見せてやるという遠い日の誓いのためにも、手に入れようと決心した……
憤怒が燃え上がり、渦を巻く。怒り、恥辱、失望。
手綱を握る男の手の甲に、血管が浮き出る。
「解散だと……小童が……!!」
一切の予告なく、議事堂に乱入した皇都守備隊兵士。突然で一方的な解散の通告を突きつけられ、槍と剣で追い立てられた。家畜の群れのように。
正気の沙汰とは思えなかった。だが、皇帝の意志を確かめに行こうとした一人が、警告もなく背中から刺されたのを見て、悟らざるを得なかった。
あの青二才の皇帝は、我々竜侯を国政から排除するつもりなのだ、と。
名門竜侯がわずかな供を連れて、ナクテ街道を西へ戻って行く。まさか自分の代でこんな日が来ようとは。
彼は来た道を振り返った。もう皇都は見えない。行く手にはクォノス、かつて先祖が闇の獣を駆逐し、ディアティウスを人間の手に与えた誉れの地があるというのに。
――その末裔が、青二才に権力を奪われてたまるものか! 皇帝め、儂に恥辱を与えたこと、後悔させてやるぞ! あの若造を玉座から引きずり下ろしてやる……
(任せてはおけない。竜侯家の名誉も重さも理解せず、己の保身しか考えない皇帝には)
そうだ、彼奴は玉座に在るべきではない。このまま奴が皇帝杖を振るい続けるなら、我らだけでは済まされまい。廃さねばならぬ、あんな……
(やられる前にとばかり、ひとつの竜侯家を粛清するなど)
いずれ己の影にも怯え、近寄る者を片端から殺し始めるに違いない輩など。
ならばいっそ、奴の不安を現実にしてやろう。弟を即位させるのだ、あれならば我々の傀儡になる……
(聞く耳はある。ましな皇帝になるだろう)
――いや、我々をないがしろにはすまい。その為にはまず、我が一門との結びつきを強めねば。幸いあの弟には子供がいない……孫のセナトを養子に……
皇都に返り咲く算段を練りながら、男が街道を行く。
クォノスを通り過ぎ、さらに西へ……
その後ろ姿が小さくなる頃、大地に小さな亀裂が生じた。
ボコリ。土が突然、落ち込む。下をモグラが通ったかのように。だが、落ちた土はどこにも着かない。どこまでも暗く深い闇の底へ、パラパラと落ち続ける……
男が館に帰りつく。
ひとしきりの慌しさ、そして彼が向かったのは、魔術師の部屋だった。
――力を。
今すぐ使える、役に立つ力を得たい。反撃に出て、あの青二才を蹴落とす……
(追撃に備えなければ、当主として家の皆を守らなければ)
――そうだ、あの皇帝がこれで安心して手を引くとも思えない。儂は当主だ、家族と領民を守らねば。
男は薄暗い廊下を大股に歩いてゆく。人気のない一角、半地下の部屋……その扉に手をかけて、
〈開けては駄目!〉
レーナの警告が響き、フィンはいきなり自身の意識を取り戻した。
だが既に遅く、彼が同調していた記憶の中で、セナト侯は魔術師の部屋へ踏み込む。そこで待ち受けていたのは、人ならぬもの、ぞっとするような昏い気配だった。
かつてセナト侯を絡め取った“飢え”は、何者かの意識を纏うことで自らを人に似せ、魔術師オルジンに成りすましていたのだ。
過去の記憶のはずなのに、その“飢え”は、フィンを見つけた。直後、
喰 ワ セ ロ !!
人の姿を打ち捨てて本性を現し、一瞬で数倍にまで膨れ上がるや、激流のごとく襲いかかってきた。
闇一色で衣服や武具など見えなかったのに、シャリッと金属のこすれる音がした刹那、影は剣を振りかぶっていた。
〈しまった!〉
フィンは思わずフェーレンダインを抜こうとした。今の自分は意識だけで、肉体も、それに付随している所持品もないのだと、思い出すよりも早く。
閃光が走る。
フィンは意識だけで、手にした何かを振り切っていた。
まるで実体があるかのように、打ち合った手の痺れる感覚がする。
〈あれは……あの剣は〉
フィンは自分の手に現れたものよりも、相手の剣に意識を集中していた。かつてエフェルナが我が子に触れさせまいとした、和議の場でセナト侯がフィンに与えようとした、あの剣だ。
再び影が襲いかかる。遥か昔は精霊だったものの成れの果てが、すすり泣きながら風を切った。フィンは寸前でかわし、精霊への憐みと魔術師への憎しみを込めて、渾身の力で両腕を振り下ろす。
剣を掲げて防御する影。だがそれを、落雷のごとき光の一閃が、刃もろともまっぷたつに切り裂いた。
影は黒い霧となって崩れ、それでもなお、執拗に向かってくる。津波さながらに立ち上がり、無数の牙が並ぶ巨大な顎をカッと開いて、一気に攻め寄せる。
だがその切っ先さえ、フィンに届きはしなかった。
突如として舞い降りた四体の竜が、いっせいに襲いかかったのだ。あるいは輝きながら、あるいは渦巻き、激しく波打ちながら。既に何らかの形すら留めていない黒い影につかみかかり、引き裂き、細切れにし、踏みにじり噛み砕いてゆく。
フィンが呆然としていると、傍らでエレシアの気配がささやいた。
〈壮絶な眺めだこと〉
〈…………〉
言葉が出て来ず、フィンはただ小さくうなずいた。その間にも、昏い影は竜の猛攻を受けて見る見る崩れ去ってゆく。
緑の光をまとった竜――オルゲナディウスが、最後に逃げようとした闇に追いつき、巻き付いて締め上げ、粉砕した。そのやり方が、まるでひどく人間的な感情が絡んでいるように見えて、フィンは少し当惑する。
〈懐かしいものに出会うたからだ〉
無言の問いに、ウティアが答えた。
〈あの気配には覚えがある。かつて人間が闇の眷属と戦っていた頃、むしろ逆に闇を我が物とし、利用せんとした、愚かな魔術師がいた。結局、もろともに大地に封じられたのだがね。あの魔術師には、我々も苦しめられたものだよ〉
淡々とした声はあくまで平静を保っていたが、意識だけの今、彼女とてやはりまだ人間なのだと思い出させる程度には、感情があらわれている。フィンは言葉にせず、かつての犠牲に短い黙祷を捧げた。
同時に、セナトの記憶が再び動き始めた。今までとは違い、ずっと速やかに、滞りなく。
〈どうやら、もう介入せずにすみそうだ〉
青霧の声が安堵を滲ませた。
彼らの前を、記憶が次々に流れ去ってゆく……
男はもはや、力に飢えてはいなかった。恨みと憎しみに囚われてもおらず、それらの声に唆されることもなく、ただ不屈の意志でもって竜侯の務めに取り組んでいった。
ゲナス帝を廃しフェドラス帝と共に帝国再建を目指すも、ヴァリスによって挫かれ……しかしその時も、彼は諦めなかった。孫の安否を心底案じながらも、いかにして竜侯の権威を取り戻し、国政に携わってゆくかを考え続けた。絶望も憎悪も、彼の心を蝕みはしなかった。
エレシアの反乱には驚き、怒りながらも、ゲナスの犠牲になった竜侯家として同情もした。女だてらにここまでやるかと敬服し、だが皇都を守るべく偽りの協定を結んで。
孫のセナトが見付かり、北から新たな竜侯が現れて、未来に希望が見えたと思った。
そして――
クォノスで、彼は最後まで“飢え”に抗った。
なぜか気力を失ってゆく部下達、虚ろな顔で座りこむ住民達を、なんとかして動かそうと必死になっていた。
噴出した飢餓の闇が街に襲いかかる、その瞬間まで……




