7-3. 過去へ
「エレシア様は東部へお戻りにならなくて、良いのですか」
竜侯と魔術師だけが残った広場で、フィンは遠慮がちに問いかけた。エレシアは皮肉めかして片眉を上げる。
「そなたこそ、故郷に帰らなくて良いのですか。北部には天竜侯を頼みにする民も多いでしょうに」
「私がいなくても、ナナイスは自力でやって行けます。闇の獣の脅威がほとんどなくなった今では、竜の力が必要になる場面はごく稀です」
「ではわたくしも、同じ言葉を返しましょう。三年いなくても問題はなかったのです、わたくしがノルニコム王に相応しい唯一無二の存在というわけではありません」
驚くほど執着のない回答をしたエレシアに、フィンは、しかし、と言いかけたのを飲み込んだ。
むろん彼女は分かっているのだろう。三年間ノルニコムが無事だったのは、グラウス将軍が統治していたから、本国にもまだそれを支える力があったからだ、と。
今この試みをしくじれば、いかな竜侯といえども無事で済む保証はない。だが成さねばいずれ、飢えが解き放たれる。結局、心情や状況がどうあれ、選べる道はひとつだ。
竜侯がいてもいなくても、人々はなんとかそれなりに生き延びようとするだろう。失敗を恐れるべきは、竜侯本人こそである。
フィンは己の不安を相手に投影していたと気付き、それ以上の言葉は胸にしまいこんだ。
(失敗したら、なんて考えるな。大丈夫だ、青霧もウティア様も、レーナもいる。ちゃんとやり遂げて、皆の所に帰るんだ)
ナナイスの事は任せろと、頼もしく送り出してくれた両親の姿が瞼に浮かぶ。オルドスでやきもきしているであろうマックとネリスの顔も。四年前からずっと同じ道を歩んでくれたプラスト、確執を越えて協力してくれたヴァルト。三年の間に増えた街の人々。またその中に戻りたいから、今度こそ安心して暮らしたいから、
(だから行くんだ)
災厄を鎮めること自体が目的なのではない。鎮め、その脅威から自由になって、ナナイスへ帰る為だ。
ゆっくり深呼吸して心を落ち着かせる。
それを待っていたように、ウティアが静かに声をかけた。
「では、取りかかろうか」
気負いも緊張もなく、彼女は竜侯たちを呼び集めた。片付けられた平岩の上に、今は乾かした苔が敷かれている。四人はそこに横たわり、各々が隣の者と、手や腕を軽く触れ合わせた。互いを見失わないようにするためだ。
「はじめは竜に任せておけ」
ウティアの指示を聞きながら、フィンは目を閉じた。
同時に、レーナの存在が強まるのを感じた。絆を通して、己の意識が『向こう側』へ引き込まれてゆくのが分かる。むき出しのままの人間の意識は、そのことに恐怖し、混乱し、抗った。
絡みつく糸のように、竜の意識がそれを封じ込めてゆく。フィンの意識の表層に、レーナの意識がするりと入り込み、少しずつ溶け合って、両者のまじった層を作る。
次第にその状態に慣れてくると、フィンは気付かぬ間に竜と人間双方の意識を共有していた。フィニアスという人間ではなく、ディアエルファレナという竜でもない、曖昧な存在として、彼は難なく地上と天界を隔てる膜を通り抜けていた。
そこには、普通の人間が考える『物体』は一切なかった。婚礼の夜に経験した、海とも空ともつかない不思議な場所――だがその中に、驚くほど多種多様な存在がひしめいている。小さな精霊達、意思さえ持たない微かな力、かと思えば遠くに竜の一群が巨大な力の渦を成している。
すべてが近くにあり、遠くにあった。意思が定まらなければ漂うだけとなって、別の何かに溶け込んでしまいそうだ。
と、袖を引かれるような感覚がして、フィンはそちらへ意識を向けた。三人の竜侯の意識が、それぞれの竜に守られて存在している。
〈フィニアス、エレシア〉
ウティアの声が人間としての意識を呼び戻した。
〈竜を守ってやれ〉
短い言葉だったが、フィンは理解して、レーナの精神を自分の奥に包み込んだ。溶け合った層を表に、その内に人間の意識を、一番内側に竜を。
同時に、闇の力が大きく広がって覆いかぶさってきた。レーナの光が小さくなり、そばでゲンシャスの炎も弱まる。闇と相反するふたつの力を緩衝するように、ウティアの気配が浸透してきた。
移動したという感覚はなかったが、フィンは気付くと、強大な力の網の前にいた。
今それは皇都を覆うようにではなく、底なしの暗い穴を塞いでいると見える。周囲に近寄る存在は、自分達のほかにはなかった。恐怖と飢餓と無が支配する、不毛の荒地だ。
闇が手を伸ばし、網目に触れる。
輝く糸が震え、わずかに隙間を広げた。そこへ闇が入り込み、少しずつ少しずつ、時間をかけて内側に移動してゆく。
フィンは不思議に落ち着いていた。そこが恐れるべき危険に満ちた場所だと分かっているのだが、避けよう、逃げようという意志が働かないのだ。虚ろな飢えに喰われるつもりはないが、あえてそれに対してどうこうしようという気も起こらない、受容と諦めの感覚。
(これがナルーグの力ということか)
フィンは青霧の邪魔をしないように、ぼんやりと微かに考えた。自身のありようも、他者や環境についても、一切をあるがままに認めれば、恐れや怒りを抱くこともない。
そして、そうした平坦な意識は、“飢え”にとっては既に己が呑み込んだものと同じように映る。四組の竜と竜侯は、荒れ狂う飢餓の中にあってぽつんと取り残された、静かな無の一点となっていた。
だが、ただそうしているだけでは何も変わらない。いずれ見付かり、呑まれてしまう。
ウティアと竜が密かに動いた。
周囲の時間がもったりと重くなる。フィンの意識は、自分達が飢えの中心へ動いているのを知覚した。そこに、ひとつの意識の名残があることも。
いた、と考えたのが、誰だったのか。
刹那、その人間の意識が振り向き、彼らに気付いた。目と口を、かっ、と開いて、もはや人とは思えぬ巨大な顔が迫り来る――
……光が、まぶしい。
まばたきし、顔を下ろす。反射で輝く白堊の館から、男が一人、大事そうに何かを抱えて、きょろきょろしながらこっちへ来る。
「父上?」
盗人のような挙動不審に、子供は首を傾げて問いかける。と、男は人の良さそうな、気弱な笑みを浮かべて、子供のいる木陰に駆け込んだ。
「はは、あー、いやいや、良かった、持ち出せたぞ。セナト、昨日、見たいって言ってただろう」
説明不足の言葉にも、子供には、それが昨夜聞いた竜侯たちの物語のことだと分かる。ネーナの竜侯を始祖とするアウストラ一門にも、伝説の武器が残されているはずだ、と……だから、軽い気持ちでおねだりした。うちにも何か宝物はないの、僕にも見せて。
「見付かったの!?」
興奮して、子供は身を乗り出す。父親はにこにこしながら、両腕をほどいて、大事に隠し持っていたものを覗かせた。布にくるまれた、細長いもの。
「わあ……! 剣だね!」
「母上には内緒だぞ」
しいっ、と父親が指を立てる。
「物置部屋をあっちこっちひっくり返して、やっと見つけたんだ。後で片付けないと怒られるだろうなぁ。でもほら、ご覧、この館にもちゃあんと、由緒正しい名家の証が残されていたわけだ」
笑いながら、父親はそっと剣を芝生の上に横たえる。鞘は何度か作り直されたらしく、よくある平凡な革製で、既にぼろぼろになっていた。だが、柄は何で作られているのかわからない。不思議な模様が刻印されて、まるでそれが誘うように魅力的で、
「すごい、格好良い!」
引き寄せられるがままに、手を伸ばす。
小さな指先が触れかけたその瞬間、
「やめなさい!!」
稲妻のごとき叱声が耳をはった。手がびくんと跳ね上がった隙に、剣がさっと奪い取られる。見上げると、鬼のような形相の女が、剣をしっかと握り締めていた。
――恐ろしい。
「ご、」
ごめんなさい、の一言が、かすれて喉につかえる。ばつの悪そうな父親の姿など、眼中にない。子供が見ているのは、視野いっぱいにそびえ立つ母親だけ。
竦んでしまった子供には目もくれず、母親は剣を布できっちりと幾重にも包み直した。そして、父親を憤怒の視線で射抜き、次いでこちらを見下ろす。
――ああ、僕の番だ、怒られる。
「触らなかったでしょうね」
「ごめんなさ……」
「触っていないわね!?」
「はいっ」
縮こまった子供に、母親は厳しいまなざしを注ぎ、それから――
「はあ……」
深い、深いため息。
――ああ、また母上に嫌われた。やっぱり、僕のこと嫌いなんだ……
(そうじゃない)
別の声がささやいた。
子供はふと顔を上げ、涙に濡れた目で、もう一度母の姿を見る。
鬼のようだ、怒りと失望の表れだと思っていた厳しい顔が、こちらを振り向いて、少し緩んだ。安堵と微かな心配、不安と恐れが、目元に滲んでいる。
子供は驚きに目をみはった。怖くて大きな存在だった母親が、自分と同じく怯えているのが分かったからだ。剣をしっかり抱いた手が、震えている。
(あれは危ないものだから)
――母上、僕が怪我すると思ったの……?
だったらどうして、もっと優しくしてくれなかったの。
(不器用な人だったんだ)
でも。大人なのに。
(寂しい?)
……うん。
(母上が好きなんだ)
…………うん。
怖いけど、好き、……だったんだ、本当は……




