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灰と王国  作者: 風羽洸海
第四部 忘れえぬもの
171/209

6-7. 魔術の檻


 骨と皮だけになった軍団兵が鎧兜を着けたまま、闇の中に浮き沈みしつつ押し寄せてくる。金属の触れ合う重い音。骨がこすれて折れる、乾いた音。そして、飢餓の軍勢を率いる、有無を言わせぬ声。

 ――寄越セ……ヨ コ セ……

 地位と名誉を、権力を。社会と人々を意のままにする、最強の支配力を。

 ――儂ノ モノ ダ……!

 もう誰からも指図などされない、陰口も叩かせない、蔑みの目を向けさせはしない。

 どす黒い歓喜に沸き立ちながら、濁った闇が雪崩を打って皇都の城壁に迫る。閉ざされた門に取り付き、打ち壊し、通りへ流れ込む。イチジクや石榴といった庭木も、置き去りにされた酒の甕や道端の鉢植えも、瞬く間に闇に呑まれてゆく。人が生活していた名残、その最後の一欠片まですべて。

 見る見る覆い尽くされてゆく皇都の周縁で、小さな光が次々に灯った。

 引っ張られる感覚が強まり、フィンは意識せぬままタズの腕をがっしと掴んだ。痛そうにしかめられた顔を、見ることも出来ない。

 大地に埋められた小さな魔術具から、神々の、竜の、精霊の力が、糸となって紡ぎだされてゆくのが分かった。

 輝く糸がひとりでに編み上がり、皇都を覆う巨大な網になる。

 飢餓の渦が憤怒の叫びと共に大きくせり上がった。だが、網には届かない。直接触れることも出来ず、自らとは完全に相反する強大な“世界”そのものの力を受けて、跳ね返され、沈んでゆく。

(あと少し……!)

 無意識にフィンは網を構成する力に同調していた。無理やり力を引き出される痛みは、かつて味わったことのない不快感を伴っている。だが人間としての彼の意識は、その必要を理解し、ひたすら耐えていた。

 糸を紡ぎ、編み上げ、端から閉じて。ついに、最後の結び目が作られた。

「……っ!」

 はあっ、と大きく息をつき、フィンは脱力してその場に座り込んだ。タズが赤くなった腕をさすりながらも、屈んでフィンを気遣う。

「大丈夫か、おい、どうしたんだ?」

「魔術が……発動、したんだ。力を……」

 フィンは頭を振り、切れ切れに答える。数回深呼吸してから、やっと彼は落ち着いてタズを見上げた。

「とにかく、成功した。“飢え”は皇都に閉じ込められたよ。あれだけ強力な網なら、破られることはないと思う」

「こんなに離れてるのに、都のことが分かったのか」

 タズが驚き呆れた声を上げる。そこに恐れの含まれていないことが、フィンには嬉しかった。無理やり引き出されて乱れた力を、ゆっくりいつもの状態に鎮めて体に巡らせながら、慎重に立ち上がる。

「距離は問題じゃないんだ。竜や精霊の力は、別のところでつながっているから……大きな魔術がそうした力を使えば、つながっているものは皆、それを感じる。俺の場合はレーナを通じて、ってことだが」

 話しながら、意識の中でレーナを優しく撫でてやる。力の化身と言っても良い竜や精霊にとって、魔術の作用とは、人間の心臓から管で血を抜くようなものだ。レーナはフィンとの絆によって多少は保護されているが、それでもぐったりしていた。

〈たくさん……精霊が、吸い込まれたわ〉

〈ああ。俺にもなんとなく分かったよ。魔術があんなに酷いものだなんて〉

 フィンは本心から言った。だが同時に、あの術の凄まじい威力に感嘆してもいたのだ。

 魔術は残酷で容赦なく、使い方を誤れば世界そのものを脅かす、それは紛れもない事実だ。しかし、あの“飢え”を封じるには他に方法はなかった。地上にいる竜侯が全員協力したところで、同じ事は出来なかっただろう。

 嫌悪と恐怖を抱きながらも、必要を認めざるを得ない。それはフィンが人間だからというより、天界に逃げ込めない地上の生き物である宿命だった。

 そんな彼の意識を、レーナも漠然と感じ取り、理解した。

〈でも……必要だったのね。ああしないと……皆、あれに呑まれてしまうから〉

 辛そうに言って、口をつぐむようにふつりと意識を閉ざす。フィンは黙っていた。竜であるレーナには受け入れ難いことを、今、彼女なりに咀嚼しているのだろう。邪魔はすまい。

「念の為に、少し北へ戻って様子を確かめてくる。大丈夫、近付き過ぎないように気をつけるさ」

 フィンは案じ顔のタズに言い、セナトに一礼してから、ややおぼつかない足取りで市庁舎を後にした。


 オルヌ河沿いに上流へ遡って飛ぶうちに、異変が肌で感じられるようになった。

〈静かだな〉

 以前マズラ地方でレーナが言ったことを思い出し、フィンは眉をひそめた。日頃は無意識に感じ取っている精霊の活動が、今は意識してもうっすらとしか分からない。代わりに、北で活発に脈動する力の気配がある。そして、地を這い進み来る灰色の影のささやきが。どうやら予想通り、いくらかは皇都の罠にかからず逃れたものらしい。

 皇都が視界に入ると、フィンとレーナは揃って身震いした。すっぽり街を覆う光の網にもぞっとしたが、その内側で荒れ狂う飢餓の激しさはクォノスの比ではない。

〈大丈夫かしら〉

 魔術に嫌悪を抱くレーナでさえ、思わず術の強度を心配するほどだった。

〈今のところは、破られそうにないが……〉

 フィンは確信を持てずに言葉を濁す。それから周辺に目をやって、はっとなった。皇都からオルヌ河を少し下ったところで、岸辺に人が倒れていたのだ。ちらちらと身体にまとわりつく微かな光は、本人の精神から生じるものではない。魔術の残滓だ。

 フィンは安全を確認してから、気が進まない様子のレーナをなだめて、地上に降りた。

「オルジンさん!」

 かたわらに膝をつき、呼びかける。魔術師はひどく衰弱していたが、フィンの声に薄く目を開け、微かな息をこぼした。

「どうやら……成功、ですな」

「ええ。でもあのままで、本当に“飢え”が自滅するまでもつかどうか。とにかく、安全な場所までお連れします。急がないと、罠を逃れた影に囲まれてしまう」

 本体に比べれば弱々しいものの、灰色の影が相変わらず行き会うすべての命を貪りながら、進み続けているのだ。カサコソとささやく声がフィンの耳に届く。

 ヒモジイ……オクレ……喰ワセテクレ……欲シイヨ……

 勢いを削がれたからか、“飢え”の声は子供のような気配に変わっていた。脅威は減じたが、不気味で恐ろしい点は、前と大差ない。

 すぐにも抱き起こそうとしたフィンに、オルジンは皮肉な苦笑を浮かべた。助けに来るなと釘を刺しておいたのに、と言いたげに。だが口にしたのは、別の言葉だった。

「竜は嫌がるでしょう」

「それは……」

 うっ、とフィンが詰まる。彼がお伺いを立てる前に、レーナがふわりと人の姿で現れ、代わって答えた。

「あなたは好きじゃない。あんな恐ろしいことをしてしまう、魔術師なんだもの。あの力の網には寒気がするわ」

 率直な非難だが、人間が同じように言う時ほどの嫌悪や憎しみは、声にも表情にもあらわれていなかった。レーナはただ悲しげに首を振った。

「でも、あなたが封じた“飢え”は、もっと怖い」

「人間には、毒をもって毒を制す、という諺があります」オルジンは微かな揶揄をこめて応じる。「人間は危険な毒にも、恐れと憧れを抱くもの。力を求め毒をもてあそび、恐怖と手を取り合って踊るのです。その最たる魔術師など、捨て置かれて結構」

「いいえ。嫌だけど、あなたを連れて行くわ。だってフィンが、あなたを助けたいと願っているから。フィンの大事な人達が、あなたの力と技を必要としているから」

 言うとレーナは大きく翼を広げ、本来の姿に戻った。

 空に舞い上がると、オルジンは気が緩んだのか、再び目を閉じて意識を失った。

 フィンはもう一度、地上に目をやって、力の網が緩んでいないことを確かめる。その下で暴れ狂う“飢え”がいつになったら鎮まるのか、見当もつかなかった。

 と、沈みかけたフィンの心に、レーナがそっと触れてきた。優しく柔らかな光を受け、フィンはいつの間にか自分まで、飢餓の影響を受けていたことに気付く。

〈ごめん、ありがとう。ちょっと近付きすぎたみたいだな〉

〈ええ。私も少し疲れてしまったみたい。ねえフィン、その人を下ろしたら、久しぶりに遊ばない?〉

 目的や用事があって飛ぶのではなく、ただ気の向くままに、太陽の光を思うさま浴びて空を翔る。レーナが好きな遊びだ。フィンは口元をほころばせ、そうだな、とうなずいた。

 海の上を飛んで、どこかでちょっと泳ぐのもいいかもしれない。本国側の海は北部の海とは表情が違うし、面白いだろう。

〈ネリスとマックを見つけて、一緒に沖合いまで出てみようか。陸地のごたごたは棚上げにしておいて〉

〈賛成!〉

 途端にレーナが宙返りしそうなほど喜んだので、フィンは慌ててオルジンの体を押さえるはめになった。レーナが恐縮した気配を送って寄越し、フィンは笑いをこぼす。

〈はしゃぐのはいいけど、俺達には翼がないってこと、忘れないでくれよ〉

〈人間って本当に不便なのね。でも、フィンが一人で飛んでいってしまったら寂しいから、不便で良かったのかも〉

 翼があっても君を置き去りにしたりはしないよ、とフィンは応じかけ、流石に気恥ずかしくなってやめた。途中で思いを閉ざされたことに気付き、レーナが〈なあに?〉と首を傾げる。

〈なんでもない〉

 フィンは気をそらし、なんとなくレーナの背中をぽふぽふ叩いてごまかした。が、しかし。

 しばらく飛んで、照れくさいのも忘れた頃になって、レーナが不意に言った。

〈私もフィンを置き去りにしないように、気をつけるわね〉

〈聞こえてたのか!?〉

〈なんとなく分かっただけ〉

 レーナが嬉しそうに、くすくす笑いをこぼす。フィンはやれやれと天を仰いだ。

 夏の空はどこまでも深く青く、何のごまかしもきかないほどに澄んでいる。まさに、天竜そのもののように。

〈君には敵わないな〉

 降参だよ、とフィンは心中で白旗を振ったが、気分は悪くなかった。


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