6-6. オルドス
暗い影に触れられた端から、草木が枯れてゆく。くしゃくしゃになった葉、ぼろぼろに崩れた幹、それらと共に土が乾き、粉々になってゆく。
丹精込めて耕された畑も、収穫を間近に控えてつややかに光る葡萄の房も、かつて牛や馬が青草を食んだ牧草地も。すべて、命の気配など微塵もない荒地に成り果てて。
人のいなくなったナクテの街にも、“飢え”は辿り着いた。庭園の色とりどりの花が、形を整えられた樹木が、見る見るうちに色を失ってゆく。葉が落ち、枝が萎びて折れる。
逃げ場のない生簀で鯉が狂乱する。暗闇が重みを持つもののように、生簀の縁にのしかかってひびを入れた。水が土に染み出し、浅くなった底で鯉が跳ねたのも束の間、じきにぴくりとも動かなくなり……干からびて、ぽそりと崩れた。
飢餓の手は南にも伸びていた。オルヌ河を干上がらせることは出来ずとも、至る所に人間のかけた橋がある。向こう岸の豊かな生命を目指して、橋を渡り、さらに拡がってゆく。
だが、その行く手が阻まれる時が来た。
桁違いに濃密な生命の垣が、貪欲な飢餓の前に立ちふさがったのだ。
暗い影は、貪り続けた。巨樹の幹にとりつき、梢の葉をむしり、枝を枯らしてゆく。だが、喰らっても喰らっても、新たな命が芽吹く。
それでも、飢えは収まらなかった。さらに喰らい、貪り続ける――
人、人、人、見渡す限りどこもかしこも人でごった返している船着場に、新たな船が着き、また人を吐き出す。オルドスは目下、人口過密状態にあった。
「これが最初の知らせ通り、櫂船競争の見物人なら良かったのにねぇ」
商店の女主人がぼやき、地元の客も眉をひそめて首を振る。
「気前よく金を落としてくれるわけじゃなし、今となっちゃ金よりモノが足りなくて、あたしらの分までなくなっちまってさ」
「中部の今年の収穫は全滅だってことだろ? どうするのかねぇ」
「あっちから分けて貰うしかないだろ。東部のほら、竜侯……」
「エレシア様? どうかねえ。まぁ皇帝陛下が土下座すりゃ、お情けぐらいはかけてもらえるかも知れないけど。こっちも売り物がなくちゃ、商売になりゃしないよ。参ったねぇ」
ぼそぼそと交わされる不満のつぶやきは、ここだけのことに限らなかった。避難民と地元民の軋轢は、そこかしこで始終小さな火花を散らしている。全員を受け容れるのは不可能だと早々に判断した市議会は、シロスなど他の沿岸都市にも避難民を振り分けていたが、それでも人口は常の倍ほどに膨れ上がっていた。
上空からそんな街の様子を眺めていたフィンは、まったく別の次元で困っていた。
「降りられる場所がないな……」
「どこもぎゅうぎゅうね。でも私、ぶつかる前にちゃんと姿を変えるから大丈夫よ? 人のいない所に降りたら、街までかなり遠そうだもの」
「そうみたいだな」
今もまだ北から逃れてくる人々が、街の外に列成している。市壁の内側にも入れず、そのまま外でにわか集落を作っている一団もあるほどだ。充分な空間のある場所に下りるとなったら、相当離れなければならない。
「仕方ない、広場に降りよう」
フィンは諦めて、いまや言葉上だけの広場を指した。広いどころか、まったくもって竜の巨体には狭苦しい場所だったのだが。
真っ白な翼がはばたき、つむじ風が巻き起こる。広場にいた人々は顔をしかめ、頭上に差した影を見上げて、ぎょっとなった。どよめきが混乱を引き起こす前に、レーナが姿を消し、フィンはいつもより少し高い位置から飛び降りる。上手く降りられてほっとする間もなく、群集がわっと押しかけてきた。
「竜侯様! 皇都はどうなったんですか!」
「皇帝陛下は!?」
「これからどうなるんですか!!」
口々に叫びながら詰め寄る人々、その後ろから答えを聞こうと身を乗り出す人々。押された人垣が倒れかかり、フィンは潰されそうになる。
「わっ! ちょ、ちょっと待っ……危ない!」
フィンはかろうじて踏ん張ったが、一番前にいた男がよろけて前のめりになった。その子供だろうか、すぐそばいた子供が、ひきずられて倒れこむ。小さな足を、父親の足にひっかけたまま。
〈まずい! レーナ!〉
咄嗟にフィンはレーナに呼びかけた。同時に竜の力を引き出し、レーナの翼を意識して身にまとう。あたかも、自身に翼が生えたかのように。
ぶわっ、と、風が巻き起こった。フィンの足元を中心に、外へ向かって。
「――!!」
全体がフィンに向かって傾いていた群集が、風に押し返されて外側へ開く。倒れるほどの強風ではなかったものの、誰もが半歩ばかり後ずさった。
我に返った人々の目に、うっすらと光に透ける翼が映った。子供を抱きとめた竜侯を守るように包み込む、白い翼が。
ぽかんと開けられた口が閉じるより早く、翼は薄れて消えた。
フィンはほっと息をついて子供を離し、大丈夫か、と確認した。返事もそこそこに、子供は慌てて父親の背後に隠れる。フィンは複雑な気分で姿勢を正し、ぐるりを見回した。
「落ち着いて下さい。皇都は今、ほぼ無人になっています。もうしばらくしたら、最後の船が着くでしょう。皇帝陛下もその船で来られます。これからどうなるかは……俺にも分かりません。失礼、通して下さい」
いつもと同じ、冷静な口調でそれだけ言い、彼は人垣をかきわけて市庁舎へ向かった。
市庁舎の衛兵は広場での騒ぎを見ており、群衆にまた追いかけられない内にと、すぐにフィンを通してくれた。ついでに小セナトの居場所も教えてくれたので、フィンは礼を言ってそちらへ急ぐ。取り次ぎ役の書記らしき役人が、先に小走りで奥へ消えた。
フィンが応接室に着いた時には、既に歓迎の準備が出来ていた。彼が何を言うより早く、タズがほとんど体当たりのように飛びついてきたのだ。
「いよう、フィン! 無事だったか!」
相変わらず屈託のない陽気な声で挨拶し、ばしばし腕を叩く。フィンは苦笑し、お返しとばかり拳を肩にぶつけてやった。
「そっちも、元気そうで良かった。案の定、シロスで大人しく待ってなかったな」
「オルヌ河に入らなかっただけマシだと思ってくれよ。あっちも避難民でごった返してたんだけど、オルドスの方が人が多いって聞いてさ。船長が、だったら、って……おかげで積荷はあっという間に完売だよ」
「積荷?」
「小麦だの麻布だの、生活物資さ。絶対こっちで品薄になるから、ヴェルティアやコムリスに寄って買い占めてきたんだ。あ、心配しなくても、北部がすっからかんになるほど無茶な買い方はしてないぞ。船長はやりかねなかったけど、俺が止めたんだ」
「すっかり交易商人だな」
フィンが言うと、それまで二人のやりとりを聞いていたセナトが苦笑いで口を挟んだ。
「おかげで助かりました。ずいぶん高く売りつけられましたけどね。久しぶりの再会だっていうのに、開口一番、財布は詰まってるか、なんですから。タズは友情よりお金が大事のようですよ」
「待てこら、お坊ちゃん。そもそもおまえが『何の用?』とか抜かすからだろうが。ちっとは喜んでくれりゃ、俺だっていきなり商談切り出したりせずに、感動的な場面を演じてやったのに。背丈と口ばっかいっちょまえになりやがって、本っ当、可愛くねえ」
「タズに可愛がられても嬉しくないよ」
「ほら見ろ! 聞いたかフィン、恩人に向かってこの態度! 俺は悪くない、だろ!?」
「…………」
同意を求められて、フィンは曖昧に小首を傾げた。笑い出さないように堪えるのが難しい。彼の心中をネラが代弁してくれた。
「どっちもどっちですわね」
「あー、ネラさんまでそんなことを……」
「タズさん、そのぐらいで。フィニアス様は御用がおありでいらしたんですから」
諭されてタズは情けない顔になり、渋々引き下がった。じろりとフィンを睨んで、「おまえは様付けかよ、御貴族様め」などと八つ当たりするのは忘れなかったが。
フィンはどうにか真面目な態度を取り繕い、ごほんと咳払いして切り出した。
「セナト様、まもなく皇都からの最後の船が着きます。皇帝陛下もご一緒です」
「無事に皆、避難させられましたか。“飢え”はどの辺りまで来ていますか?」
セナトもすぐに、表情を改めた。フィンはちらっと宙に目をやり、感覚の糸を辿ってから答える。
「もう……間近ですね。今日中には皇都に到達するでしょう。実は、あの魔術師が皇都に罠を仕掛けています。うまく行けば、“飢え”の大部分を封じ込められる筈です」
「なんですって!?」
途端にセナトが気色ばみ、タズとネラもあからさまに眉をひそめた。フィンは彼らの不信を痛いほど感じながら、話を続ける。
「不安に感じられるのも無理はありません。彼自身も、上手く行くかどうかはやってみないと分からない、と言っていました。ただ、狙い通りに罠が働けば、底なしの飢えそのものがまともに沿岸部までやってくることはありません。何もなくなって自分自身を貪るほかなくなるまで、皇都に閉じ込めてしまえたら、船で沖合いまで逃げる必要はなくなる……」
そこまで言った時、不意にフィンはうなじの毛が逆立つような感覚に襲われた。背骨から首まで、熱の塊が走り抜ける。
「つっ……!!」
思わず声を漏らし、彼は手でうなじを押さえた。熱は首から頭蓋骨を通り、フィンの内奥から力を引っ張り出したまま抜けてゆく。歯を食いしばって耐えるフィンの脳裏に、おぞましい光景が閃いた。




