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灰と王国  作者: 風羽洸海
第一部 北辺の闇
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3-1.再出発


   三章


「よし、それじゃ……全員揃ってるな? 行こう」

 フィンが確かめ、マックがうなずく。子供たちは各自が少しずつ水と食糧を持ち、二頭の馬はかろうじて無事だった荷車につながれていた。人間同様、馬たちもあまり良い状態ではなかったが、ネリスが話しかけると従順に歩き出す。御者が要らないのは幸いだった。少しでも多くの食糧を積めるからだ。

 イグロスはまだ不満げだった。最終的には彼も、ここに留まったところで未来が開けるわけではないと認めたものの、それ以来ずっと、苦い薬を無理やり飲まされたような顔をしている。少しでもきっかけがあれば、だから残ると言ったんだ、とフィンを責めるだろう。

 それに比べると、彼の姪っ子ファーネインや、マックはじめ子供たちは聞き分けが良かった。闇の獣に出くわす事なくウィネアまで行けるかもしれない、と聞くと、まずマックが食いついてきた。単なる楽観ではなく根拠があると分かると、彼は子供たちの説得に当たってくれたのだ。ここから出てどこかに行かなければならないことは、彼も察していたのだろう。

 町で集められる限りの食糧をかき集め、二頭の馬が引けるだけ荷車に積んで、一行は到着から二日後の朝に出発した。

 子供たちも最初は全員が歩いた。小さな足に合わせて進むのは、大人にはかえって疲れるのだが、さりとておぶって行けるほどの余裕はない。馬もそんなに速くは進めないので、一行の歩みは遅々としたものだった。

 それでも、夕刻にはレーナの言っていた場所に辿り着けたので、フィンはホッと安堵の息をついた。道端に青いツユクサの花が咲き乱れ、かつて農地だった草むらの中に井戸が残っている。

「あ、鹿」

 子供の一人が茜色の草地を指差し、皆がそちらを振り向く。森のすぐ外に、この春生まれたばかりであろう仔鹿が佇んでいた。まだ恐れを知らない、無垢な瞳でどこか遠くを見ている。

 キュィィ、と親鹿の呼ぶ声が遠くから聞こえた。仔鹿の耳がピクッと動き、ぴょんと跳ねて森の中へ戻っていく。

「……おうちに帰るのね」

 ファーネインがつぶやいた。おうち、という言葉に郷愁を呼び覚まされ、黄昏が子供たちの心にも降りて来た。フィンも茫然と森を眺め、随分遠くになってしまった我が家を思った。潮騒がいつも聞こえていた家。風車が回り、臼が粉を挽く音。町から戻る時、目にしていつも温かい気持ちになった景色。いつかまた、同じ気持ちであの道を歩くことがあるだろうか。

 しんみりした一行を励ますように、「さあさあ、手伝って」とファウナが声を上げ、食事の支度を始めた。井戸から水を汲み、枯れた枝や草を拾い集めて火を起こす。挽いた麦はもうないので、鉢と突き棒で粗く脱穀し、炊いて粥にするしかない。ファウナの指示で、少し年長の子が率先して手伝い、年少組の世話をする。子供たちだけで暮らしているうちに、自然と序列が定まったものらしい。

 出来上がったのは、豆と野菜が少しずつ入っただけの、味もするかしないかの粥だが、それでも子供たちは貪るように食べた。一日歩き通しでくたくただし、少なくともこれはちゃんとした粥だ。

 粗末な夕食と後片付けが済むと、子供たちは草の上に毛布を敷いて、身を寄せ合って眠りについた。ぐずる子は一人もいなかった。そんな余力もないのだろう。

 焚き火が消えそうになっているのに気付き、ネリスが角灯に火を移した。その光を頼りに、ファウナが寝入った子供たちの足をひとつひとつ裏返し、血豆や水ぶくれができていないか、怪我していないか、状態を確かめている。

 フィンとイグロスは抜き身の剣を傍らに置き、周囲の物音に耳を澄ませていた。

「……今夜は出ないようだな」

 ややあってイグロスが言った。フィンもうなずき、空を仰ぐ。雲が少し出ているが、雨は降らないだろう。ありがたい。

 最初の当直の夜以来、そのままいつもフィンが先に見張りをし、イグロスは眠るというパターンが続いていたので、今夜もいつも通りもうすぐ寝るだろうと思っていたのに、彼はまだ動かなかった。フィンが怪訝に思って、交代するのかと訊きかけた時、イグロスは低い声で言った。

「これからも奴らが出ないことを祈れよ。いいか、もし一度でも獣に襲われたら……その時は、俺はおまえを助けない。ほかのガキどもだって知ったこっちゃない。おまえを獣に食わせてでも、俺はファーネインを連れて逃げるからな」

「――っ! あんたって人は……」

「俺はテトナに残ると言ったんだぞ、忘れるなよ。柵も、安全な神殿もあって、どうにか生きていける可能性があったんだ。それなのに、おまえが全員連れて行くと言い張った。おまえの責任だ」

 腹の立つ言い方だが、それでも事実には違いない。フィンが黙っていると、イグロスは感情のない声で、脅すようにゆっくりとささやいた。

「いいか、もし俺が先にくたばっちまったら……おまえが、絶対に、ファーネインを安全なところまで連れて行くんだぞ。おまえはそうする責任がある。誓え、必ずそうすると」

 フィンは愕然としてイグロスを見つめた。身勝手にもほどがある。フィンを助けないと言っておきながら、自分が死んだら後の責任を負え、だとは。

 だがフィンは怒れなかった。イグロスは真剣だ。論理が利己的だろうとなんだろうと、彼なりに必死なのだ――生きることに、それにもまして幼い姪を助けることに。

「分かった。誓うよ」

 厳かにフィンが右手を上げて誓うと、イグロスは少し緊張の緩んだ様子で、黙ってごそごそと子供たちのそばに行き、横たわった。

 フィンは暗い空を見上げながら、じっと考えていた。

(――もし俺が死んだら)

 考えたくないことだったが、考えなければならない。今この北の地に生きる人々は、誰しも例外なく、明日の命さえ保証されていないのだ。

(誰かに後を託さなければ。誰に……?)

 考え込んでいると、ふといつの間にか視界に柔らかな光が灯っていた。ハッと顔を上げ、フィンは笑みを浮かべる。レーナだ。

「こんばんは」

 遠くから挨拶が届く。フィンは目をしばたいたが、自分が皆と近すぎるのだと気付き、静かに立ち上がって野営地から離れた。

 レーナはいつもの笑顔ではなかった。フィンの不安が伝染したように、悲しげな雰囲気をまとっている。フィンは強いて心を平静に保ち、笑みを作って地図を取り出した。

「君のお陰で無事にここまで来られたよ。また案内を頼めるかい?」

「……ええ。明日はね……」

 レーナは言いながら周囲を見回し、地図を指でなぞる。ここまでは大丈夫、でもここは駄目、と指示を貰い、フィンはその場所の地形を頭に叩き込んでから地図をしまった。

 話が途切れると、フィンはじっとレーナを見つめた。その憂い顔を見ていると、自分が何を言うべきかが分かった。

「レーナ、こんな事を頼むのは、気が進まないんだが……俺がもし、こうして君と話すことが出来なくなったら」

 はっ、とレーナが息を飲む。見る見るその目が潤みだした。慌ててフィンはレーナの肩に手を置き、優しく掴む。

「大丈夫、もしもの話だよ。でも、俺は皆をウィネアに連れて行くって約束したから、それを果たす責任がある。もし自分に何かあってもいいように、考えておかなきゃならないんだ。だから……落ち着いて聞いてくれ。いいかい?」

「…………」

 レーナは無言で小さくうなずいた。口を開くともう、今にも泣き出してしまいそうだ。フィンは彼女の肩を撫でてやりながら、言葉を続けた。

「もし俺が怪我をしたり、何かで……君と話せなくなったら、それでも、君には皆の案内を続けて欲しいんだ。ネリスとなら話せるだろう? それに、一人だけ起きている状況なら、おじさんやおばさんとも話せるよな?」

 こくん、とまたレーナがうなずく。

「後は多分、マックも指揮官として頼りになると思う。まだ子供だが、皆を一番うまくまとめられるから。何かあっても、今言った内の誰かは無事だろう。俺から君のことを話しておくから、頼むよ」

 フィンは言って、野営地を見やった。レーナがイグロスと話をしてくれるとは思えなかった。フィン自身は彼を憎んでも嫌ってもいないが、それでも、レーナが怒りや憎悪に触れると弱ってしまうというのなら、とても無理だろうと予測できた。

 残りの子供たちは、たとえ心が『きれい』でも、幼すぎてレーナの道案内をまともに聞けるとは思えない。第一、そんな子供しか残らない状況というのは……もはや絶望的だ。

 フィンがそんなことを考えながら振り向くと、レーナは金色の目にいっぱい涙を溜めていた。

「死なないで、フィン」

「大丈夫だよ」思わずフィンは苦笑してしまった。「何も今日明日の命だって言うんじゃないさ。俺だってそう簡単に死にたくはない。万一のための話をしただけだよ、だからそんな顔をしないでくれ」

 なだめながら、フィンはレーナの頬をそっとてのひらで包んだ。レーナが自分の手をそれに重ね、不吉な未来を消そうとするように目を閉じる。フィンは何を考えることもなく、ごく自然に身を屈め、そっと軽く唇を重ねた。

 それでようやく落ち着いたのか、レーナはフィンが手を離すのを止めず、すん、と鼻を鳴らしたものの涙を拭ってなんとか笑みを見せた。そして、ふわりと両腕を投げかけてフィンに抱きつく。

 ほとんど重みを感じさせないその体を抱きとめ、フィンはぽんぽんと背中を叩いてやった。大きな子供だな、とフィンが苦笑を漏らすと同時に、「あのね」とレーナが口を開いた。

「私には行く手に何があって何がいるか、見ることは出来るけれど……人の姿はあまり分からないの。いることは分かるけれど、私は夜の間しか出てこられないから……夜は皆、眠っているでしょう? だから……人がいるのが分かっても、それが良い人かそうでないかは、教えてあげられない」

 レーナが何を言わんとしているかに気付き、フィンは表情を改めた。少し身を離して彼女の顔を覗きこむと、真剣なまなざしが返ってくる。

「人間は怖い。だからお願い、気をつけてね」

「俺も人間だよ」

 フィンは苦笑し、また目を潤ませたレーナの額に、こつんと自分の額を当てた。

「分かってる。俺だけの命じゃないから、充分に気をつけるよ。……それにしても、君はまた随分と懐いてくれたもんだな。いったい何がそんなに気に入ったんだか」

 揶揄と自嘲のまじる口調になったフィンに、レーナは目をぱちくりさせた。小首を傾げてフィンを見つめ、きょとんとする。

「どうしてそんな風に言うの? フィンはすごくきれいよ」

「……それはどうも」

 駄目だこれは。諦め風情で、フィンはレーナの髪をくしゃくしゃと撫でた。そんな内心が分かったのか、レーナはじっとフィンを見つめて「本当よ」と強調した。

「人には分かりにくいかもしれないけど、私には分かるの。その“人”がどのぐらいきれいか、はっきり見えなくても分かるの。フィンはとてもきれい。だから私、あなたが」

 そこまで言って不意に我に返ったように、レーナは言葉を飲み込んだ。今度はフィンが目をぱちくりさせる番だった。

 あっと言う間にレーナは赤くなり、両手を頬に当てて棒立ちになる。

「レーナ?」

 なんなんだいったい。フィンが困惑している目の前で、レーナは一人おろおろとうろたえ、何もないのに周囲を見回し、はたとフィンと目が合うと動きを止めて、

「……っ、お、おやすみなさい!」

 いきなりそれだけ言って、文字通り、煙のように消えてしまった。

 取り残されたフィンは呆然と立ち尽くし、首を傾げる。どこかでフクロウがホゥと鳴いた。


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