表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰と王国  作者: 風羽洸海
第四部 忘れえぬもの
169/209

6-5. 皇都放棄


 一方皇都では、混乱がいよいよ恐慌の兆しを見せ始めていた。

 評議員の多くは真っ先に逃げ出したが、皇帝その人を含め一部の議員名士らが残って対処を続けているお陰で、かろうじて暴動は起きていない。だが、疑り深い者が自分で、あるいは使いの者を出して、クォノス方面の様子を探ってきた結果、人々の間には皇帝が告知するよりも早く真相が知れ渡っていた。北西に向かった者は、そのまま帰って来ないか、戻った場合には例外なく恐怖に血の気を失い慌てふためいていたからだ。

 それだけではない。ネズミや野良猫、鳥や虫までが大挙して逃げ出し、飼い犬は怯えて鎖を引きちぎらんばかりに吠え立てるとあっては、本能の鈍った人間達も、恐るべき災厄の到来に気付かざるを得ない。

 いまや皇都の通りには営業している店など一軒もなく、街道には昼夜を問わず人の列が出来ていた。

 王宮もすっかり人気がなく、皇帝と言えども、ここ数日は自分で身の回りのことをしていた。つい先日ほとんどの使用人を、生活必需品や貴重品を積んだ船で、オルドスへ発たせたのだ。

「そろそろ大方の市民は退去したか」

 ヴァリスの問いに、カリュクスが疲労の色濃い顔で答えた。

「是と申し上げて良いかと存じます。現在も市内に残っているのは、家屋敷の後始末や監視を命じられた使用人達、あるいは……浮浪者の類だけです」

 カリュクスは一括りにして浮浪者と言ったが、内訳は様々だった。元から路上生活をしていた貧しい者の内、仲間や身内を持たず情報を手に入れられない者、様子がおかしいと気付いても対処する考えが働かない者、あるいは心身に病があって連れて行けぬと捨てられた者。社会の底辺にあって尚更に虐げられた人々だ。

「……捨てて行かざるを得まいな」

 ヴァリスは沈痛な表情で呻いた。彼自身が良心の痛みを感じるというよりは、養子セナトの責める顔が思い浮かんだゆえの苦渋だった。憐れな姿に成り果てたミオンを、セナトは見捨てず連れて行った。残酷な言い方をすれば、足手まといの穀潰しにしかならぬというのに、だ。

(全員は助けられない。今ここで既に見捨てられている者を強いて連れ出したところで、飢えか暴力に殺されるだけだ)

 それならいっそここに残して行く方が親切ではないのか。行政にはもう、彼らの面倒を見られるほどの力は、ないのだから。

 ヴァリスは暗いまなざしをカリュクスに向けた。

「では、我々も最後の片付けにかかるとしよう。家屋敷に残っている者には退去を急がせ、何かやり残した事があるにせよ、切り上げるよう命じてくれ。順次城門を封鎖し、無謀な市民が財産を取りに戻ることのないように警戒を」

「はっ」

 カリュクスは敬礼してから、遠慮がちに問いかけた。

「浮浪者については如何しましょう。一応最後に、退去の勧告だけはしてやりますか」

「人手があるのなら、そうだな……」

 するだけ無駄だが、とヴァリスは言葉を濁す。と、そこへ、

「何か、お手伝いしましょうか」

 率直な声が割り込み、悲観的な空気を払った。二人が振り返ると、フィンが一人で入って来たところだった。

「失礼、誰もいなかったものですから、勝手に入らせて貰いました。ほとんど皆、もう避難したようですね」

「フィニアス……無事戻ったか。グラウスには会えたか?」

 ヴァリスの問いかけに、フィンは東部での出来事を簡単に説明し、帰還の遅れを詫びた。

「あの“飢え”が動き出したのが感じられたので、すぐに皇都へ戻ろうと思ったんですが……拡がり方が意外に遅かったので、途中で何箇所か街に降りて警告を伝えていたんです。このまま変化がなければ、皇都に災厄が迫るまで十日前後は猶予があるでしょう。既にこれだけ人がいなくなっているのなら、一人残らず避難するのも充分間に合うと思います」

 一人残らず、と聞いてヴァリスとカリュクスが複雑な顔になる。二人の反応にフィンは眉を寄せたが、ヴァリスの口から最前の会話を知らされると、なるほどと納得してうなずいた。そしてすぐに、

「連れて行きましょう。自ら死を選ぶという人以外は、全員」

 迷いもためらいもなく言い切った。そのあまりの明快さに、ヴァリスは束の間ぽかんとし、次いで意味が分かっているのかと疑う目つきになる。

「しかし、日数に猶予があるとしても、彼らは足手まといになるだけだぞ。弱者を見捨てたくない心情は理解できるが、現実問題として、とても面倒を見きれない」

「憐みで言っているのではありません」

 フィンは首を振り、考えを整理してから訥々と言った。

「傲慢に聞こえるかもしれませんが……弱者がいると、良い結果を生む可能性もあると思うからです。おっしゃる通り、皇帝陛下や評議会の力で全員の世話をするのは、難しいでしょう。ですがせめてオルドスかどこかに避難させてやれば、他の人が助け合うようになる筈です。かつてナナイスでも、似たようなことがありました」

 治安の崩壊したあの街で、弱者は虐げられ奪われる存在であったが、同時にまた、不思議な互助関係を生み出してもいたのだ。弱者がいるからこそ、まがりなりにも軍団が務めを果たし、ネリス達が世話になったクナド家のように、自発的に助け合う場も生まれた。

「誰かを守ろう、助けようとする時、人は強くなれます。自分より弱い者がいれば、自分を哀れんでばかりはいられませんから。もし、今ここで彼らを切り捨てたら……多分また新たな弱者が生み出されるだけでしょう。そうなれば、最初から弱者がいる場合よりも、人の心が荒んでしまう恐れがあります」

「ふむ……一理ある。しかしフィニアス、彼らをオルドスなりシロスなりに運び、また路上に放り出して、誰も助けようとしなければどうなる?」

「その時は陛下や将軍をはじめ、高貴な方々の出番でしょう。少数ならナナイスでも受け容れます。北の僻地に移住したいと言うなら、ですが。ともかく避難させないことには始まりません。これから街を回って、人を集めてきます。船か馬車の用意をお願いしても構いませんか」

「明日には川下から船が戻る予定だ。ひとまずここへ連れてきてくれ」

 フィンがてきぱきと話を進めるので、ヴァリスもつられて決断を下す。ついさっきまで見捨てるつもりでいたというのに、我ながら現金なことだ、と彼は微苦笑した。カリュクスも同じく伝染したのか、やや表情を明るくして言った。

「では我々の方も、フィニアス殿と共に最終通告を行い、それが済んだらこちらに人手を回しましょう。私は南正門以外の城門を閉鎖してから、報告に参ります」

「うむ。頼む」

 ヴァリスはうなずき、ふと辛辣な笑みを浮かべた。

「皇都ディアクテの歴史において、戦いもせず街をすっかり空にして明け渡すなど、これが最初で最後だろうな。私は帝国の心臓をその手で抉り出した皇帝として、後の世まで語り草にされるであろうよ」

 自虐的な言葉に、フィンもカリュクスも、すぐには何とも応じかねて沈黙する。ややあってカリュクスが咳払いし、背筋を伸ばした。

「むしろ私は、面目や体裁にとらわれず市民の命を救った賢帝として、ヴァリス様の名が讃えられ語り継がれると確信しております。陛下、帝国は死に瀕しながらも、まだ息絶えてはおりませぬ。街が失われたなら、また新たに建てれば良いのです。我々皇都守備隊が守るのは城壁や都そのものではなく、そこに住む人々なのですから」

「……そうか」

 真摯な賛辞にヴァリスはやや面食らったような表情を見せたが、じきに寂しげな微笑に変わり、

「そうだな。ありがとう」

 珍しく率直な感謝を述べると、手振りで退室を促した。カリュクスが一礼し、フィンもそれにならって、休む間もなく王宮を後にした。

 外で待っていた守備隊兵士にカリュクスが指示を出し、各所の城門へ向かわせる。フィンはそれを見るともなく見ていたが、はたと思い出して問うた。

「カリュクス殿、城壁の外で魔術師を見かけませんでしたか?」

「魔術師? ああ、あの王宮に滞在していた老人ですか。そう言えば、ここしばらく見ていませんな。もうオルドスに避難したのでは?」

 カリュクスはさして気にかける様子もなく答えた。オルジンが皇都に罠をしかけている事は、今のところ、フィンと東部の一握りの面々しか知らない。皇帝さえも。彼を自由にさせているのなら良いが、仕事熱心な兵士が無理やり避難民の馬車に押し込んだりしていたら、面倒なことになる。

 フィンは竜の視力を使って、皇都の周辺を探ってみた。オルジンの気配は見付からないが、魔術の網は前に見た時と変わらず、静かに獲物を待ち受けている。

 ――喰われたくなければ、離れておいでなさい――

 不吉な忠告が脳裏をよぎった。災厄がうまく封じられるか気になるが、見届けられるほど近くに留まっているのは、いかに竜侯でも命取りだ。それに、空っぽになった皇都よりもフィンとレーナの放つ光の方が“飢え”を引き寄せてしまったら、仕掛け自体が無駄になってしまう。

(街を一回りして、それでも彼が見付からなかったら……川下へ飛んでみるか)

 今は自分の務めを果たさなければ。

 フィンは気持ちを切り替え、カリュクスと共に街を歩き出した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ