6-4. 動き出した災厄
絶え間なく、靴底が砂をこする音が続く。軍団の行進などではなく、いまやそれは巨大な一匹のナメクジのように、地を這い進んでいた。
巨体の下敷きにされた草が萎れ、色褪せ、空気さえも澱み濁って、光が力を失ってゆく。かつて軍団兵だった人間達は、意志を持たない抜け殻に成り果てていた。歩き続けるための生命力だけは残っているが、思考も感情もない。
同じように引き寄せられてきた野犬や狐なども集団に混じっていたが、そうした小さな生き物達はじきに息絶え倒れた。その上を、無数の足が踏んでゆく。命の最後の一滴まで奪われて枯れきった骸は、乾いた小枝と落ち葉で作られていたかのように、クシャリと潰れて塵になる。
――モウジキダ。アト スコシ……
声が呼ぶ。あと少しで、辿り着く。
地の底から、どろりと凝った闇が手を伸ばした。濡れて滴り落ちそうな先端が、岩の出っ張りに音もなくへばりつく。長く伸びた腕の下から、重く暗い貪欲な飢えが這い上がる。
岩が支えきれず、崩れた。
ズズッ、ゴゴゴ……ッッ
引きずられて、周辺の岩までが崩れ落ちる。底なしの淵へと。
地上に亀裂が走った。
ミシミシと、音を立てて亀裂が広がってゆく。北へ、南へ、東へ――西へ。
「クォノス……セナト、様……」
ほとんど声にならないつぶやきを繰り返していた先頭の男が、最後の一歩を踏み出した。その爪先が、亀裂の端に下ろされる。
刹那。
ごぼっ、と土が崩れた。男の体はそれでも前へ進もうとする。傾き、地面に倒れこみながらも、さらに一歩。しかしその足が、何かを踏みしめることはなかった。
――待ッテイタ
歓喜というにはあまりにもどす黒い、切望と渇きが噴出する。次から次へ、兵士に襲いかかり飲み込み、一切を貪り食っては、また次へ。
――待ッテイタ 我ガ チカラ イザ 都ヘ……
ひとつの意志が、抜け殻と化した軍団に染み込んでゆく。さらなる餌食を求めて自らをも貪りながら、飢餓の軍団は亀裂を越えて東へと溢れてゆく。
――ヒモジイ ニクイ 渇イタ……喰イタイ……喰ワセロ……
ざわめきがその後に続き、灰色の影が四方へと拡がりだす。既に虫一匹いなくなった荒野の向こうに残る、生命の兆しを目指して、
――寄越セ ヨ コ セ ……
一切を奪い取らんが為に。
微かな振動が、石造りの堅固な館を震わせた。
轟音も閃光もなかったが、まるですぐ近くに落雷したかのような衝撃を受けて、ルフスとフェルネーナはびくりと竦み、同時に窓を振り返った。一言もなく小さな窓へ駆け寄り、空を仰ぎ見る。曇ってはいるが普段通りの空に、フェルネーナがほっと息をついた。
「良かった。一瞬、天が裂けて落ちてきたかと思ったわ」
「いや……安心は出来ないようだよ」
ルフスが唸り、東を指差す。その先を目で追って、フェルネーナも身をこわばらせた。
暗い。
いくら曇り空とは言え昼間だというのに、あまりにもそちら側が暗いのだ。雷雲が集まっている暗さとも違う。
「あれは……何なの? あれが、あ……」
あなたの言っていた『災厄』なのか。そう問いたいのに、歯の根が合わなくなって言葉が途切れる。寒くもないのに、体は勝手に震えだした。
「怖い」
かすれ声でささやく。本能的な恐怖が氷雨のように力を奪ってゆく。膝からくずおれそうになったのを、ルフスが両腕で支えてくれた。
「しっかりするんだ、フェルネーナ。君はナクテの女主人だろう!」
思いやりのこもった励ましが、フェルネーナに義務を思い出させた。市民を避難させること、館の者達や幼い娘を守ることを。
我が身を強く抱いて震えを抑え、意志の力を呼び戻す。なんとか立ち直った彼女に、ルフスはよしとうなずいた。
「正直に言うと、僕もあれが恐ろしい。これほど離れていても、あれが危険だというのがひしひしと分かるよ。だからこそ、本当に安全な場所へ逃げなければならないんだ」
既に市民の大部分は、もっと西の都市へと避難している。西方に縁故や伝手がない者はまだ市内にいるが、いつでも出て行けるように荷造り済みだ。館の方もほとんど作業は終わり、あとは実際に出発するだけとなっている。
「ええ、そうね。南へ――オルゲニアの大森林へ」
フェルネーナは、その名を口に出して確かめた。名前だけにさえ力があるかのように、少し不安が和らぐ。ルフスがフェルネーナの肩をさすりながら言った。
「念のため、西へも知らせをやっておこう。もっと西へ、海岸まで逃げるように」
「あの異変がどの辺りまで見えるか、分からないものね。それじゃあルフス、使者を決めて最後の片付けを済ませたら、あなたも南門まで来て頂戴ね。私は先に皆を連れて行くわ」
「頼んだよ」
ルフスは妻の唇に軽く触れてから、走るような大股で部屋を出て行った。
それから間もなく、ナクテの街を囲む城壁の南門には、市民の長い列が出来た。フェルネーナに指揮された領主館の面々が先頭に立ち、銘々の家財や食糧を積んだ荷馬車を間に挟みながら、ざわつく市民が続く。誰の顔も恐怖にひきつっていた。
最初はルフスの言うことを真に受けていなかった人々も、東の空が暗くなったのを目にして考えを改めた。あれの正体がルフスの説く『飢え』だろうと、あるいは別の天災であろうと、とにかく危険であることに変わりはない。
フェルネーナは背後の鈍重そうな荷車を振り返って、眉をひそめた。出来るだけ身軽に動けるように、生活必需品以外の家財は諦めるように周知しておいたし、実際に門に集まった後で下ろさせた荷もある。道中で野に捨てるよりは、ここに残しておけば、いずれ取りに戻れるかもしれないのだから、と説得して。
それでもまだ、荷車は壊れないかと心配になるほど満載だった。女子供も老人も、自分が持てるだけの荷物を持っている。西の平野を突っ切って海まで行くより大森林の方が近いとは言っても、果たして間に合うだろうか。
やがてルフスが駆けつけ、よし行こう、と合図する。数少なくなった兵士が牧羊犬のように市民に付き添い、避難民の一団がゆっくり動き出した。オルヌ河に沿って走る街道を、上流、すなわち南西に向かって。
フェルネーナの心配をよそに、人々はせっせと足を動かしていた。時々後ろを振り返るのは、置いてきたものが気になるのではなく、東から伸びる影がそこまで迫ってはいないかという恐れゆえだろう。重い荷車を引くロバや馬も、恐怖が伝染したのか、彼らなりの本能で察しているのか、ひたすら歩き続けている。
フェルネーナも幼いエフェルナをおぶったまま、ちらちらと東へ目をやっていた。
(さっきよりも近付いているような気がする……いいえ、気のせいだわ、だってあの辺りはまだ……)
あまり自分が怯えていては、皆の恐怖心を煽るだけだ。そう分かっているのに、止められない。気を抜くと、少し前を歩くルフスの背にしがみつきたくなる。無意識に手が伸びかけたその時、
「お母さん、怖い」
泣き出しそうな小声が、後ろの方でこぼれた。振り返ると、幼い少女が母親の服を片手でがっちり掴み、残る片手を拳にして口に押し当てていた。母親が歩きながら腰を屈め、大丈夫よ、だから頑張って歩いて、と励ましている。
(お母様、か……)
フェルネーナの脳裏を、たおやかで病弱だった母アイオナの姿がかすめた。すぐにそれを押しのけて、祖母の姿が浮かぶ。常に毅然として威厳に満ち、死の間際まで館の支配者であり続けた強い祖母エフェルナ。彼女こそが、フェルネーナにとっては保護者であり母親だった。
アイオナは生来の性質がおっとりしていたせいもあるが、アエディウス一門から嫁してきた為に、ナクテにあっても常に“客分”扱いだった。フェルネーナを産んだ後でさえ。
控え目で優しくて、夫であるセナトに辛く当たられることもしばしばだった彼女を、姑のエフェルナが庇い慰める。そんな場面を、幼いフェルネーナは何度も目にした。弱々しい母親を不甲斐なく思ったこともある。
(私はアウストラ一門の女。母よりも強くならなければ)
フェルネーナはきゅっと唇を引き結び、しゃんと背を伸ばして前を向いた。
(良くも悪くも、私はお祖母様の孫で……あのお父様の娘なのだから)
父親の顔を思い出すと嫌悪感と苛立ちをおぼえたが、その怒りさえ、今は前へ進む力になった。あの暗闇のまさに生まれ来る場所にいた父が、無事な筈はあるまい――そう考えても悲しみは湧いてこないが、ある種の素直さは生まれた。
(腹立たしいけれど、あの人の血を引いているんだもの。どんな事態になっても揺るがないほど強情に、なれない筈がないわ)
嫌い抜いてきた父親の短所を、ようやくのこと自分の一部として認め、受け容れる。
それからはもう、フェルネーナは振り返らなかった。東の空を仰ぎ見て暗がりの位置を確かめることも、不安に目をさまよわせて逃げ道を探すようなこともしなかった。
休憩もほとんど取らないまま、歩き続けて一日。
太陽が西の地平に近付く頃、行く手に鬱蒼とした森が現れた。
「馬鹿な、こんな所に!?」
最初に黒々とした影に気付いたルフスが、驚愕して足を止めた。フェルネーナも目をみはり、現在地を確かめられないかと周囲を見回す。この辺りまでは、何度も来たことがあるはずだった。領主の娘として、家族と共に視察がてら村々の祭に顔を出したものだ。
その村のひとつに行き当たりもしないのに、もう大森林に着いたとは思えない。
どう考えたら良いのか分からず、フェルネーナは途方に暮れた。ルフスも警戒して立ち止まったまま、じっと考え込んでいる。が、やがてふと彼は思い出した。
「そういえば、彼が言っていたな。大森林の竜侯が手を打っているとか……これがそうなのか?」
独り言のようなルフスのつぶやきを聞きつけ、フェルネーナは一瞬、不可解げに眉を寄せた。彼というのが天竜侯のことだと察すると、今度は胡散臭い目になって森の影を見つめる。
大森林の竜侯と言ったら、神話の時代のフィダエ族ではないか。そんなものが本当にいるのだろうか。このまま進んで安全なのだろうか?
とは言え、選択肢は他に無かった。
「行きましょう、ルフス」彼女は夫の腕に触れて言った。「ここから西に向かう道はないし、ナクテまで戻って丸一日無駄にするわけにはいかないわ。向こうが出迎えてくれるというのだから、遠慮なく入らせて貰いましょう」
「……そうだな。それしかないか」
ルフスもうなずき、傍らの兵に合図して歩みを再開する。森に近付くほどに、その不自然さがはっきりと見て取れた。
この辺りではあまり見かけない種類の樹木が多く混じった、少なくとも数十年以上は歴史のありそうな森だ。地続きに存在しているはずなのに、樹木の根によって引かれた境界線はあまりにもくっきりとして、そこから先が別世界かのよう。街道も、ぶつんと断ち切られている。
「どこから入ったものかな」
さて、とルフスは木々の間を覗き込んだ。道らしい道は何もない。草や潅木はまばらなので、どこからでも入れると言えば入れるのだが、何の目印もなしでは、出てこられなくなるだろう。
獣道でもあれば良いのだが、と近くをうろうろして探したが、黄昏の弱い光では、あったとしても見つからない。
「朝まで待つか」
ルフスは思案しつつ、フェルネーナに相談した。
「このまま無理に入ったら、はぐれる者が出るだろうし、明るくなってからの方がいいだろう」
「そうね。でも……待って、ルフス、あれを」
フェルネーナがはっとなって、木立の間を指差す。ルフスも振り返って暗がりに目を凝らし、驚きの表情になった。
――明かりだ。
小さな明かりが、ゆらゆら揺れながらこちらへ近付いてくる。やがて、それに伴う足音が聞こえた。
「人がいるのか?」
まさか、とルフスがつぶやいた時には、明かりのそばにぼんやりと持ち手の姿が浮かび上がっていた。
見たことのない風変わりな衣装に身を包み、仮面で顔の半分を隠した、若い女。その唇が動き、風のささやきのような声を紡いだ。
「お入り下さい、ナクテの皆さん。私が森をご案内します」




