6-2. 炎と光
夕陽を背に受けて飛び、ノルニコム州都コムスが遠く見えてきた辺りで、フィンは地上の奇妙なざわつきに気付いた。戦闘が続いている様子はないのだが、かと言って静まり返っているでもない。
(おかしいな)
行く手に目を凝らし、微かな声に耳を澄ませる。切り立つ断崖の上にうずくまるコムスの街、その東側のなだらかな斜面に広がっているのは、軍団の野営地だ。
(包囲戦になっているのか? いや、違う……将軍はどこだろう)
自らが天竜の加護を施した相手なのだから、すぐに見付かりそうなものだが、野営地の中にそれらしい意識が感じられない。渦巻いているのは、失意と憤り、屈辱に満ちた怒りばかりだ。およそ勝者の感情ではない。
(何があったんだ)
不吉な予感に眉をひそめ、フィンは街に目を転じた。まだ遠いにもかかわらず、はっきりと輝いて見える紅い炎。その横でちらちらと明滅する、双子星のような光。
〈あれが炎竜と竜侯か。俺達も、向こうからあんな風に見えているのかな〉
〈竜には気付かれているみたいね。でも、竜侯の方は……外に意識を向けていないみたい。あっ〉
レーナが答え、不意に驚きの声を上げる。同時にフィンにも、その理由が分かった。竜の視界で、いきなり目の前に巨大な赤い竜が現れたのだ。
驚いて急停止し、力を集めて滞空する。炎竜が実体化していないおかげで、衝突せずにすんだ。きわめて間近に存在しながらも、薄い膜を隔てて異なる世界にいるのだ。
〈珍しいこともあるものだ〉
ゲンシャスが先に、声を送ってきた。精神に触れられてフィンはたじろいだが、青霧との初対面でのような不快感はなかった。声の送り手が竜侯ではなく竜だからか、性質が闇でなく、光に近い炎だからか。
フィンの反応が遅れた間に、レーナが挨拶を返していた。
〈初めまして。私はディアエルファレナ、絆の伴侶フィニアスと共に、ご挨拶を〉
〈我はゲンシャス。若き天竜よ、我が伴侶に会いに来たのか?〉
〈はい。あなたにも、知らせなければならないことが〉
答えと同時に、レーナがクォノスの光景を意識に浮かべる。ゲンシャスが身震いするのが、フィンにも分かった。
一言もなく、ゲンシャスの気配が目の前から消え失せる。だが、ついて来い、急げ、との意識が残っていた。フィンとレーナは再び空を翔け、遠慮も警戒もなく街の上空まで達すると、炎竜の光を目印に領主館の中庭へ舞い降りた。
使用人が驚愕し、大慌てで逃げ出す。見慣れない武装の兵士が次々に槍を持って駆けつけ、フィンと、人型になったレーナとを取り囲んだ。やや及び腰ではあるが、竜に対して過剰なまでの畏怖が見られないのは、ゲンシャスで慣れたからだろう。
(ドルファエ人だ。街は竜侯エレシアが先に占拠していたのか)
グラウスが勝ってエレシアを捕えたというわけではないらしい。外の軍団はやはり、包囲しようと布陣していたのか。それにしては城壁に近すぎるし、あの様子は戦闘を想定しているように見えなかったが……。
フィンはあれこれ考えながら、二階の窓を仰いだ。そこにエレシアがいることは分かっている。予想通り、すぐに彼女が姿を現し、手摺から身を乗り出した。
「警戒は無用、槍を引きなさい!」
鋭く命じられて、兵士は釈然としない様子ながらも一歩下がる。そこへエディオナが、階段を駆け下りてきた。忙しなく一礼し、手振りで館の中へ入るよう促す。
「竜侯フィニアス様、エレシア様のもとへご案内します」
「ありがとうございます」
フィンは丁寧に礼を述べ、エディオナの後から館に入る。兵士や使用人の動揺したまなざしが、しつこくまとわりついてきた。
なぜ、今この時に、天竜侯が。
誰もが不審がり、さいころの目が吉凶どちらを出すのか、固唾を飲んで見守っている。
エディオナが執務室の扉を開け、脇に退いた。フィンはその前を通り過ぎ――初めて、エレシア本人と対面したのだった。
エレシアはまっすぐに背筋を伸ばして立ち、油断ない視線で正面からフィンを見据えた。輝く炎色の髪が肩から腰へと波打ち、竜の目を持たない人間にさえ、炎の加護があると思わせる。だがフィンはその見せかけには騙されなかった。
(案外、力が弱いような……?)
もっと激しく熱く、近寄り難い火炎のごとき力をまとっているものと予想し、身構えていたのだが、今のエレシアを取り巻く赤い光はごく穏やかなものだった。逆にエレシアの方が、フィンを見てまぶしそうに目を細めたほどだ。
その仕草でフィンは我に返り、遅まきながら深く頭を下げた。自身の力に軽く覆いをかけるのも忘れずに。
「初めてお目にかかります、エレシア様。無礼を承知で、前触れもなく空から参りましたこと、ご容赦下さい」
「火急の知らせなのでしょう、構いません。ゲンシャスから聞きました。この際、礼儀や格式は無視して率直に話しましょう。本国――いえ、あの国で何があったのです?」
言い直したところから察するに、エレシアの敵意は消えていないらしい。フィンは気を引き締めて、災厄の動き出したことを伝えた。
話しながらフィンは、意思疎通が随分と楽なことに気がついた。言いたい事が相手に通じている、意図していることが相手の意識にも浸透している、その実感がある。普通に人間同士で話す時と違い、言葉のひとつひとつにきちんと自分の考えが載り、相手に届いているのが分かるのだ。
青霧との会話でも、なんとなく言いたいことが分かる時があった。今これだけ実感できるのは、それだけフィンが竜の力に馴染んできた証拠だろうか。
エレシアの方はそれに気付いていない様子だったが、それでも、すんなり理解出来たことで曇りのない表情をしていた。
「太古からの澱みが変化した“飢え”とは、また難物だこと。皇都に引き寄せられなかった分は、いくらか東にまで侵蝕してくるのでしょうね。そこに命がある限り。シャス、食い止める方法はある?」
〈ここに到達するまでに弱まっておれば、炎で境界線を引いて止められような〉
ゲンシャスの声がフィンにも届く。同時に、竜の言わんとするところが理解できた。底なしの飢えとは言っても、本当に無限に近いのは、その中心となるところだけだ。それが皇都で封じられ、自分自身を喰らうしかなくなっている間、逃れた断片は相変わらず何もかもを貪りながら進み続けるが……やがて、燃え草の尽きた炎のように、弱まって消える。
ただしあくまで、オルジンの罠が上手くいけば、という前提のもとでのことだ。
「皇都に封じられるかどうか、結果を見てから避難するかしないか決める、というのでは、遅いかもしれません。少なくとも、準備は始めておくように知らせて下さい」
フィンが言うと、エレシアは「そうね」とうなずいてから、ふと考え込んだ。その面に表れた迷いに、フィンはぎくりとして身構える。まさか、今こそ本国を攻撃する好機、と考えたのではあるまいか。弱りきった本国の息の根を止められる、と。
フィンの警戒を意に介さず、エレシアはうつむき加減で自分の考え事に耽りながら、彼を見もせずに問うた。
「どんな様子でした。都は……皇帝は?」
「混乱しています」フィンは正直に答えた。「向こうはこちらほど、時間に猶予がありません。それに、市民全部を逃がそうとしても、なかなか理解されませんから。とりあえず災厄の事は伏せて、ナクテ竜侯が狂気に駆られ、謀反を起こして皇都の住民を皆殺しにすべく進軍中だという話にして、ともかく全員追い出そうと必死でした。ヴァリス様は最善を尽くされていますが、率直に言って、味方が少ないので不安です」
フェルシウスが権勢を振るっていた間に、評議員は大半がヴァリスの敵に回った。議場での出来事があった為に、フィンと皇帝の警告は信用されはしたものの、だからとて彼らが皇帝の味方になったわけではない。いずれ事態が落ち着けば、必ず皇帝の責任を追及してくるだろう。市民の怒りと憤懣をそらすだけの為に、ヴァリスを公開処刑にでもしかねない。
皇都守備隊は味方だが、今は避難の誘導や暴動の警戒にてんてこ舞いで、皇帝の身辺警護に充分な人数を割けない状況だ。それに彼らもやはり、今後は人々に憎まれる立場になるかも知れない。
そうした事情を考えるとヴァリスの身が心配だが、何より、上層部のごたごたで割を食うのはいつも庶民だ。フィンは避難命令に混乱していた市民の様子を思い出し、唇を噛んだ。
真相を知らされるのはいつも後回し、自力でなんとかしろと放り出され、住む所や食べるものを確保するのに必死にならざるを得ず、外の世界で何が起こっているのかを知ろうとする余裕さえない。気がつけば生活は崩壊し、未来を見失って生き惑っている。
皇都から逃げ出して命が助かった後、大勢の評議員は人々の生活再建に尽力するだろうか。自らの保身に走ることなく?
あるいは人々は、評議員と皇帝に一切の責任を押し付けはしないだろうか。無力を責め、従うどころか協力もせず、暴徒の群れと化してしまいはしないだろうか?
暗い未来を予想すると、青霧の淡々とした声が脳裏をよぎる。その何万人を生き延びさせて何になる、と問う声が。
フィンが暗澹と黙り込んでしまうと、エレシアがふと、小さく息を吐いた。
「あの国は、滅びるのですね。もはや自死するまでもなく、わたくしが鉄槌を振り下ろすまでもなく。自らが過去に置き去りにしてきたものによって、滅ぼされる」
毒々しく意地の悪い喜びが満ちていたとしても、おかしくはない言葉だった。だがフィンにとっては意外なことに、エレシアは虚脱した様子で宙を見つめ、ゆっくり頭を振って、たった一言つぶやいたのだ。遅かった――と。
「遅かった……? どういう意味です、エレシア様」
フィンが聞き返すと、エレシアは顔を上げ、絶望に囚われたまなざしをくれた。
「もう少しその知らせが早ければ、死なせはしなかったのに」
「――!? まさか……っ、どこです! 将軍はどこへ!?」
一瞬ぽかんとし、直後、その意味を悟る。フィンは思わずエレシアに詰め寄っていた。エレシアは彼を振り払うように、大きく一歩下がる。
「もう遅いのです! わたくしは誓った、彼の首で皇帝の命を贖うと。彼の甥を殺し、家系を絶やし、かつてわたくしが受けたのと同じ仕打ちを返した! もうすべて、清算されてしまったのです!」
エレシアが混乱しているのは、出会ったばかりのフィンにも一目瞭然だった。大きな衝撃を受け、動揺し、普段の理性が失われている。状況が分からないながら、フィンはとにかく落ち着かせようとして、意図せぬまま相手の精神に触れた。
瞬間、凄まじい力で弾き飛ばされ、フィンは現実にもよろめいて、五、六歩ばかりも後ずさった。渾身のびんたを食らったようなものだ。頭がくらくらして、目の焦点が合わない。
他方エレシアは、我が身を守るように両腕を胸の前で組み、驚愕に目を見開いてフィンを凝視していた。心に触れられたことも、それに対して己がこうまで激しい反応をしたことも、共に予想外だったのだ。
眉間を押さえて堪えるフィンを見ている内に、エレシアは自分の感情に気付いた。触れられた瞬間、反射的に湧き上がった感情――思春期の少女のような、秘密を知られたくないという強烈な自意識と羞恥。それほどまでに、己の想いは強かったのか。
顔に血が上るのが自覚できた。頬が熱くなり、耳まで火照ってくる。
石になったように突っ立っている彼女の前で、フィンがようやく姿勢を正した。そして、複雑な声音で言ったことには。
「何をそんなに意地を張っているんです」
「っ、無礼な!」
思わずエレシアは叫んだが、躍起になって意地と見栄を張っているのは、自分に対してもごまかしようがなかった。そこへゲンシャスが、珍しくも優しい気配で触れてきた。
〈まだ間に合うぞ〉
「……え?」
〈マリウスは将軍を死なせたくないようだ。なんとかして、人目を避けて生き延びさせようと、あの手この手を考えておるわ。将軍の方は潔いものだがな〉
「早く言いなさい!!」
ダン、と思わず足を踏み鳴らして怒鳴る。ゲンシャスの気配が笑いながら遠ざかった。
子供じみたエレシアの振る舞いを、フィンは呆気に取られて見ていた。その目の前で、エレシアを包む炎の輝きが見る見る明るくなってゆく。
こほんと咳払いして、エレシアは強引に威厳を取り繕った。
「少し思い違いをしていたようです。こちらへ――そなたの口から、将軍に警告を伝えなさい」
詳しい説明はせず、ただ、ついて来い、と歩き出す。フィンは目をしばたいたものの、賢明にも黙ってそれに従った。




