6-1. 混乱
六章
真夏の太陽を浴びて、皇都の城壁は白っぽく光っている。昨日から一睡もしていないフィンの目には、眩しいほどだ。しかめっ面で瞬きし、顔をこする。
短く浅い睡眠しかとれないのは慣れているが、流石に徹夜はつらい。皇帝の用事が何であれ、せめて少しは眠らないと。
本心ではこのまま城壁を飛び越えて王宮に直行し、帰着の報告だけ済ませて、納屋の隅でも借りて眠りたいところだったが、フィンは堪えて街道の外れに降りた。先日は危急のこととて、王宮に竜で乗りつけるなどという暴挙をしてしまったが、よく考えると失礼極まりない。身分がどうという以前に、他人の自宅にいきなり飛び込むとは――と、少なくともそれがフィンの考えだった。世間一般がどう取るかはともかく。
律儀にてくてく歩いて城門に向かっていると、賑々しい一団が街道を下ってきた。裕福な家族連れらしく、使用人も含め大所帯だ。行李や袋を満載した荷馬車と、婦人と子供用の小さな馬車を、徒歩の使用人が取り囲んでいる。飼い犬まで一緒だ。先頭を歩くのは息子達らしい。すぐ後ろに、馬の背で揺られる主人らしき男が続く。
早くも避難を始める一家だろうか、とフィンは目をしばたいたが、彼らを取り巻く空気の明るさに、そうではないと気付いた。
「こんにちは。南へ向かわれるんですか」
フィンが声をかけると、先頭にいた青年がにっこりして答えた。
「ええ、オルドスまで! いい席を確保するには、今から行っておかないとね!」
「そうですか。楽しい道中になりますよう」
「ありがとう!」
陽気に手を振って、一家が通り過ぎて行く。どうやらまだ何も知らず、櫂船競争の終着点で一番良い眺めを確保するため、総出で旅行と決めたらしい。運の良い家族だ。
(ほかにも、お祭り好きで気の早い人が出発しているといいんだが)
少しでも人が減れば、それだけ後が楽になる。しかし楽しい旅行のつもりで出かけた一家が、後で事態の急変を知ってどう思うだろうか。運が良いと喜ぶだろうか、それとも、あれもこれも置き去りにしてきたと悔しがるだろうか。
(まあ、犬まで一緒に連れて行くぐらいだから)
残してくるのでなかったと悔やむほどのものは、ないだろう。フィンは一人ほろ苦い笑みを浮かべ、頭を振った。
ふたたび歩き出して間もなく、彼は墓地の間に何かを見付けてまた立ち止まった。
「……?」
首を傾げて墓石の陰を覗き込むと、城壁と墓地の間で、黒い長衣の人影がうずくまっている。フィンは思わず小走りでそばまで近寄った。
「大丈夫ですか、具合でも……」
問いかけた矢先に、うずくまっていた人影がごそりと立ち上がる。枯れ枝のような手で制されて、フィンは慌てて立ち止まった。同時に、相手の足元に存在する小さな力に気付き、顔をしかめる。腹の中を細い管で掻き回されるような、独特の不快感。
「何の魔術です」
押し殺した声でささやく。見渡すと、同じような気配を持つ小さな点が、ぽつぽつと城壁に沿ってずっと続いていた。皇都をぐるりと囲んでいるのだろうか。
その様子が脳裏に描かれた瞬間、フィンはぎくりとして相手を凝視した。まさか、
「皇都を封鎖するつもりですか」
市民を閉じ込め、あの“災厄”に――かつて主だった男に、捧げるつもりだろうか。フィンは無意識に、剣の柄に手をやっていた。
と、オルジンは乾いた声で「さよう」と短く答えた。逃げ隠れする様子も、フィンの警戒に対して言い訳する様子もない。フィンは妙な顔になり、剣から手を離すと、もう一度改めて魔術師の仕込んだものをよく見てみた。今度は、竜の視力で。
魔術の気配を帯びた点が、皇都を完全に囲んでいる。だが今はまだ、どれもが静かだ。竜侯だから分かる微かな引力が、網の目のようにつながって、何かを取り込もうと待ち受けている。
何かを? 決まっている、あれを、だ。
思わずフィンはぽかんと口を開け、目を丸くした。オルジンはまったく動じない。
「もしかしてこれは、あの“飢え”を、皇都に閉じ込める為の?」
「理論上は。しかし実際に試したわけではありませんので」
淡白に答え、オルジンは微かに肩を竦めた。フィンは唖然として魔術師を見つめていた。
それほどの事が出来るのなら、なぜそうと言わなかったのだ。言ってくれれば、少しは対策も……
(いいや、言わなくて正解だったんだ)
保証のない魔術を当てにして避難が遅れてはいけないし、そもそも皇都を餌にして檻に閉じ込めるようなものだ。そんな事が出来るならよそでやれ、などと言い出す者もいるだろう。皇都ではなく、どこか人のいない野原の真ん中ででも、と。
それは不可能だと納得させるのは難しいだろうし、議論している時間もない。
闇の獣が人の欲や活動を憎むように、あの“飢え”もやはり、最も活気に満ちたところを目指して来るのだろう。底知れない飢えと渇きを癒すのに、一滴の水では足りないから、満々と水を湛えた湖を目指して。だから、皇都でなくてはならないのだ。
フィンは小さく咳払いして、どうにか平静を取り戻した。もっとも、眼前の魔術師はフィンが仰天しようが腰を抜かそうが、騒ぎ立てない限りは気にも留めないだろうが。
「この……網というか結界で、すべてを捕らえるわけにはいきませんか」
答えを予想しながら、念のために確認する。案の定、オルジンは「無理でしょうな」と応じた。
「主体は皇都を目指して来るでしょうが、残りはあらゆる方向へ拡がってゆくでしょう。目の前にあるものを喰らいながら、闇雲に。ともかく、すべては実際に起こるまで何とも言えませんな」
他人事のような言い草に、フィンは困惑してしまった。
「あなたも危険なのでは?」
「恐らく。しかしあなたには関りのないことです」
ご自分の務めを果たされよ、と、すげなく追い払われて、フィンは後ろ髪を引かれながらも街道に戻るしかなかった。すごすご退散しかけた背中に、オルジンが思い出したように注意した。
「私を助けるべき弱者と勘違いされぬように。竜の力――わけても天竜の力は、あれを強烈に引き寄せる。喰われたくなければ、離れておいでなさい」
「分かりました。ご忠告ありがとうございます」
フィンはぺこりと頭を下げると、それ以上は邪魔をしないことに決めて、城門に向かった。
門の衛兵は皇都守備隊の兵士だ。レーナが降りるところを見ていたのだろう、フィンが近付くと背筋を伸ばして敬礼した。無言のままフィンを通しながらも、表情は雄弁に、どうだったかと尋ねている。フィンは足を止め、小声で逆に質問した。
「西や北に向かった人はいませんか」
「昨日からは一人もおりません、閣下」
兵士もうんと声を潜めて答える。クォノス方面に向かう者がいれば、何とか口実をつけて足止めするか、行き先を変えさせねばならないところだが、しばらく前から既に、そちらとの往来は激減しているという。
実際、フィンが見てきた状態からすれば、人の行き来がなくても当然だった。
農作業に励む人の姿もなく、町や村には生気を失った人々がうっそりとたむろし、体に染みついた習慣だけで生活していた。何らかの加護を授かっている者はほとんどおらず、とうにどこかへ避難してしまったらしい。
舞い降りた竜の姿にさえ反応しないほど、誰もがすっかり鈍っている。ネリスやマックが直面した状況と同じだ。
だがフィンにはレーナがいた。彼はもはや遠慮している時期ではないと判断し、荒っぽい手段に訴えた。すなわち、強烈な光を叩きつけるようにして人々の意識に送り込み、目を覚まさせたのである。
それでも効き目のない者もいたが、大半は何か行動せねばという意志を取り戻し、遅まきながら退去に取りかかった。間に合うかどうか心配ではあったが、フィンも留まって世話をすることは出来ない。地面にしるしをつけて、すぐにまた西へ向かう。その繰り返しで、限界までクォノスに近付く頃にはとっぷり日が暮れていた。
疲労困憊して戻る途中でも、フィンは上空から人里離れた所に明かりを見つけると、降りて人の状態を確かめた。そんなこんなで、帰りつくのがすっかり日の昇った後になってしまったのだ。
フィンは門番に、状況はそれほど絶望的でもないとだけ告げて、おざなりながらも安心させてから、門をくぐった。
王宮まで歩いて行くと、情報の伝わり方がよく分かった。どうやら議会は、最初に貴族や大商人など、多くの使用人を抱える層に退去命令を出したらしい。下町では落ち着かないながらも日常が続いていたが、大店の並ぶ辺りでは、ほとんどの店が営業を取りやめ、片付けにかかっている。
日用品の小売店は、逆に客でごった返していた。屋敷の使用人や、噂を聞きつけた庶民らが、今の内に保存食や石鹸等、日常生活に必要なものを買い込もうと詰めかけているのだ。
店主が価格を吊り上げないよう、客が略奪に走らぬよう、守備隊兵士が頻繁に巡回しているので、暴動などは起こっていないが、客は既に目を血走らせて品物を奪い合っている。肘で他人を押しのけ、突き飛ばし、誰かがよろけ倒れても無視して。無理もないとは言え、浅ましい光景だった。
そんな中でも、稀には冷静な姿が見受けられた。突き飛ばされた老人を助け起こし、庇いながら買い物を手伝う女。客を断固として順番に並ばせ、一人当たり一定の分量以上は売ろうとしない店主。フィンの目には小さな光の欠片が宿って見える人々。
(俺にも何か出来る事はないんだろうか)
フィンは通りを急ぎながらぼんやり考えていたが、見る限りでは、彼の出る幕はなさそうだった。カリュクスが兵士を上手く配分しているお陰だ。
皇都にフィンの仕事はない、という点は、ヴァリスも同意見だったらしい。
彼が王宮に着いて状況を報告すると、彼はフィンの眠そうな顔など目に入らぬかのように、重要な役目とやらを持ち出してくれた。
「では、竜侯フィニアス、そなたには使者の務めを果たしてもらいたい。ノルニコム州都コムスへ向かい、竜侯エレシアに、ことの次第を知らせるのだ」
「――!?」
さすがにフィンの眠気も吹き飛んだ。目を丸くして絶句し、自分の聞き違いかと疑いながら立ち尽くす。ヴァリスは相変わらず、涼しげな表情のまま続けた。
「まともな使者が赴いたところで、話を聞きもせぬだろう。聞いたとて本気にはすまい。同じ竜侯であるそなたが行けば、信用されるはずだ。東の戦が一時的にでも鎮まれば、グラウスも兵を動かしやすくなろう。我々に合流するか、そのまま東部を南下して沿岸まで出るか、いずれにしてもな」
「ですが……皇都で市民の避難を手伝う方が良いのでは?」
フィンは自信なさげに問うた。ノルニコムは遥か東だ。災厄の主体は上手く行けばオルジンの罠にかかって皇都で足止めされるから、仮に東の果てまで拡大するとしてもその進行は遅いだろうし、早馬を遣わせば充分間に合う。
だがヴァリスは首を振った。
「皇都の混乱は、我々が引き受けるべき問題だ。そなたがうろうろすると、市民は余計に落ち着かぬ。自分だけ助かろうと、そなたに特別扱いを頼む輩も現れるだろうし、竜侯ならばあらゆる災厄を退けられると勘違いして、何とかしろと詰め寄る者もいよう。そうした騒ぎのせいでそなたに害が及ぶのも、避難が遅れるのも、馬鹿げている。それよりは、ノルニコムに恩を売りに行って貰うのが数倍得策というものだ」
ヴァリスは皮肉な微笑を浮かべた。いかなエレシアでも、自らが滅ぶやもしれぬ瀬戸際にわざわざ警告を送って寄越した相手に、最後の一撃を加えようと攻めて来ることはあるまい。それが積年の恨みを抱く敵であっても。
「付け加えるなら、たとえグラウスとエレシアが交戦中でも、そなたならば天高くを飛んで戦場を越え、領主館の庭にでも降りられよう。危険ではあるが、普通の人間よりは遥かに安全だ。違うか?」
王宮に乗りつけたことを言外に揶揄され、フィンは曖昧な顔になった。その間もヴァリスは自分の話を続けている。
「そなたの推測が正しければ、少なく見積もっても猶予はあと四日ほどある。クォノスから災厄が溢れ出した後の進行速度はわからぬが、予想外に速いとしても知らせは間に合うだろうと考えている。どうだ」
返事を促され、フィンは声に出さずにレーナと相談する。少し考えてから、彼は慎重に答えた。
「そうですね、急げばコムスから皇都まで、半日で戻れるでしょう。あるいは、レーナだけなら瞬きひとつの間に戻れます。ただしその為には、陛下と一時的な“つながり”を作っておく必要がありますが」
「竜と竜侯の絆のようなものか?」
「ずっと弱くて浅いものです。ただ、少し……心に触れられるような、独特の感覚がありますので。気が進まなければ、止しておきます。強引につながりを作っても、すぐに切れてしまいますから」
フィンはあくまでヴァリスに遠慮するように言ったが、実際のところ、無理をするとレーナにとっても嫌な経験になるのでさせたくない、という気持ちの方が強かった。人間の都合で竜の能力をいいように使うこと自体、厚かましいではないか。
ヴァリスはそこまで察しはしなかったが、やや遠慮する表情になった。
「それは……そなたと天竜との絆を、邪魔することにはならぬだろうか?」
「ご心配なく。陛下さえ受け容れて下さるなら、ごくささやかな影響しかありません。レーナにとっても負担にはなりませんので」
「そうか。ならば、頼むとしよう。いと気高き天竜を伝令代わりにするなど、いささか不遜と思わぬでもないが……万一そなたが囚われてしまえば、半日で届く知らせが半月かかることにもなりかねん。その点、竜ならば不安はあるまい」
縁起でもない仮定をされて、フィンの中でレーナの意識が動揺する。慌ててフィンはそれをなだめるはめになった。顔に出さずに何とかするのは、かなり難しかったのだが。
同じ頃、ルフスは馬を駆ってナクテの領主館に戻っていた。
つい先日ナクテを発ったばかりの軍団長が、わずか数騎の供だけで血相を変えて戻ってきたものだから、館は大騒ぎになった。
「ルフス! いったいどうして、こんなに早く」
驚きながら迎えたフェルネーナに、ルフスは忙しない抱擁をして答えた。
「災厄が目を覚ました。軍団はほとんど全滅だ。すぐに屋敷の者すべてを集めて、避難の準備を始めさせてくれ」
「避難!? どこへ?」
「南か、西か。海まで逃げるか大森林に逃げ込めば安全だ、と天竜侯が言っていた。恐らく南が近いだろうな」
ほとんど独り言のように答え、その言葉が終わるか終わらないか、駆けつけた秘書に市議会の招集を命じる。唐突な事態にフェルネーナはついてゆけず、すっかり困惑してしまった。
「落ち着いて、ルフス。何を言っているのか、訳が分からないわ。とにかく一度座って、お水を飲んで息を整えてから、順番に説明して頂戴。そもそも災厄ってなんなの?」
「私にも分からない」
険しい顔で答えたのは、妻と話している時に現れる『僕』のルフスではなかった。今も背後にぴったり脅威が迫っているかのように、軍団長としての態度を崩さない。フェルネーナの言葉を受けて召使が水を運んできたが、目をやりもせず手だけ動かして杯を取り、一息に飲み乾した。
「皇帝陛下から、クォノスを避けて南寄りの進路をとれ、との指示が届いた。その直後だ。軍団全体が、命令を無視して勝手に動き出した。まるで何かに取り憑かれたように……そこへ天竜侯が来て、教えてくれたんだ」
ルフスがフィンから聞いた話を繰り返すと、フェルネーナは難しそうな顔になった。
「つまり、その災厄の正体は分からないけれど、人の心や命を蝕むものだから、逃げなければならないというのね。クォノスはどうなっているのかしら。お父様がいらした筈よ」
「確かめようもないな。無事を祈るだけだ」
言いつつも絶望が声に滲んでいる。ルフスは以前クォノスで感じた、大地が崩れ落ちて呑み込まれそうな恐怖を思い出して身震いした。あの時の予感が現実になったのだとしたら、逃れられる人間がいるとは思えない。
フェルネーナは夫の態度から、深刻な事態だと理解すると、ぐっと顎を引いてうなずいた。
「分かったわ。ともかく避難を始めましょう。あなたは市議会の説得に向かわれるのね? それなら、私はここで荷造りさせる間に、何通か手紙を書いておくわ」
そこで彼女は軽くおどけ、お茶会仲間にね、と付け足した。ルフスが奇妙な顔をしたので、フェルネーナは真顔に戻って続ける。
「あなたはお祖父様と違って、私たち女の集まりを過小評価してはいないでしょうね? それぞれの街で避難に取りかかって貰うのは勿論だけれど、災厄がどこまで拡がるかは分からないのでしょう。ナクテの避難民が一時的に身を寄せることになるかもしれないし、災厄が終息した後で食糧不足になったら元も子もないわ。備蓄を確保しておいて貰わなければ。皆の協力が必要なのよ」
「ああ、なるほど」
ルフスは得心してうなずいた。灰金色の目にからかう気配を浮かべ、顔つきだけは真面目ぶって感心する。
「いつの間にか、僕の賢い奥さんは、西部一帯の女領主になっていたようだね」
「上下関係じゃないのよ」フェルネーナは苦笑した。「殿方はすぐに序列を作りたがるようだけれど、私たちは互いに手を伸ばして輪を作るの。誰かが倒れそうになったら、皆で支えることが出来るようにね。ともかく、私は私の仕事をします。あなたはあなたの務めを果たしに行って。でもお願い、五体無事に戻って来てね」
しっかりした態度を保ってはいるが、言い終えた途端に、昔の面影が覗いた。ルフスが出会ったばかりの頃のような、自尊心は強くとも決断力や行動力に欠け、誰かが庇護し足元を整えてくれるのが当たり前の世界で育った、お嬢様の弱さが。それゆえ彼に憧れと尊敬のまなざしを注いでくれた、純真さが。
ルフスは優しく微笑むと、深々とお辞儀をして答えた。
「君が必要としてくれる限り、いつどこからでも必ず戻って来るよ。愛しい人」




